返報 14-6 (終) [返報]

14-6






 二人のSP に連れられて小田完治は路地に逃げ込んだ。

 目的の空港まで残り2kmだが、襲撃者から逃れるために三人は遠回りすることにした。道中、爆発と銃声を耳にして窓から顔を出したり、携帯電話を持って家の前をうろうろしたりする近隣住民を見た。住民は小田とSPには目もくれず、遠くから聞こえてくるサイレン音を聞きながら、騒音の原因を探ろうとしている。

 人目をできるだけ避けるため、三人は薄暗い路地に入った。しかし、走り続ける小田完治の両脚が悲鳴を上げ、また、息も上がって倒れる寸前であった。

 「く、くる…車は…ない…のか?」か細い声で小田完治が両脇で彼を支えるSPに尋ねた。

 「もうすぐ大きな通りに―」

 小田の右側にいたSPの声を遮るように断続な銃声が聞こえ、議員の左脇を抱えていたSPが呻き声を上げて片膝をついた。彼は腰と臀部に被弾し、白いワイシャツと黒いスラックスに血が滲み始めた。

 もう一人のSPが警護対象者を庇いながら拳銃を抜いて振り返り、短機関銃を持って歩み寄る三須を目撃した。素早く発砲したが、襲撃者の出現に怯えて座り込む小田完治が彼の上着を引いて狙いが左にズレてしまった。胸部に向けて放たれた銃弾は三須の右肩をかすめた。再び引き金を引こうとした時、被弾した仲間が襲撃者に向けて発砲を開始した。

 「ここは任せろッ!」被弾した箇所を気遣いながら片膝をついて銃撃を行うSPが叫んだ。
銃弾を避けるため、三須が電柱の陰に隠れてMP-5Kの再装填を行った。

 「すぐ戻ってくるッ!」議員を立ち上がらせ、もう一人のSPが警護対象者と共に走り出した。

 それを見た三須は邪魔者を排除しようと、発砲してくるSPに10発以上の銃弾を浴びせた。勇敢に時間を稼ごうとしたSPは首と胸に6発の鉛の弾を受け、弾かれたように背中から地面に倒れて息絶えた。死んだSPを横目に三須は逃げた標的を追った。








 左手で特殊警棒の柄を掴み、親指でストラップを弾くと勢い良く警棒をホルスターから引き抜いた。そして、素早くそれを展開させ、中島は伸び切った警棒を後ろへ大きく振った。

 手探りで放った一撃であったが、この攻撃はSAT隊員の首を絞めていた守谷の頭部に直撃した。激しい痛みにテロリストは苦悶の表情を浮かべ、パラシュートコードを引く力が少し弱まった。

 呼吸が少し楽になり、中島が再び警棒を振った。しかし、今回は標的を外してしまった。飛んでくる警棒を見るなり、守谷が身を逸らして回避行動に出た。愚かにも額に切り傷を持つ男は、攻撃を避ける際に左手をパラシュートコードから離した。この瞬間にSAT隊員が振り返りながら、警棒の柄で守谷の左膝横を殴った。守谷が呻き、前屈みの姿勢になる。

 相手に反撃、そして、防御の隙を与えず、中島は警棒を振り上げてテロリストの顎を殴った。予期せぬ下からの攻撃に守谷は姿勢を崩し、右手もパラシュートコードから離して3歩後ろへ下がった。その間にSAT隊員は立ち上がり、首に巻き付いていた紐を取って激痛に目を閉じて悶えているテロリストに投げつけた。

 攻撃を受け過ぎた守谷は投げつけられた紐にまで過剰に反応し、両拳を大きく振って中島を殴ろうとした。しかし、相手は彼の間合いの外にいた。厳密に言えば、腕の届く場所にはいなかった。テロリストの攻撃に怯まず、中島は右前蹴りを守谷の腹部に叩き込んだ。この攻撃は相手の腹部に深く入り、額に切り傷を持つ男の動きが完全に止まった。

 SAT隊員が左上から斜めに警棒を振り下ろして守谷の頭を殴り、その勢いを利用して右上から相手の左膝に向けて振り下ろした。素早く重い打撃を二度も受け、テロリストは両膝を床についた。また、間を置かずに中島の右膝蹴りが守谷の左側頭部に叩き込まれ、守谷は右側にあった壁に頭部を強打した。この時、激しい怒りが額に切り傷を持つ男の中で爆発した。

 守谷は雄叫びを上げ、最後の力を振り絞ってSAT隊員に襲い掛かった。しかし、大声に動じるほど中島は臆病ではない。彼はテロリストが繰り出してきた左拳を右へ移動し、回避しながら警棒を守谷の胸部に打ち込んだ。左に続いて右拳を出そうとしていた守谷の動きが止まり、中島は警棒の柄で相手の右側頭部を殴った。この一撃で額に切り傷を持つ男の意識は薄れ、力の抜けた彼の体は重力に引っ張られた。だが、倒れる前にSAT隊員が再び警棒の柄で守谷の右側頭部を殴り、そのまま壁に叩きつけた。

 完全に意識を失ったテロリストは重力に引き摺られて床に落ちたが、着地する前に後頭部を警棒の先端で殴られた。床に崩れ落ちた守谷は、最後の一撃を受けて血の混ざった泡を吹きながら体を痙攣させた。

