S.N.A.F.U. (6) 前編 [S.N.A.F.U.]

 「ダメです。」

 何かをねだる度に草加亮の母親はそう言って息子を黙らせた。

 少年にとって親は絶対的な存在であった。特に母親の影響は大きく、草加亮にとって彼女の言葉には決して逆らうことができなかった。

 小さい頃からテレビ番組の視聴は「暴力的になる」という理由で禁止され、同じ年の子供の間で流行っていたアニメ番組の話しに付いて行けず、同級生から奇異の目で見られることがあった。また、友人たちが新しいゲーム機で遊び始め、亮も母親にゲーム機が欲しいと頼んだが、彼の両親は「ゲームには不適切な表現が多い」と言って拒否した。

 不満はあったが、絶対的な存在である親に逆らおうと考えたことは一切なかった。親への愛もあったが、それ以上に嫌われたくないという気持ちが大きかった。多くの同級生と違う家庭環境だったので、友達の数も減り、気付けば学校で話す相手はいなくなっていた。同級生に話しかけようにも、彼の同級生たちは草加亮とその家族は変わっていると思われており、距離を開けるようになった。ゆえに少年であった草加亮は両親だけには嫌われたくないと思うようになり、両親を喜ばせようと努力した。

 中学生になってもこの状況は変わらず、高校に入学すると両親が離婚して草加亮は母親と共に家を出て小さなアパートで暮らすようになった。父親に捨てられたと思った草加亮はショックを受け、母親には絶対に嫌われないようにと細心の注意を払って接した。

 母親との暮らしは楽ではなかった。経済的に生活が苦しかったので、草加亮はアルバイトすることを母親に告げた。喜ばれると思ったが、母親は「余計な心配はしなくてもいい」と言って息子を突き放した。母親の言うことは絶対であったが、草加亮は内緒でアルバイトをして母親の財布に自分の給与の半分を入れていた。残りは大学進学のために貯金し、いずれは母親に負担を与えずに公立の大学へ行こうと考えた。

 家計を助けることはできたが、学力は低下した。それまでは十分に給付型の奨学金を受ける資格を持っていたが、学業とアルバイトの両立ができなかった草加亮の学力は下がり、貸与型の奨学金を応募するしかなかった。そのことを母親に告げると、彼女は顔を真っ赤にして息子の顔を何度も平手で打ち、手が痛くなると床に崩れ落ちて大きな声を上げて泣き始めた。

 草加亮にとって両頬に残る鈍い痛みよりも、泣き崩れる母親を見下ろす方が苦痛であった。

 「ごめんなさい、お母さん…」












『S.N.A.F.U.』








 CU。

 それは壁に大きく血で書かれていた。科学捜査係が忙しなく背後を歩き回る中、警視庁捜査第一課殺人犯捜査第4係の佐々木直哉は壁に書かれた文字を見つめ、その意味を考えていた。

 現場は東京都内にあるビジネスホテルの一室であり、その部屋に宿泊していた男性の名前は『久野雅人』であった。この部屋で見つかった男性の遺体の口には靴下が押し込められ、両手足はビニールの紐で縛られてベッドの上に寝かされていた。顔は赤く腫れ上がり、所々皮膚の割れた箇所があった。衣服は身に着けておらず、体中に真新しい複数の痣を確認することができた。また、彼の腹部には大きく十字に切り裂かれた傷跡があり、傷口はホッチキスの針で荒く閉じられていた。

 男性の身元は、現場に残されていた自動車免許証からこの部屋に滞在している久野雅人だと推定された。部屋に荒らされた形跡はなく、血痕はベッドとバスルームにしかなかったので、バスルームで殺害された可能性が高いと考えられた。

 この男性客を対応したフロントの女性スタッフによると、久野雅人に変わった様子は見られず、男性が部屋に入った後も何の問い合わせもなく、来客もなかったと述べていた。

 「暴力団絡みか?」同僚の刑事が佐々木の隣に並んだ。

 「分からん。」壁に書かれた文字からベッドの遺体に視線を移して佐々木は言った。「暴力団にしては派手な気もする。」

 「見せしめに殺したのかもしれない。」佐々木の横に並ぶ狩野俊雄も遺体を見た。

 「そうかもしれないが…」

 遺体の腹部にある傷跡を見つめていると佐々木は異変に気づいた。最初は気のせいだと思ったが、それは再び赤く腫れ上がった傷跡の近くで動いた。目を凝らし、ベッドに横たわる遺体に近いづいて動く何かを確認した。その直後、部屋にいた捜査員全員は死体の中に隠されていた爆弾の衝撃で吹き飛ばされた。
 


***



 クリアフォルダを片手に井上大輔は病院の廊下を歩いていた。

 廊下には早足でヒールの音を響かせながら数メートル前方を歩くスーツ姿の女性、井上の方に向かって歩いてくる男性看護師に付き添われた高齢の男性、そして、松葉杖をついて歩く9歳くらいの少年がいた。少年は疲れたのか一度立ち止まり、その時に井上と目が合った。

 紺色の襟付き半袖シャツに色褪せたジーンズ姿の井上は少年に笑顔を向けた。

 「頑張れ!綺麗な看護師さんたちのいるトコまでもう少しだぞ。」右拳を一休みしている少年に見せて井上がイタズラな笑みを浮かべた。

少年は頬を赤く染め、再び松葉杖をついて歩き始めた。

 一生懸命に前へ進む小さな背中をしばらく見つめた後、井上は前を見て歩き出そうとした。すると、見慣れた顔の女性看護師を見つけた。彼はこみ上げてくる笑みを抑え、口元をヒクヒクと動かしながら彼女に近づいた。