 そのような姿を見ても、中島の心に後悔や憐みの気持ちはなかった。乱れた呼吸を整えることもできたが、中島は急いで荒井のところへ走り、重たい大男の死体を横に退かせた。

 若いSAT隊員の顔は月明りに照らされて青白く、左脚の傷口の周りに小さな血だまりができていた。

 焦らずに中島は荒井の首筋に二本の指を置いた。指先に微かな振動を感じ、東京から来たSAT隊員は安堵してその場に座り込んだ。しかし、外で交戦している仲間のことを思い出し、特殊警棒を支えにして立ち上がった。

 疲労と痛みが全身を駆け巡っていても、中島は素早く荒井を安全な場所へ移動させるため、若い隊員のベストを掴んだ。その時、近づいてくる複数の足音を耳にした。中島は荒井の手に握られていた弾切れの拳銃を取り、急いで若いSAT隊員のホルスターから5発の銃弾が入った最後の弾倉を装填すると遊底を元の位置に戻して構えた。

 足音が二人に近づく中、片膝をついて中島は前方と後方へ交互に視線を配った。息を押し殺し、神経を尖らせていると足音が消え、17メートルほど離れた曲がり角から素早く頭が出るのを見た。この時、危うく中島は引き金を絞るところであった。

 「味方か?」曲がり角にいる男が大声で尋ねた。

 「増援か?」中島は質問で返した。

 「そうだ。」

 この時、東京からSAT隊員は背後から物音を聞き、振り返って引き金を引いた。銃弾が背後から接近していたSAT隊員の防弾ベストに命中し、撃たれた隊員は一歩後退して衝撃に耐えた。援護に来た隊員の顔には驚きの表情が浮かんでおり、彼の背後にいた仲間も中島の素早い反応に驚いていた。

 仲間の姿を確認するなり、東京から来たSAT隊員は急いで床に落として両手を上げた。

 「中島さんですか?」撃たれた隊員が訊いた。

 「そうだ。胸は大丈夫か?」

 「ベストのお陰で問題ないです。」防弾ベストを軽く叩きながら、撃たれた隊員が応えた。

 荒井が起き上がり、自分と中島を囲む同僚たちを見て驚いた。

 「アイツらは…どうなってんですか?」荒井が中島に尋ねた。

 「大男は死んだよ。もう一人は瀕死状態。外の連中も片付いたらしい。」と東京から来たSAT隊員。

 「それじゃ…」

 「オイラたちの仕事は終わり!あとは他の人たちに任せよう。」そう言って、中島は仰向けに倒れて両目を閉じた。








 「遅かったですね。」もくもくと黒煙を吐き出す乗用車に群がる野次馬を見て小川が言った。

 「だね…」藤木が空返事を返した。

 二人は20メートルほど離れた場所に停めた車の中から様子を窺っていた。

 「どうするんですか?」女性捜査官が心ここにあらずという態度の上司の方を向いた。

 「SATがもうすぐ到着するし、そろそろドロンしよう…」

 下唇を軽く噛んで小川が車を走らせた。

 「何であのSAT隊員に肩入れするんですか?」女性捜査官が胸に留めていた疑問を藤木にぶつけた。

 「中島さんのことかい?」窓の外を流れる景色を見ながら藤木が訊いた。

 小川が頷く。

 「同期だし…」藤木がヘッドレストに頭を置く。「それに、返し切れていない大きな借りがあったし…」

 「何の借りですか?」

 「私の代わりに亡くなった若者がいてね…」









 疲れ果てた小田完治が地面に座り込んだ。

 「も、もう…ダメだ…」

 「もう少しの辛抱です。」SPが議員の腕を引いて立ち上がらせようとしたが、小田はそれを振り払った。

 「す…少しで…いい。休ま…せて…くれ…」

 二人は先ほど三須に襲撃された場所からは100メートルほどしか離れておらず、いつ追いつかれても不思議でない状況であった。空港との距離はほとんど縮まっておらず、議員を護衛するSPは走行中の車を見つけたら、それを借りて目的地まで急ごうと考えていた。

 「議員、あと数メートルで車通りの多い道に出ます。そこで車を捕まえて空港に急ぎましょう。」右手に拳銃を持つSPが、地面に座り込んで呼吸を整えている小田完治の様子を見て言った。

 「わ、わかった…」消え入りそうな声で議員が応えた。

 三須はこの様子を物陰に隠れて見ていた。親指で短機関銃のセレクトレバーを操作し、フルオート(連発)からセミオート(単発)に切り替えた。そして、照準を座り込んでいる小田の脚に合せて二度引き金を絞った。

 MP-5Kが小さく動き、花火のような音が静かな路地に鳴り響いた。二発の銃弾は吸い込まれるように議員の右膝と脛に命中した。地面に小田の血が飛び散り、傷口から大量の血が溢れ出る。