 井上に気がつくと女性看護師は口元を緩め、それを確認すると捜査官は我慢していた感情を解放した。

 「マルちゃんのダイエットは継続中ですか?」女性看護師が最初に口を開いた。

 「食事制限はしているんですけどね、リンくんのおウチに行くと美味しい物が食べれるようでね…」

 「私のせい?」

 「いや、ぽっちゃりになったのはオレのせいかな?」

 二人は共に微笑んだ。この女性看護師は、井上の飼い猫である猫座衛門と仲の良い猫の飼い主であり、猫たちの交流が二人を結びつけた。名前は岩田麻美といい、偶然にも彼女は野間秀俊の交戦後に井上が搬送された病院に勤務していた。だが、彼女は井上の身に起こった詳細を知らなかった。井上も詳しくは話さず、帰宅中に事故に巻き込まれて腕と脚をケガしたとしか言っていない。それに彼は彼女に「警察官だけど、やってるのは書類整理」と嘘をついている。

 「岩田さん!」井上の背後から声が聞こえてきた。振り返ると、別の女性看護師がいた。

 「ゴメン。仕事が終わったら連絡するね。」岩田は右手を小さく振って井上の横を通り過ぎた。

 「オッケー」捜査官も手を振り返し、彼女が同僚と合流するのを見ると下の階にある会計へと歩を進めた。

 井上はメインエントランスの自動ドアと総合窓口、その近くに並ぶソファーを見下ろせる道を歩いていた。ふと自動ドアへ視線を向けた時、彼は黒い服を着た4人組の男が二列に並んで自動ドアを抜けるのを見た。男たちは二手に分かれ、1組は会計カウンターへ、そして、もう1組は井上の目指しているエスカレータへ向かった。

 歩調を緩めずに井上は男たちの動きを注視した。会計カウンターへ向かった二人組の姿は見えなくなったが、エスカレーターに向かう二人組の姿は確認できた。男たちは服と同じ色のメッセンジャーバッグを持っており、エスカレーターに乗ると鞄の中に右手を入れた。その直後、間断のない轟音が井上の真下から聞こえ、その音は壁と天井に反響してその場に鳴り響いた。

 その音が銃声だと気づくと捜査官は反射的にしゃがみ込み、素早く右手を腰へ伸ばした。しかし、彼の手が求めていた物を掴むことはなかった。

 〝そうだ…休暇だから銃なんて持ってねぇ!〟

 当初、銃声は井上の真下から聞こえてくるだけであったが、エスカレーターを使って2階に上がってきた別の二人組も発砲を始め、けたたましい銃声がフロア全体に響いた。新たな銃声と共に耳朶を震わせるような悲鳴と怒号が井上の耳に飛び込んできた。彼は発砲している男たちの位置を確認するために頭を上げ、その際に短機関銃を発砲しながら歩いている男と目が合った。

 〝ヤッベ!〟

 井上と目の合った男は短機関銃の銃口を捜査官に向け、複数の銃弾が井上の頭上をかすめて壁に命中した。

 心拍数が急激に上昇したが、井上の判断能力は鈍っていなかった。彼は敢えて姿勢を低くせず、相手の注意を引くために来た道を走って引き返し始めた。案の定、井上に狙いをつけていた男は彼に向けて発砲し、その隣にいた彼の仲間も走って逃げる捜査官を見つけると井上に向けて銃撃を加えた。

 銃弾は井上の後を追うように壁やガラス張りの柵に命中し、逃げる相手を仕留められない二人の男は一度発砲を止めて再装填をしながら捜査官の後を追った。

 必死に逃げている井上は曲がり角に直面すると、右足から滑り込んで壁の陰に飛び込んだ。急いで壁に背をついて立ち上がろうとした時、隣から小さな悲鳴が聞こえて捜査官は素早くそちらへ顔を向けた。そこには4歳くらいに見える孫娘を抱えて座り込んでいる高齢の女性がいた。

 「大丈夫ですよ」額に薄らと汗を浮かべる井上が怯える二人に笑顔を向けた。ふと彼の視線の端に高齢の女性が使っていたと思われる杖が目に入った。「お借りしてもいいですか?」杖を指差して井上が尋ねた。

 高齢の女性は小さく頷き、井上は「ありがとうございます」と言って杖を取ると立ち上がった。壁の角に立った井上は顔を半分出して廊下の様子を窺い、駆けてくる二人の男を確認した。先頭に井上と目の合った男、その後を少し遅れてもう一人の男がいる。

 〝やるしかないな…〟高齢の女性と小さな子供のことを考えると、井上はここで二人の男と対峙するかないと考えた。彼はTの字になっている杖の持ち手を右手で掴み、左手は杖の先端から少し上の部分を掴んだ。

 床を通じて男たちが近づいてくるのを井上は足に感じていた。そして、接近してくる相手の影を曲がり角から確認するや否や、彼は上半身を出して杖を突き出した。

 腹部に向けて突き出された杖であったが、それは先頭を走っていた男の股間に命中し、攻撃を受けた男は目を見開くと同時に口を大きく開けて声にならない悲鳴を上げた。形容し難い痛みに男は両膝を内側に向けて前屈みになった。

 井上は素早く男の右横を通り抜け、少し遅れて走っていた男に近づいた。

 捜査官の姿に気付くと、男は短機関銃の銃口を向けて引き金を絞った。銃弾が発射される直前に井上は相手の短機関銃を左手で掴んで押し退け、その際に短機関銃から銃弾が発射されて捜査官の手の中で跳ね上がった。銃弾は両手で股間を抑えてしゃがみ込んでいる男の頭上を通過し、廊下の突き当たりにある壁に命中した。

 捜査官は銃弾が発射されても短機関銃から手を離さず、右掌底を男の鼻頭に叩き込んだ。相手が怯むや否や、彼は右手を一度引き、下から包み込むようにして短機関銃を掴むと銃を反時計回りに回転させた。

 今まで外を向いていた銃口が自分に向けられ、男の目は短機関銃に釘付けとなった。その隙を突いて井上は右膝蹴りを相手の股間に入れ、その勢いを利用して短機関銃をもぎ取った。

 素早く井上は短機関銃の遊底を引き、周囲に銃口を向けて安全確認を行った。遊底を引いた際、薬室にあった銃弾が排出され、大きな音を立てて床に落ちた。彼の足元には悶絶している二人の男がいるだけで、近くに脅威はなかった。しかし、捜査官は遠くから聞こえる銃声を聞いて危機感を抱いていた。

 〝4人じゃない…もっといるな…〟

 井上は黒い服を着た2人の男からチェコスロバキア製のVzに似た短機関銃とメッセンジャーバッグを取り上げ、男たちが着ていた長袖シャツを利用して両手を後ろで縛り上げた。鞄の中には短機関銃の予備弾倉の他に手榴弾2つが入っていた。

 〝なかなか良いモノ持ってんじゃん…〟

 捜査官は全ての武器を一つの鞄にまとめ、それを右肩からたすき掛けした。右手に短機関銃を持って、井上は曲がり角の先で孫娘を抱えている老婆に近づいた。

 彼の姿を見た老婆は悲鳴を上げて孫娘を抱きしめた。

 「大丈夫です」井上は銃を左脇に挟めて両手を上げた。「アイツらの仲間がまだいると思うので、お孫さんと隠れて下さい。」

 「ど、何処に?」目の前に立つ男性捜査官に疑いの目を向けながらも老婆が尋ねた。

 「この少し先に面談室があります。私がそこまで案内します。歩けますか?」井上が右手を老婆に差し伸べた。



***




 「一体どうなってんだ?」JCTC第2課の課長の風見卓が誰となく尋ねた。

 「それが分かれば苦労しませんよ…」第3課課長の袴田照雄が応えた。

 二人の前では部下たちが忙しなく電話で話し、パソコンの画面を睨みながら作業を行なっている。彼らはJCTC本部の5階にある大会議室で合同捜査本部を開き、2時間前に起きた事件の情報収集を行なっている。

 今から2時間前、JR京浜東北線の大森駅に近いビジネスホテルの6階で爆発が発生した。この爆発によって、部屋にいた6名の捜査員が死亡し、その内の2名は爆風で吹き飛ばされた後、部屋の窓を突き破って外に放り出された。6階から落ちた遺体は原形を留めていなかった。

 廊下でホテル従業員に聞き込みを行なっていた捜査員たちも、爆発の衝撃を感じており、ドアの近くにいた捜査員たちは爆風を浴びて壁に叩きつけられていた。

 その報せを受けるとJCTCは素早く情報収集を開始した。そして、錯綜する情報から手がかりを掴もうとしていた最中、品川区、港区、目黒区にある3つの病院で銃撃事件が発生した。

 「JCTCはこんな時のために作られたのです。」第1課課長の一文字武志が口を開いた。彼は風見と袴田の間に座っている。「しっかりと役割を果たそうではありませんか…」

  彼ら3人から少し離れた場所で半田弘毅は部下の井上へ連絡を試みていたが、部下が電話に出ることはなかった。

 「出ないんですか?」半田の隣にいた浦木淳が尋ねた。

 「あぁ…」井上が電話に出ないことに苛立ちながら半田が答え、彼は再び井上の番号にかけた。

 「班長!」半田の前にある机で作業している分析官の増井仁美が大会議室を飛び回っている大声に掻き消されないように叫んだ。

 「どうした?」電話を一度切り上げると半田は片手を机について、分析官のノートパソコンの画面を覗き込んだ。

 「井上さんから電話です。班長の電話に転送しましょうか?」

 「頼む。」

 上司の返事を聞くや否や増井は井上からの電話を半田のスマートフォンに転送した。

 「井上、すぐ本部に来い!」半田が開口一番言った。

 「行けたら、行きたいんですけど…」受信口から井上の抑えた声が聞こえてきた。

 「ふざけてる暇がない。すぐに来い!」

 「班長、行きたいんですけど…今いる病院が襲撃されてまして…」

 半田は虚を突かれて言葉を失った。この通話を聞いていた増井も驚いていた。

 「班長、聞こえてます?」

 井上の声を聞いて半田は我に返った。

 「増井、井上との電話を会議室のスピーカーに繋げ。」

 指示を受けると女性分析官は止まっていた手を素早く動かし、会議室のスピーカーとの接続を行った。

 「井上、状況を教えてくれ。」

 「黒い服を着た4人組の男が病院の正面玄関が侵入し、その後1階と2階へ分かれて短機関銃の発砲を始めました。しかし、銃声の数からして、裏口からも侵入しているかもしれません。」

 井上の声が会議室に響くと作業していた捜査員たちは手を止め、スピーカーから聞こえてくる声に耳を傾けた。

 「民間人の安全を優先し、2階に進んできた二人と交戦し、拘束しました。装備は短機関銃と手榴弾2つです。」

 「拘束した男たちの顔写真を撮って、こっちに送ってくれ。」第2課第4班の班長である後藤田文博がマイクを使って井上に言った。

 「現在移動中なので無理です。」

 「無事なのか?」半田は部下の身を案じた。

 「俺は大丈夫です。でも、病院にはまだ多くの人が-」

 「それよりも情報収集だ。」後藤田が井上を遮った。「ソイツらの身元を確認する必要がある。」

 「ちょっと電波が悪いみたいなので、かけ直します。」

 その後、スピーカーから微かに聞こえていた雑音がなくなり、それは通話が終了したことを告げていた。

 「もう一度、電話をかけろ!」後藤田が増井に向かって怒鳴った。

 「分かりました。」女性分析官は後藤田の声に怯えたが、すぐにリダイヤルした。

 呼び出し音が数回鳴ったが、井上が電話に出ることはなかった。

 「クソッ!」後藤田が悪態ついた。「半田さん、彼はあなたの部下ですよね?一体どうなってるんですか?」

 「何か事情があるのかもしれません。引き続き井上との接触を試みます。」そう言うと半田は後ろにいた浦木と新川真衣の方へ振り返った。「装備を整えろ。その間に井上のいる病院を特定する。おそらく徳英病院だと思うが、念のために調べる。」半田は井上が負傷した後に通い続けている病院を知っていた。