 議員が悲鳴を上げ、両手で脚を抑えた。急いでSPが銃を構えて三須を撃とうとしたが、その前に胸と右肩に銃弾を受けて拳銃を落してしまった。

 SPが左手で銃を拾おうとした時、三須が物陰から姿を現した。議員の護衛が拳銃を掴むなり、三須はSPの胸と首に3発の銃弾を叩き込んだ。力なく後ろに倒れた護衛を見て小田は死を覚悟した。心臓が異常に高鳴り、全身から汗が噴き出してきた。彼の双眸は短機関銃を持つ襲撃者を捕えて離さず、いつ引き金を引くのか目を大きく開けて見ていた。

 その時、短機関銃の銃口からパッと火が噴き出した。それと同時に花火が破裂したような音が路地に響き、小田完治の腹部を激痛が襲った。白いワイシャツに血が滲み、それは段々と大きくなって小田に衝撃を与えた。

 「ずいぶん待ったよ…」三須が議員に歩み寄った。距離は2メートル弱。「2年。すごく長かった…」襲撃者が再び小田の腹部に銃弾を叩き込み、撃たれた議員はその反動で地面に倒れた。

 小田完治の呼吸は浅く、撃たれた個所から大量の血が出てワイシャツは真っ赤に染まっている。

 「先生を裏切ったからだ。」短機関銃の銃口を議員の頭に向けて三須が言った。彼の顔には笑みが浮かんでいる。「報いを受けろ…」

 銃声が路地に響き渡った。銃弾を左肩に受けて痛みが走る中、三須が背後へ鋭い視線を送る。そこには拳銃を構える西野がいた。

 ネズミ取りの捜査官が再び引き金を絞ろうとした時、三須は短機関銃を憎い西野に向けて発砲した。彼はフルオートで射撃を行おうとしていたが、セレクトレバーがセミオートに設定されていたために引き金を1発しか発射されなかった。姿勢を低くして三須は右へ移動し、親指でセレクトレバーを操作すると銃口を西野に向け、弾倉が空になるまで引き金を絞り続けた。西野も姿勢を低くして、三須を追うようにして左へ移動した。両者ともに発砲したが、狙いが安定していなかったため、銃弾が頭上を通過したり、肩や腕をかすったりしただけであった。

 二人が民家の塀に突き当たると同時に弾切れになった。西野は小木から奪った拳銃に手を伸ばしたが、予備弾倉や拳銃を持っていない三須はネズミ取りの捜査官に接近しながらMP5-Kを投げつけた。ベルトに挟めていた銃のグリップを握って抜き取ろうとしていた西野は、それを左手で払い避けた。しかし、短機関銃に気を取られた隙に間合いを詰められ、三須が前押し蹴りを捜査官の腹部に叩き込んだ。

 左脚を一歩下げて踏み止まり、西野は腰の辺りで銃を構えると三須に向けて引き金を引いた。相手の動きに勘付いたテロリストは右へ移動して銃口から身を逸らし、右拳で引き金を絞り終えた西野の左側頭部を殴った。間髪置かずに三須は左膝蹴りを捜査官の股間へ繰り出した。

 ギリギリのところで右膝を内側に向けて西野は金的を防ぎ、左掌底で三須の額を殴ると素早く拳銃を相手の胸に向けて突き出した。

 テロリストは咄嗟に捜査官の右手首を掴み、そのまま頭突きを西野の鼻頭にくらわせた。攻撃を受ける寸前に西野が引き金を絞り、銃弾が三須の左腕をかすめて壁にめり込んだ。そして、三須は被弾して痛む左腕を持ち上げ、西野の右手に握られていた拳銃を弾き飛ばした。銃が勢い良く地面に叩きつけられる。

 西野は折られた鼻から出ると血と脈打つ痛みを感じながらも、三須の腹部へ突き上げるように右膝蹴りをくらわせた。予期せぬ攻撃を受けたテロリストは激痛のあまり前屈みとなり、その隙を狙ってネズミ取りの捜査官は三須の後頭部へ右肘を振り下ろした。この一撃でテロリストは崩れ落ち、四つん這いになった。これを確認すると、疲労困憊している西野は落とした銃を取りに動いた。

 腹部と後頭部へのダメージに苦しむ三須であったが、自分の前を歩く西野を目撃すると憎悪が全ての感覚を塗りつぶした。彼は拳銃を取ろうと屈んだ西野の左脚を掴み、力一杯手前に引っ張った。

 バランスを崩したネズミ取りの捜査官は頭から転んで、額を地面に打ち付けてしまった。痛みに呻き声を上げるも、西野はすぐ三須の方を見た。しかし、そこにテロリストの姿はなかった。捜査官が顔を上げると銃声が暗い路地に響いた。西野の胸に激痛が走る。彼は痛みと銃弾を受けた衝撃から仰向けになった。

 拳銃を取り上げた三須は座った状態で一度、西野の胸に向けて発砲した。そして、素早く立ち上がった。周囲を見渡すと、民家の窓から彼らを見る住民や路地の曲がり角で息を潜めている野次馬を見つけた。テロリストは口元を緩めた。

 “これで大衆は目を覚ます。”

 三須は口から血を吐いた西野に視線を戻し、捜査官の腹部に3発の銃弾を叩き込んだ。撃たれた衝撃で西野の体が振動した。少しでも捜査官に苦しんでもらいたいテロリストは、敢えて西野の頭を撃ち抜かなかった。

 「先生、もうすぐですよ…」そう呟くと、三須は小田完治のところへ向かった。議員の頭部は何が何でも撃ち抜こうと、テロリストは計画当初から決めていた。

 すると、前方から赤色灯を光らせて接近してくる黒いSUVを目撃した。後ろを見ると、同じく赤色灯を光らせた車が近づいてくる。

 三須は急いで大きな血の湖の中で倒れる小田に近づき、銃口を議員の頭部に向けた。

 パンッと銃声が鳴り響き、三須の右手から拳銃が落ちた。彼は歯を食いしばって痛みに耐え、拳銃を拾おうとした。だが、その前に左脚を撃たれて片膝をつき、さらに顔を下に向けた一瞬の隙に顔面を蹴り飛ばされた。背中から地面に倒れた時、三須は自分を撃った人物を確認した。

 倒れる三須に拳銃を向ける新村の顔は冷静であった。そこからは何も読み取るができない。しかし、彼女の心は憎悪に満ちていた。思いを寄せていた野村を殺害した犯人が目の前にいる。できることなら、弾倉が空になるまで撃ちたかった。

 応援のSAT隊員2名が三須をうつ伏せにさせて両手首を縛り、テロリストをSUVへ連れて行った。その様子を新村は目で追い、三須が車に押し込まれると拳銃をホルスターに戻した。

 一方、他のSAT隊員たちは被弾した小田と西野の様子を見ていた。二人とも意識はないが、脈はあった。隊員たちは急いで止血を行ない、小田と西野を近くの病院へ搬送した。








 「そうか…。よくやった…」電話越しの黒田の声は暗かった。

 「現場は警察に任せていいのですか?」背後で忙しなく動き回る制服警官2人を見つめながら、新村が尋ねた。制服警官たちは現場の保存を行っており、女性捜査官がいる場所から離れた場所でも同じ作業が行われている。

 「これ以上、警察と揉める気はない。すぐに帰って来い。」

 「分かりました…」

 通話を終えても新村は三須を逮捕した現場から目を離すことができなかった。

 ブルーシートで覆われたSPの死体。西野と小田完治のおびただしい量の血。大量の空薬莢。MP-5K短期機関銃。USP拳銃。

 しばらく現場を見つめると、新村は踵返して待機していたSATの車に乗り込んだ。

 「支局の近くまで送って下さい。」後部座席のドアを閉めると、女性捜査官が運転席にいる隊員に言った。

 「了解。」

 車が走り出すと、新村はヘッドレストに頭を乗せた。

 “終わった…”

 そう思うと突然、今まで抑えていた感情が爆発し、涙が両頬を伝って首筋を流れた。喉がぐっと苦しくなり、彼女は前屈みになって声を押し殺して口を小さく開いた。

 前の座席にいた二人のSAT隊員は新村が泣いていることに気付いたが、後ろを振り向かず気付いていないフリをした。








 銃撃戦で右手の指を3本失った大多和であったが、手を元通りの姿に戻せる可能性が高いと担当の医師に言われて喜んでいた。

 応援に来たSAT隊員が機転を利かせ、大多和の指をすぐアイスパックで冷やしたので腐食の進行を遅らせることに成功していた。そして、これが捜査官の右手を元に戻す可能性を高めた。ネズミ取りの捜査官はすぐ手術室に運ばれ、指の縫合手術が開始された。

 この数分前、病院へ向かう車の中で大多和は隣に座るSAT隊員の桑野に、今まで抱いていた疑問をぶつけた。

 「あの中島って人は何者なの?あと、洞爺湖で何があったの?」

 桑野が目を見開いて大多和の顔を見た。「知らないんですか?」

 ネズミ取りの捜査官が頷く。

 「中島さんは洞爺湖サミットでテロ攻撃を計画した過激派を逮捕したチームのリーダーですよ。」驚きの表情を浮かべて桑野が言った。

 横に座る隊員の話しを聞いて大多和はあんぐり口を開けた。「あの中島一真?」

 「そうですよ。」

 これには捜査官も驚いた。講義や同僚の話しでしか聞いたことのない存在であったため、中島一真本人と共に行動していたとは夢にも思っていなかった。

 中島は洞爺湖サミット警備の応援として、警視庁から派遣されたSAT隊員の一人であった。彼が有名となった理由はSATの主目的である「無力化」を行わず、過激派メンバー全員を拘束したからである。これは中島の独断ではなく、突入の許可得る際、グループとその関連組織を一掃したい北海道警察本部長と警備部長から「可能な限り、犯人を拘束せよ」との命令を受けた故の行動であった。しかし、命令を下した二人はあまりテロリストの拘束に期待をしていなかった。

 命令を受けた中島と彼のチームは、過激派がアジトとして使っている貸事務所がある壮瞥町へ向かい、そこにいた7人のテロリストを一人も無力化せずに拘束した。

 費やした時間は2分9秒。

 テロリストは腕と脚に銃弾を受けていたが、致命傷に至るケガはなく、すぐにでも尋問できる状況であった。拘束後、警備部の爆発物処理班が過激派のアジトで4本のパイプ爆弾を発見した。