 「了解。」浦木と新川は急いで大会議室を後にした。

 「増井と柄沢は井上のいる病院を特定し、現場近くにいる捜査員に井上からの情報を提供してくれ。」

 「半田くん…」大会議室のスクリーンにいる第2課の課長、袴田が部下に近づいた。「井上という男は大丈夫なのかね?」

 「彼は優秀な捜査官です。おそらく連絡できない状況にあるのでしょう。またすぐに連絡が来ると思います。」

 「ならいいが…」半田の応えを聞いても袴田は納得できなかったが、今は信じることしかできないと思い、自分のいた席へ戻った。



***



 ルームミラーで近づいてくる坊主頭の男を確認すると、眉毛の太い男は車のエンジンをかけた。再びルームミラーを見た時、坊主頭の男が助手席のドアを開けて乗り込んできた。

 「あまり変わらないな…」眉毛の太い男が助手席に座る男の横顔を見て言った。

 「いいから出せ。」坊主頭の男が運転席にいる男を睨みつけた。

 それを聞いた男は呆れながらギアをDに入れて車を走らせた。

 「尾行は?」運転席にいる眉毛の太い男が尋ねた。

 「ある程度は巻いた。今朝の件で俺への警戒は薄くなってるようだ。」

 助手席に座る坊主頭の男の名は金村浩一と言い、2ヶ月前に起きた新幹線爆破事件の主犯であった津上翔一を始末するように命じられていた。しかし、津上とその交際相手を追いつめたところで、浦木と交戦して逮捕された。

 逮捕後、JCTCの取り調べを受け、その後に久野雅人の部下二人を殺害した罪で起訴されるところであった。だが、検察は金村の殺意を証明する証拠が無いと判断した。検察によると、金村は初犯であるが、殺害された二人には傷害と強盗の前科があったので、金村の正当防衛の可能性を示唆した。また、津上とその交際相手は被害男性たちと関わりのある左翼組織として繋がりがあるため、検察は二人の証言に信憑性がないとした。これによって金村は不起訴となった。

 いくら不起訴になっても警視庁公安部とJCTCは彼の監視を続け、金村もそれには気づいていた。ゆえに仲間と接触することを避け、時が来るのを辛抱強く待ち続けた。全ては尊敬する男のため、そして、自分を捕らえた男へ復讐するためであった。

 金村は今朝の爆破事件をニュースで見て今日がその時だと思い、着替えを済ませると緊急合流先に指定されていた場所へ向かった。期待していた通り、仲間はその場所で待っていた。

 「スマホとか捨てたか?」眉毛の太い男が再び尋ねた。

 「途中で捨てた。お前は?」

 「もちろん捨てたさ。連絡用をこれから取りに行く。だから、この車は途中で捨てる。」

 「分かった…」金村は外の景色を見た。通りを歩く人々を見て彼は失望していた。

 〝今も銃撃事件が起きているのに…コイツらは何も起きてないかのように、いつも通りの生活を送っている。〟

 「辛気臭い顔するな。草加さんは今日のために準備した。今日は始まりの日だ。今日を境にこの国は大きく変わる…」



***



 その音を耳にした時、岩田麻美は同僚の女性看護師と歩いていた。

 断続的な轟音と共に悲鳴と怒号が遠くから聞こえ、通路を歩く人々と受診を待つ人々が動きを止めて音の方へ顔を向けた。

 甲高い悲鳴と怒鳴り声、そして、それを掻き消す花火のような破裂音は次第に大きくなった。今まで遠くから聞こえてきた音が近づいてくると、人々は不安を抱き、一部の人々は立ち上がって様子を見に行こうとした。その時、鬼気迫る表情を浮かべて駆けてくる数人の男女を目撃し、彼らは「逃げろー!」と叫んだ。

 状況を理解できない人々は走り去る人々の姿を見守ることしかできず、それは岩田とその同僚も同じであった。

 「どうしたんでしょうか?」岩田が隣にいる同僚に尋ねる。

 「分からないけど、患者さんたちを避難させましょう。」

 轟音は近くまで迫っていた。看護師たちは廊下にいる人々に避難するように呼びかけ、人々は渋々立ち上がり、断続的に聞こえてくる音の方へ何度も顔を向けた。

 ロビーから駆けて来ている人々は、ゆっくりと避難を始めた人たちを押し除けるように進んだ。

 「何が起きてんだよ?」受診を待っていた一人の男性が興味本位で音のする方へ歩き出した。

 彼が曲がり角へ差し掛かった時、短機関銃を持つ2人の男に遭遇した。男性は急いで引き返そうとしたが、短機関銃を持つ男たちは男性の背中に銃弾を浴びせた。複数の銃弾を背中に受けた男性は、口から血を吐きながら勢い良く床に叩きつけられた。

 短機関銃を持つ黒い服を着た二人の男が避難する人々を確認すると同時に、看護師に誘導されている人々も彼らの存在に気づいた。一瞬にして混乱が生まれ、人々は我先にと目の前を歩く人々を押し除けて走り出そうとした。