 「変わった人なんだな…」大多和が前方を走るSUVを見た。その車には中島と荒井が乗っている。「もっとお堅い人だと思ってた…」








 夜が明け、街に陽の光が拡散し始めた。そして、光が拡散するように、三須と小木による小田完治襲撃のニュースが瞬く間に朝の日本に広まった。

 全てのテレビ局が放送内容を変更し、小田完治の特集番組を放送した。それは襲撃された議員の容態を心配する内容ではなく、昨日から続いていた小田に対するテロ攻撃と彼や家族を誹謗中傷する内容であった。

 とある番組に出ていた評論家は「小田議員はテロを規制する法案提出の準備をしていた。この襲撃はそれに反対する勢力の犯行に違いない。彼が無駄な法案を作らなければ、このような事態は避けられた」と述べ、強く小田を非難していた。

 インターネットも小田完治の話しで持ち切りであった。ソーシャルメディアを中心に、現場を目撃した人々が写真や動画を投稿して盛んに事件の背景について推理していた。

 警察は議員を襲撃した人物は旅行代店に勤務する『小野田 良平』と『小木 康博』だと発表した。動機不明であり、ホテルの襲撃との関連も不明だと記者会見で言った。二人がネズミ取りの分析官と捜査官であることは伏せられ、彼らの顔写真も公開されなかった。

 不可解な点が多すぎるため、人々は報道が始めるなりミステリー小説を読むように事件を追っていた。またインターネット上では、ある男性について意見が交換されていた。その男性は複数のソーシャルメディアに登場するも、誰も彼の正体を知らなかった。襲撃の目撃者たちは、謎の男性は小田完治を襲った男との交戦の末に射殺された、とコメントを投稿している。しかし、警察、そして、大手マスメディアはこの人物について一切触れていない。

 あるインターネット掲示板では「都市伝説」として扱われるようになるも、一部の人々は謎の人物の正体を追い求めた。








 西野が目を覚ました。

 「起きたか?」

 声が聞こえ、西野が頭を枕から上げた。窓の横に置かれたスツールに座る黒田が見えた。上司の姿を見るなり、ネズミ取りの捜査官は三須のことを思いだして上体を起こそうとした。しかし、胸部と腹部に激痛が走ってベッドの上に落ちた。二人は病院の個室にいた。

 「無理をするな。傷口が開くぞ…」黒田が立ち上がる。

 「三須はどうなった?議員は?」早口で西野がベッド横に来た上司に尋ねた。

 「小野田良平こと三須圭介と小木は逮捕したが、二人ともダンマリを決め込んでる。小田議員は一命を取り留めたが、予断を許さない状況だ。」

 「そうか…」安心して西野は両目を閉じた。

 「一段落着いたが、まだ油断できない。三須と小木に対する尋問が強化され、奴らの仲間を全員―」

 「守谷はどうなった?」捜査官が黒田を遮った。

 話しの邪魔をされた童顔の黒田はむっとしたが、それを顔に出すことは無かった。

 「廃校舎で見つかった守谷と奴の仲間は死んだよ。」

 「確かか?」西野は疑心暗鬼になっていた。一度は死んだと思った男が現れ、殺されかけたのだ。

 「死体を見に行くか?まだ処理されてないと思うぞ。」

 しばらく二人の間で沈黙が続いた。

 「そろそろ行くよ…」黒田がドアへ向かって歩き出した。

 「野村たちはどうしてる?」ドアノブに手をかけた上司に西野が尋ねた。

 黒田は答えに困った。

 「今はゆっくり休め…」

 “まだ知る必要はない…”ネズミ取りの支局長は部屋を後にしようとした。

 「待ってくれ!」西野が大声で呼び止めた。その際に被弾した箇所が痛み、顔を歪めた。

 黒田がスライドドアを閉めて振り返った。「どうした?」

 「もう辞めようと思う…」目を伏せて西野が言った。「俺にはもうこの仕事を続ける自信がない…」

 黒田は何も言わなかった。

 「すまない…」そう言って西野は顔を窓の方へ向けた。

 「分かった。」黒田はそれ以上何も言わず、病室を後にした。








 果物の詰め合わせを小脇に抱えた男がナースステーションにやって来たので、奥で作業していた若い女性看護師のがカウンターに近づいた。

 「宮崎優さんの友人なんですが、病室はどちらでしょうか?」男が尋ねた。

 「宮崎さんは710号室にいます。お部屋はそこの角を曲がって…」看護師が男から見て左手にある曲がり角を指で示した。「まっすぐ行った突き当たりの左にあります。」

 「ありがとうございます。」面会簿に名前を書くと、男が笑みを浮かべて礼を言った。

 病室に近づくと子供の笑う声が聞こえてきた。部屋番号の書かれた札の下に2つの名前があり、一番上に「宮崎優」とあった。室内を覗き込むと4つのベッドがあり、奥の2つのベッドが使用されていた。片方はベッドを囲むようにカーテンを閉められていたが、もう一つには若い男性が座っている。彼の横には小さな女の子を膝の上に乗せてスツールに座る若い女性がいた。一家は笑顔を絶やさずに話しており、宮崎が大きく笑い声を上げると顔を歪めて腹部を右手で抑えた。まだ、刺された箇所が痛むようだ。

 辛抱強く一緒に行動してくれた若い刑事の病院にまで来たが、中島は一歩を踏み出すことができなかった。刑事の顔を見た時、彼は最初自分の目を疑った。そこには潜入捜査中に殉職した三浦大樹がいた。ベッドに座る三浦とその家族。しかし、すぐに勘違いであることに気が付いた。それでも彼の目頭は熱くなり、咄嗟に壁に背をついて両目を閉じた。

 “アイツは死んだんだ…”

 その時、人の気配を感じて中島が目を開けた。松葉杖をついて廊下を歩く老人と看護師が、彼に不審な目を向けていた。SAT隊員は室内に入ろうと壁を離れたが、すんでのところで足を止めた。そして、ナースステーションに向かい、果物の詰め合わせをカウンターの上に置いて立ち去った。

 宮崎と会った時から中島は、どこか若い刑事から三浦と似た雰囲気を感じていた。一緒にいてとても気分がよく、弟のように可愛がっていた後輩のことを思い出しては、悲しみと同時に奇妙な高揚感を持った。ゆえに宮崎が刺された時、SAT隊員は我を失って相手を射殺した。

 エレベーターが一階に着くと中島は、後ろ髪を引かれる思いを断ち切ってメインホールへ続く廊下を歩き出した。受付前に並ぶベンチの後ろを通って出入り口へ向かっていたが、その時に見慣れた横顔を見て足を止めた。

 「まだいたのか?」中島がベンチに座って雑誌を読んでいた藤木の隣に座った。

 「飛行機の時間まで6時間もあるんですよ。」ネズミ取りの男が顔を上げた。相変わらず彼の顔には笑みが浮かんでいる。

 「そうかい…」ベンチに深く腰掛けてSAT隊員が言った。

 「あの刑事さん…3週間後には退院できるそうですよ。」

 中島が藤木を見る。「そのストーカー癖は直した方がいいと思うなぁ~」

 「癖じゃないです。仕事ですよ。」

 しばらく二人は黙って前を見つめた。

 「アイツらの中に三浦の仇はいたのか?」中島が沈黙を破った。

 「あまり詳しいことは言えませんが…」横目で隣に座る男を見て藤木が口を開く。「三浦くんの死に関わったとされる3人のうち2人は亡くなりました。」

 「もう一人は?」

 「拘束されました。しかし、三浦くんと共に行動していた元警察官の報告によれば、直接手を下した男は、中島さんがやっつけちゃったみたいですよ。」

 「ふ~ん。」

 藤木は中島が嬉しそうな表情を見せるかと思っていたが、SAT隊員は表情一つ変えずにそっけない返事を返した。

 「そう言えば、あの議員と捜査官はどうなったの?」と中島。

 「議員の方はまだ危険な状況です。でも、捜査官の方は意識を取り戻しましたよ。」

 中島が突然立ち上がった。「そろそろ帰らないと、家族に怒られちまうな…」

 「休暇中でしたもんね…」藤木は再び雑誌に目を戻した。「また縁があれば、会いましょう。」

 「この世界にいたら嫌でも会うだろうさ。」ネズミ取りの男を見下ろしてSAT隊員が言った。「言い忘れてたけど、ありがとな…」

 藤木が目を上げた時、中島は既に自動ドアを抜けて外に出ようとしていた。

 「どういたしまして…」雑誌の記事に目を通しながら、藤木が小さく呟いた。中島は廃校舎で救ってくれた狙撃手が藤木と小川であることを悟っていた。

 中島と入れ違う形で小川が彼の隣に座った。「何で言わなかったんですか?」

 「何を?」と藤木。

 「三浦という人の死と藤木さんの関係ですよ。」

 菊池信弘のテロ計画を阻止するため、警視庁公安部は潜入捜査官として藤木を使うことも検討していた。しかし、年齢や彼の素性が一部団体に漏れていることを考慮した結果、公安部は新たに潜入捜査官候補を探し始めた。その候補が西野と三浦を含む5名であった。

 三浦の殉職を聞いた時、藤木は罪悪感を抱いた。

 “自分が潜入して死ぬべきだったのかもしれない…”

 それから彼は仕事の合間を縫って菊池たちの残党を探していた。そして、今日、それが終結しようとしている。

 「もう終わったことだよ、小川ちゃん。」

 長い髪を後ろで束ねている女性捜査官が下唇を突き出した。

 「ながーい、ながーい報告書を書かないといけないし…そろそろ出るかい?」藤木が雑誌を閉じる。

 二人は立ち上がって駐車場に向かって歩き出した。

 「そう言えば、さっき聞いたんですけど…」小川が口を開いた。「三須と小木が亡くなりましたよ。」

 助手席のドアを開けて藤木が部下の顔を見た。「それで?」

 「いや…」女性捜査官はたじろいだ。上司は眉一つ動かさなかったのだ。「一応、報告しようと思って…」

 「そう…。ありがとう、小川ちゃん。」

 藤木の様子に疑問を抱きながら小川は車を走らせた。駐車場を後にしようと一時停止した際、彼女の頭にある考えが浮かんだ。

 “それはないか…”

 あまりにも馬鹿げたことだと思い、小川は気持ちを切り替えて車を空港へ向けて走らせた。




終わり





(これで『返報』は終わりでーす。それじゃ!)