 短機関銃を持つ二人は互いに顔を見合わせると、鞄から手榴弾を取り出してそれを混乱に陥っている人々に向けて放り投げた。深緑色の球体は小さな弧を描いて宙を舞い、避難している人々の群れの最後尾に落ちた。

 カンッという音と共に手榴弾が床に落ちると、それは爆音を生むと同時に破片を周囲に拡散させた。破片は避難していた人々の頭、脇腹、背中、脚に突き刺さり、小さな破片を浴びることはなくても、多くの人々は爆風を浴びて互いに覆いかぶさるように崩れ落ちた。

 爆風によって岩田麻美も床に押し倒され、その衝撃によって耳鳴りがして意識が朦朧とした。顔を上げると短機関銃を持つ二人組の男が発砲しながら近づいてくるのが見えた。

 〝逃げなきゃ!〟頭の中でそう思っていても体が動かない。

 短機関銃から発射される複数の弾丸が、岩田から2メートルほど先に倒れている人々の背中と胸に命中して血飛沫と肉片が飛び散った。

 〝逃げなきゃ!〟

 起き上がろうとした時、真後ろから耳朶を震わせる女性の悲鳴が聞こえ、慌てて振り返った。そこには立ち上がって逃げようとしていた中年女性がおり、彼女は背中に複数の銃弾を浴びて糸の切れた操り人形のように倒れた。

 女性が銃弾を受けた際に岩田は女性の血を浴び、着ていた白い服が赤黒く染まった。彼女の心臓は今までにないほど高鳴り、喉が乾き、目から涙がこぼれ、そして、吐き気を覚えた。

 〝殺される…〟死への恐怖が彼女の思考を支配し、岩田は身を丸めることしかできなかった。

 短機関銃を持った二人の男は岩田のいる場所へ銃撃を加える前に、短機関銃から空になった弾倉を抜いて新しい弾倉を手に取った。

 右にいた男が再装填を終えた時、右膝裏に衝撃を受けて思わず片膝を強く床に打ち付けしまった。激痛に顔を歪めるも男は振り返って後方を確認しようした。その時、真後ろから花の破裂するような音が消え、隣にいた仲間が呻き声を上げて床に崩れ落ちた。驚いた男は振り返る前に仲間へ視線を向け、その際に左側頭部を殴られた。

 殴られた衝撃が強かったために男の頭は右へ動き、その隙を狙って井上は右斜め上から短機関銃を振り下ろして銃底で男の首筋を殴った。殴られた男は頭をガクンと落として床に落ちた。

 次に井上は流れるような動きで短機関銃に装填されている弾倉を左手で掴むと、撃たれた脚を抑えて倒れているもう一人へ銃口を向けた。男は歯を食いしばって呻いており、持っていた短機関銃から手は離れていた。だが、安全のため捜査官は男の額を蹴り飛ばし、蹴りを受けた男の意識は飛んで白目を向いて動かなくなった。

 井上は素早く銃口を周囲に向けて安全を確認すると、制圧した男たちから武器を取り上げて鞄に押し込んだ。彼は男たちの着ていた服を利用して相手の手を縛り、廊下の隅に移動させた。その後、周囲を見渡して捜査官は下唇を噛んだ。

 〝もっとペースを上げないと…〟遠くから聞こえてくる銃声を耳にして井上は思った。

 廊下には銃撃と手榴弾で負傷した人の呻き声と子供たちの泣き声が響き、捜査官は負傷している人々の様子を見ようと倒れている数人の男女と座り込んでいる人々の方へ急いだ。その時、彼は座り込んでいる人の中に岩田麻美を見つけ、我を忘れて彼女に近づいた。彼が顔と胸に血飛沫を浴びている女性看護師に近づくと、周りにいた人々は短機関銃を持つ捜査官を見て体を強張らせた。

 「大丈夫?」短機関銃を右手に持ったまま、井上は岩田の前で片膝をついた。

 彼の姿を見ると女性看護師は顔をくしゃくしゃにして捜査官に抱き付き、井上は戸惑いながらも左手を彼女の背中に回した。

 「まだ銃声が聞こえる。ここから逃げなきゃダメだ。」井上が自分の胸に顔を押し付けて泣いている岩田に言った。

 「どうなってるんだ?」井上の後ろにいた高齢の男性が尋ねた。

 「状況はまだ分かりません。」男性の方を見て捜査官は応えた。「まだ銃を持った男がいる可能性がありますので、気をつけて避難して下さい。先を急ぐので−」そう言って井上は立ち上がろうとした。

 「何処に行くの!」目を真っ赤にして泣いている岩田が顔を上げて声を大にした。「殺されちゃうよ!」

 井上は彼女を落ち着かせようと笑顔を作った。「大丈夫だよ。」

 「何処に避難すればいいの?」中年の女性が尋ねてきた。

 「何処かの部屋に鍵をかけて閉じ籠ることもできますが…」捜査官は廊下にいる人の数を確認した。出血が酷く、移動することが困難な人が4人ほどいた。

 〝12人か…〟

 「1階の裏口に守衛の部屋があったよね?監視カメラの映像を確認するような部屋。」井上が鼻水をすすっている岩田に尋ねた。

 女性看護師は涙を拭って小さく頷いた。

 「移動できる方を優先して裏口まで移動します。」井上は立ち上がり、改めて廊下にいる人々を確認した。「残りの方は応急手当をし、後ほど助けに来ます。」

 「全員で逃げるべきだろ!」脚から流れる血を止めようとしている若い男性の隣にいた高齢の男性が怒鳴った。「重傷者を見捨てるのか!?」

 「下手に動かすと、移動中に傷が広がることもあるので−」

 「そんなのやってみないと分からないだろうがッ!」井上が説明を加えようとしたが、高齢の男性は彼を遮った。

 「早く逃げないと連中が来るよッ!」中年の女性が井上に制圧された二人の男を指差して叫んだ。

 「まずは避難できる方を優先します。」肩に手榴弾の破片を受けていた岩田の同僚が額に大粒の汗を浮かべながら言った。「その後、私たちが重傷者の方々の手当てを行います。」

 井上は岩田の同僚である女性看護師を見て小さく頷いた。

 「すぐに移動します。皆さん、準備をして下さい。」そう言うと井上は短機関銃の弾倉を入れ替えた。弾倉に十分銃弾が残っていたが、遭遇戦に備えて新しい弾倉に替えた。

 裏口まで人々を避難させることも最優先課題であるが、井上は警備室にある監視カメラの映像を見て短機関銃を発砲している男たちの正確な位置を掴みたいと思っていた。

 〝そろそろSATの展開もできてると思うんだよなぁ〜。班長にお願いして突入してもらうか?〟



***



 車で移動していた井上と新川であったが、病院の5キロメートル手前から交通規制が入っており、二人を乗せた車は渋滞に巻き込まれて身動きができない状況にあった。この道路は高層ビルに挟まれており、常に車と人通りの多い場所であった。

 渋滞は4キロメートル以上続いており、車に乗る人々は苛々しながらスマートフォンで通話したり、携帯端末の画面を睨んだりしていた。クラクションを鳴らす者もいたが、その数は少なく、多くの人々は前の車が進むのを今かいまかと待っている。

 歩道も多くの人で埋め尽くされ、その中にはスマートフォンを片手に病院で起こっている事件の様子を見に行こうとする野次馬もいて、先を急いでいる通行人の邪魔をしていた。

 「車を置いて徒歩で移動しましょうか?」浦木がシートベルトを外して助手席にいる新川に尋ねた。「事件が解決するまで、この渋滞は解消されません。」

 「そうですね…」新川もシートベルトを外し、浦木が外に出ると急いで男性捜査官の後を追った。

 二人の捜査官は車の間を縫うように進み、警察が設けた規制線まで残り数キロメートルと迫った。新川は前を歩く半袖ワイシャツ姿の浦木の背中を追い、先頭を走る浦木は周囲に視線を配りながら前進を続けた。

 その音は規制線まで残り2キロと迫った時に聞こえてきた。

 浦木と新川は音源からおよそ100メートル離れていたが、その音に耳にして二人は振り返った。彼らが音の正体を掴む前に悲鳴が通りに響き、二人の捜査官が視線を走らせると、歩道で倒れている20人ほどの男女を発見した。無傷の者もいたが、何かには顔、腕、脚から大量の血を流している者もいた。

 〝爆弾?〟

 浦木がそう思った時、二度目の破裂音を耳にした。それは浦木の真横から聞こえ、彼は爆風を浴びて左にあった車に片手をついてバランスを取らなければならなかった。一方の新川は反応が遅れて、左腕を停車していた軽自動車の車体に打ち付けてしまった。

 〝なに?何が起きてるの?〟新川は恐怖して軽自動車に背中をつけ、落ち着きなく顔を左右に動かした。

 浦木は右手を腰へ伸ばし、インサイドパンツホルスターに収められているグロック19の銃把を掴んで視線を素早く通りに走らせた。特に警戒したのは最初と二度目の爆発が起きた地点の中間であった。しかし、パニックを起こして逃げ惑う人が多く、不審な人物を特定することができなかった。

 「浦木さん…」新川がゆっくりと男性捜査官に近づいた。「襲撃されているのは病院だけじゃな−」

 二人は固い何かが地面に落ちる音を耳にした。素早く浦木が音のした右へ視線を向け、5メートルほど先で転がっている深緑色の球体を確認した。

 〝クソッ!〟

 浦木は急いで逃げようとしたが、新川の反応が遅れていたので、咄嗟に彼女をミニバンと軽自動車の間に押し込んだ。その直後、彼は爆風を浴びて地面に叩きつけられた。頭部は打たなかったものの、強打した右腕と背中に鈍い痛みを感じた。

 爆風と破片は近くに停車していた車の窓と車体を傷つけ、一部の破片は通りに面している建物の窓ガラスに小さな穴と蜘蛛の巣状の傷を生んだ。

 「大丈夫ですか?」爆風から逃れていた新川は急いで倒れている浦木に駆け寄った。

 「なんとか…」男性捜査官は素早く起き上がって拳銃をホルスターから抜いた。

 〝何処だ?〟浦木は右手に持った銃を腰元に置き、再び歩道へ視線を走らせる。

 「班長に連絡します!」スマートフォンを取り出して新川が言った。

 「分かり−」口を開いた浦木はもう少しでその人物を見過ごすところであった。

 上下ともに黒い服を着た男は逃げ惑う人々の中に紛れていた。この男はもう一つの手榴弾を投げようと、安全ピンを抜いて投げる場所を確認した。そして、浦木と新川の姿を確認すると二人のいる場所へ投げようと振り返って右腕を大きく振り上げた。

 浦木はその瞬間を目撃した。反射的に銃を構えたが、多くの人々がいるため発砲することはできない。そうしている間に男は手榴弾を二人の捜査官の方へ投げた。






* * *



 大学に入学すると3人の友人ができた。

 彼らは同じ学部で、受講している講義がほとんど同じであった。新しい友人は草加亮に対して友好的に接していたが、両親の影響で人付き合いが苦手な彼は友人たちとある程度の距離を取っていた。草加にとって、彼らは同じ大学に通う学生であり、重要な存在ではなかった。