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返報 14-5 [返報]

14-5





 反対方向から聞こえてくる銃声が大きくなるに連れて池田と沢木の不安は大きくなり、荒井と中島が降下する直前に二人は大多和と桑野の所へ急いだ。二人は壁の角に隠れて正面玄関へ発砲する捜査官と同僚を見つけ、近づくと肩を軽く叩いて合図を送った。

 驚いた大多和と桑野は目を見開いて銃口を駆けつけたSAT隊員二人に向けた。しかし、相手を確認すると、素早くテロリストがいる方へ向き直った。池田と沢木も先着していた二人に倣って銃撃を開始した。彼らが遮蔽物として使う壁は銃撃で複数の穴が開いており、部分的に削り取られていた。

 4人を襲う銃弾の数は減ることなく、増える一方であった。そして、テロリストたちは弾幕を厚く張りながら、数人を裏口へ移動させて挟み込もうとしていた。大多和たちがこのようにして銃撃を続ける理由は、応援がもうすぐ来ると思っているからである。

 再装填のために遮蔽物に身を隠した大多和は、背後にいた沢木と位置を交代してMP-5SDの予備弾倉に左手を伸ばした。風を切る音が彼の耳に飛び込み、その直後、右手に衝撃が訪れて短機関銃が弾け飛んだ。身を屈めて銃に手を伸ばすと、大多和は真っ赤に染まった上に3本の指を失った自分の右手を目撃した。それまで全く痛みを感じていなかったが、大半の指を失った血だらけの手を見て激痛と衝撃がネズミ取りの捜査官を襲った。

 一方、大多和が身を屈めた時、彼の背後にいた沢木は背中を被弾して地面に叩きつけられた。彼は急いで遮蔽物まで戻って振り返った。仲間の動きで桑野と池田は背後から迫る5人のテロリストに気付いた。

 素早く二人が振り向くと、血だらけの右手を左手で庇う大多和を見つけ、一瞬固まってしまった。その時、池田の胸と腹部にテロリストの銃弾が命中してSAT隊員が尻餅をついた。桑野が急いで応射しようとしたが、短機関銃は弾切れであった。ゆえに沢木が先に射撃を開始したが、胸と首に複数の銃弾を受けて仰向けに倒れた。

 この時、正面玄関にいるテロリストは回り込んだ仲間が敵を始末すると推測して銃撃を止めた。
仲間の死に気付く余裕がない桑野は素早くUSP拳銃を抜き、右腕を突き出して引き金を引いた。しかし、発砲と当時に胸部に銃弾を受けて転倒してしまった。池田は倒れた状態で迫るテロリストに銃撃を加えた。しかし、火力の強さが違ったため、相手に引く気配はない。その内に弾倉が底を着き、彼は急いで拳銃の予備弾倉に手を伸ばした。

 突然、大多和が雄叫びを発して立ち上がった。彼の左手にはUSP拳銃が握られており、捜査官は敵の銃撃に怯まずに前進しながら発砲した。この際に大多和は何度か防弾ベストに被弾したが、臆することはなかった。しかし、4歩進んだ所で右脚を被弾して片膝をついた。池田と桑野は応射したかったが、大多和が邪魔で撃つことができなかった。捜査官とテロリストの距離は4メートル弱であった。

 “ここまでか…”

 死を覚悟した大多和は両目を閉じた。そして、再び風を切り裂く音を耳にした。

 “これが最後に耳にする音か…”と彼は思った。

 しかし、その音は一度で終わらずに何度も続いた。不思議に思った捜査官がもう二度と開くことは無いと思っていた目を開き、目の前で横たわる5つの遺体を見た。ふと背後にいる仲間へ視線を向ける。地面に倒れて銃を構える桑野と池田は唖然として大多和を見つめていた。

 7メートル離れた茂みから物音が聞こえ、三人は素早く、音のした方へ銃を向けた。目を凝らして茂みを見ていると、二人のSAT隊員が姿を現した。

 「遅くなりました…」近藤が言った。彼は本間たちテロリストグループがグランドホテルを襲撃した際、車寄せにいたテロリスト二人と交戦したSAT隊員の一人である。

 「でも、時間ぴったりじゃないですか?」近藤の隣にいた藤田が訊いた。彼も近藤と共にグランドホテルで戦ったSAT隊員である。

 「応援って…二人だけか?」大多和が銃を下げて尋ねた。

 「いえ…」近藤が応えると、茂みから黒い衣装に身を包んだ3人のSAT隊員が静かに現れた。また、大多和は接近してくるプロペラ音を耳にした。








 小田完治の車列が札幌空港まで残り8kmと迫っていた。別ルートで移動している彼の家族はまだ17kmほど離れた位置におり、議員を護衛するSPたちは飛行機の時間を少し遅らせる必要があると考えた。

 先頭車両に二人のSPが乗っており、その後続車両に小田完治と彼を警護するSP二人が乗車している。議員を乗せた車両を運転するSPが、ルームミラーで後方の安全確認を行った。後続車が現れても、長くて5分もすれば道を外れることが多く、運転するSPは何事もなく無事に警護対象者を空港に送ることができると確信を得ていた。それは助手席にいるSPも同じで、小田完治もテロリストの襲撃は終わったと思っていたのだ。