 そのような草加の姿勢を見ても、3人は今までの同級生たちと違って彼から離れようとはしなかった。むしろ、もっと草加と仲良くなって大学生活を豊かにしようと考えていた。

 友人たちの気も知らない草加は、朝は勉強して夜はアルバイトに勤しんだ。すべては母親に嫌われないため、そして、母親の負担を少しでも減らすためであった。大学での勉強とアルバイトに集中する彼は疲れていたが、それでも母親に見捨てられるかもしれない恐怖を思い出すと目の前に課題に臨んだ。
 ある日、社会学という講義で貧困に関する本を読んでくるように教授が学生たちに伝えた。多くの生徒は参考文献を挙げられても、すべては読まずに最初の数ページを読むだけであった。彼らとは対照的に草加亮は図書館へ行って参考文献を熟読した。

 今までは要点を記憶しようと思って読むことが多かったが、彼は社会学で挙げられた『日本の貧困』という新書に出てくる人物たちと自分の姿を重ねて読んだ。本の中には自分と同じように片親と過ごし、貸与式の奨学金を受けて大学に進学したものの、それを返済できる見込みがない元大学生がいた。その他にも自分の好きな絵の勉強をしたくても、経済的余裕がないために進学を諦めて就職した女性のことも書かれており、その女性は夢を諦めてもまだ苦しい生活を強いられていた。

 〝なんてことだ…〟

 草加は衝撃を受けると同時に涙した。この世の中には自分と同じ境遇、またはそれよりも悪い状況の人々が多くいることを知って悲しくなり、そして、自分一人だけが同じ問題で苦しんでいる訳ではないことを知ると少し気が楽になった。

 〝誰かがこの問題を解決しないといけない。〟

 今まで大学の講義のためだけに使っていた勉強の時間を、草加亮は日本における貧困問題を調べる時間に使うようにした。そして、その社会問題の勉強に使う時間は日に日に講義の勉強時間を侵食し、彼は図書館にある日本の貧困に関する本をすべて読む勢いであった。

 友人たちはオンラインゲームの話題で盛り上がっていたが、草加はもっぱら日本の貧困問題について議論しようと誘った。だが、友人たちは草加の話しを聞くフリをしてスマートフォンのゲームに夢中になっていた。

 〝コイツらは問題の深刻さに気づいていない!〟

 友人だと思い始めていた3人の態度を見た草加は何度も日本における社会問題について語り合おうとした。それでも彼の友人たちは、「俺たちに言われてもどうしようもないじゃん」と言うだけであった。そこで草加は社会学を専攻している学生たちとなら議論できると思ったが、彼らは草加の友人たちと同じようなことを言って草加亮を嘲笑った。社会学の教授も、「深刻な社会問題ではあるけど、具体的な解決はまだないし、すぐに解決できる問題ではない」と言って彼を失望させた。

 〝誰も真剣に貧困について考えていない…多くの人が苦しんでいるというのに!〟

 腹の奥底から込み上げてくる怒りを感じながらも、草加は図書館で貧困問題を学んだ。そして、彼はある一つの結論に達した。
 



* * *



 情報が錯綜する中、大会議室にいる捜査員たちは現場から来る情報とSNSに溢れている情報を照らし合わせて確認を行っている。

 SNSの中には誤った情報も含まれていたが、その中には襲撃が始まる前に不審な人物を現場付近で目撃したとの情報や、病院付近の住民や現場付近で働いている人々が投稿する写真や動画があり、これらの投稿からある程度の情報を入手することができた。また、分析官たちは現場付近の監視カメラ映像や国内で活動しているテログループの声明が発表されていないかを確認し、病院を襲撃しているグループの特定を急いでいた。

 その最中、襲撃を受けている3つの病院に向かっていた捜査官たちが手榴弾で攻撃されているとの情報が飛び込んできた。

 「浦木と新川の状況は?」半田がノートパソコンの画面と向き合っている柄沢に尋ねた。

 「まだ連絡がつきません!」後ろにいる上司へ顔を向けず、大声を上げて男性分析官が応えた。彼は波のように押し寄せてくる情報を整理しようと必死であった。

 「井上は?」柄沢の隣に座る女性分析官へ視線を移動させて半田が尋ねた。

 「まだ連絡は来ていません。」増井もノートパソコンの画面から視線を外すことはなかった。「先ほど、インターネット掲示板に投稿されていた声明文らしきモノを書いた人物の住所が分かりました。捜査官を送りましょうか?」増井は捜査員へすぐメッセージを送れるよう、ノートパソコンの画面の隅にチャットボックスを表示させた。

 「頼む。」

 上司の言葉を聞くと素早く増井はキーボードを打ち、目的地の近くにいる捜査員にメッセージを送信した。

 半田のスマートフォンが振動し、彼は右手に持っていた携帯電話の画面を確認すると素早く電話に出た。

 「井上か?」

 「はい…さっきはすみませんでした。」井上は開口一番謝った。

 「気にするな。それより状況は?」

 「先ほど再び2名と交戦し、無力化した後に12名の民間人と病院の裏口に向かって移動しています。SATの突入はないんですか?」

 「今回はJCTCで要請した部隊じゃないから、突入の決定権は警視庁にある。」半田は井上が無事であることを知って安堵していた。「病院内の安全は確保できたのか?」

 「いえ、まだ短機関銃を持った奴が少なくとも4人はいると思います。」

 「お前はまず12名の民間人と共に病院から逃げろ。」

 「まずは民間人を裏口から避難させますが、その後は引き続き救出活動を続けます。ですから、早くSATを突入させる準備をしてくれませんか?」

 「分かったから、お前も逃げろ。後は俺たちがなんとかする。」

 「お願いします。」

 電話が切れた。

 「半田さんッ!」

 背後から声が聞こえてきた。振り返ると同じ3課4班の班長である園田真理子がいた。

 「井上からですか?」

 半田は彼女の問いにすぐ答えなかった。

 「さっきの電話は井上からですね?」

 「そうですが、何か−」

 「彼は病院内にいる貴重な情報源です。何故、私たちにも聞こえるように話していただけなかったのでしょう?」園田は半田の言葉を遮った。

 「先ほどのように、全員に聞こえるよう通話すれば、井上は質問責めにあうでしょう。ストレス下に置かれている彼に、余計なストレスを与える必要はないでしょう。それに井上との通話を隠すつもりもないですし、この通話は既に録音されています。」

 「それでもリアルタイムで情報を共有する必要があるんです。今の状況を分かっていますか?」園田は半田の態度が気に食わなかった。

 「分かっています。報告がありますので、この話しは後でもいいでしょうか?」

 「状況が状況ですからね。後にしましょう…」そう言うと園田は自分の班員たちがいる場所へ戻った。

 半田は急いで課長の袴田がいる机へ走り、井上からの連絡を伝えた。

 「SATの突入は私たちで対応しよう。君たちは井上のサポートをし、民間人の保護に集中してくれ。」

 「分かりました。」

 袴田は走り去って行く半田の背中を見送ると、隣にいる第1課と2課の課長へ顔を向けた。

 「請け負ってしまったが、警視庁は突入に反対するでしょうな…」袴田が言った。

 「体面を気にして突入はしないでしょう。それに病院以外でもテロ事件が起こっている。おそらく皆さん、パニックでしょう。」第1課の課長である一文字が忙しなく働いている部下たちを見つめながら呟いた。

 「そうなると、テロリストが立て篭もって要求を出すまで待つしかないと…?」第2課の風見課長が誰となく尋ねた。

 「立て籠るのが目的に見えない。無差別に殺すのが目的だろう。それに病院付近で起きている手榴弾の攻撃は、病院にいる仲間を逃すための陽動かもしれない。」一文字が顎を摩った。

 「そうだとすれば、早くSATを突入させないといけませんね…」袴田は下唇を噛んだ。

 「今は病院に送ったこちらの捜査官たちに、陽動と考えられるテロリストの攻撃をできるだけ防いでもらうよう頑張ってもらいましょう。」一文字は左手首に着けている腕時計を見た。「そうすれば、SATは病院のテロリストに集中できるはずです…」



***



 手榴弾は地面に落ちると転がって白い乗用車の下に入った。その車に乗っていた運転手は二度目の爆発後、車を置いて逃げていた。

 白い乗用車が浦木と新川の位置から5メートルほど離れた場所で停車していたが、二人の捜査官は急いで近くにあったミニバンの陰に飛び込んで衝撃に備えた。

 深緑色の手榴弾は車の下で爆発したものの、白い乗用車の車体を数センチ持ち上げ、限定的ではあったものの爆風と破片を周囲に拡散させた。

 爆発音を耳にし、足に軽い爆風を感じた浦木は隠れていたミニバンから身を乗り出して先ほど見つけた男の姿を探し求めた。通りには逃げ惑う多くの人がおり、男性捜査官はミニバンから離れて視線を周囲に走らせた。

 「先ほど見つけた男を追います。」そう言って浦木は拳銃を胸の前で構えて走り出した。

 「はい!」新川もG19をホルスターから抜いて浦木の後を追った。

 車両の間を走って浦木と新川は左右の通りに視線を向け、手榴弾を投げた男の姿を探した。しかし、あまりにも人が多すぎて不審な人物を見つけることはほぼ不可能であった。

 〝さっきのアイツは何処に?〟

 「人が多すぎますッ!」後ろにいる新川が浦木に声をかけた。

 「もう一度攻撃する気であれば、必ず姿を見せるはずです。」

 「分かりました!」

 後ろを振り返る人々の顔を確認し、浦木は先ほど見た男かどうか見極めなければならなかった。それに混乱を作ることが目的であれば、さらなる攻撃を仕掛けてくる可能性が高いと推測した。だが、相手の攻撃を待つということは、さらなる犠牲者を生む、または彼と新川の命が危険に晒される可能性が高くなることも意味している。

〝仕方ない…〟浦木は胸の前で構えていた拳銃の銃口を地面に向け、二度引き金を絞った。G19が小さく男性捜査官の手の中で跳ね、2発の銃弾が地面に命中して小さな破片と埃が舞い上げた。

 銃声が通りに響くと複数の女性の悲鳴が上がり、逃げていた人々の中には振り返って状況を確認しようとする者もいた。その中には上下黒い服を着た男もおり、浦木は一瞬のことではあったが男の位置を確認した。

 「止まれッ!」銃口を男へ向けて浦木が大声を上げた。

 すると、黒い服を着た男は再び振り返って銃を構える男性捜査官を見つけた。男は素早く鞄に右手を入れて手榴弾を掴もうとしたが、そこにもう爆弾はなかった。

 〝クソッ!〟黒い服の男は前を走る人々を押し除けて浦木と新川から逃げようとした。

 浦木は再び銃を胸の前で構えて、逃げた男の後を追った。

 少し遅れていた新川も黒い服の男を追跡しようと先導する男性捜査官の後を必死に追いかけた。好意を寄せている男性捜査官の背中を追いながら走っていた時、彼女は左側の通りで素早く動く何かを視界の隅に捉えた。それは新川ではなく、浦木に接近していた。

 「浦木さんッ!」異常を知らせようと新川が叫んだ。

 彼女の声に反応して浦木が振り返った時、背中に衝撃が走り、右にあったSUVの車体に体を叩きつけられた。急いで後ろを向いたが、その直後に浦木は左頬と腹部を殴られた。



(続くのかな?)

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