 ふと運転するSPがルームミラーを見ると、新たな後続車が付いていることに気が付いた。

 “コイツもすぐ曲がるな…”

 そう思った時、後続車の助手席から男が身を乗り出して筒状の物を構えた。筒状の物はロケットランチャーに見えた。SPが急いでハンドルを右に切って弾道から逃せようと動いた。その直後、助手席から身を乗り出していた小野田が中国製RPG-7の引き金を絞った。

 ロケット弾が猛スピードで議員を乗せた車に接近したが、命中する寸前で車は右へ移動して難を逃れた。しかし、この回避行動によって、先頭車両がロケット弾の餌食となった。車体の後部が直撃の際に生じた衝撃で浮き上がり、黒い乗用車は火を吹きながら頭から転がって道路に叩きつけられた。車内にいたSP2人はロケット弾の直撃と共に死亡し、それを目撃した他のSPと小田完治は息を飲んだ。

 小野田は一度車内に戻って、後部座席から新たなロケット弾を手に取った。慣れた手つきで彼はロケットランチャーの再装填を行い、炎上する乗用車の横を通り過ぎると再び窓から身を乗り出した。一方の小木は小田議員が乗車する車との距離に気を付け、接近過ぎないように速度をコントロールしていた。これには小野田と名乗っている三須も満足していた。引き入れた捜査官は想像よりも、的確な判断と行動ができる人間であった。

 ロケットランチャーを構えると、小野田はジグザグ走行を繰り返す標的に向けて照準を合わせた。

 “先生、見てて下さい…”三須は亡き恩師のことを思いながら引き金を絞った。








 恐怖に顔を引きつる荒井の顔を見ながら、守谷は人差し指に力を入れた。

 しかし、引き金が絞り切られる寸前に大男に投げ飛ばされた中島が、死を予期していたSAT隊員の右隣まで滑って来た。突然のことに守谷の視線が中島に移った。この機を利用して荒井は頭を左に傾けて銃口から身を逸らし、両手で拳銃を掴んで銃口を上に向けさせた。

 額に切り傷を持つ男は蹴りを荒井に入れようとしたが、その直前、腹部に衝撃と激痛が走った。中島が仰向けに倒れた状態で守谷の腹部に右蹴りを入れたのだ。この攻撃で銃が荒井の手に戻った。

 東京から来たSAT隊員が立ち上がろうとした途端、中田が防弾ベストで守られた中島の背中を蹴り飛ばして床に叩きつけた。大男が次の攻撃に出ようとした時、荒井が拳銃を大男に向けた。しかし、血走った目をした中田は素早く、荒井の銃を掴んで彼の顔面に右拳を叩き込んだ。想像を絶する痛みに荒井の意識が薄れかけ、拳銃から手を離してしまった。

 仲間の危機に気付いた中島は立ち上がる前に、大男の右膝頭に左踵を叩き込んだ。鈍い音と共に中田の右脚が反対方向へ曲がり、激痛に苦悶の表情を浮かべて大男は歯を食いしばった。間を置かずに中島を援護しようと荒井が、右拳で中田の左膝裏を殴って大柄のテロリストに片膝をつかせた。この時、テロリストが荒井の拳銃を床に落とした。素早く若いSAT隊員は、被弾していない右足で中田の口を蹴り飛ばした。

 同じ時、隙を見て起き上がろうと動いた中島の顔面に蹴りが飛んできた。片膝をついていた彼は急いで防御しようと左腕を上げた。蹴りの威力が強く、顔面への直撃は免れたものの、左腕に痺れが走った。腹部を蹴られて苛立っている守谷は、素早く次の蹴りを入れようと動いた。

 守谷の右脚が再び東京から来たSAT隊員の顔面に向かって飛んできた時、中島は痺れる左腕を振りかぶって拳を水平に振り、守谷の右脛にそれを叩き込んだ。脛に走る激痛を感じて額に切り傷を持つ男は右脚を下げ、その間に中島が素早く立ち上がった。痛みに耐えながら守谷は目の前に立つ男を睨み付け、相手の動きを窺った。双方ともにできればカウンターで相手を仕留めようと考えていたが、外から聞こえる複数の銃声が二人の心に焦りを与えた。

 左腕の痺れが薄れると、中島は素早く左脚を一歩踏み出して守谷との間合いを詰め、右蹴りを先ほどハンマーパンチを浴びせた相手の右脚に向けて放った。すると、テロリストは左脚を軸に体を90度回転させて攻撃を回避し、そのまま回転の勢いを利用して左拳を中島の顔目がけて放った。しかし、中島は頭を左へ軽く傾けて攻撃を避け、同じく左ストレートを繰り出した。

 中島の速度に慣れてきた守谷は飛んできた拳を右手で払い流し、左拳でSAT隊員の右頬を殴打した。好機を逃すまいと、守谷は間を置くことなく中島の右側頭部に右フックを一発お見舞いした。

 続けて二発の攻撃を頭部に受けた中島は流石にくらっときたが、勢いに乗る守谷の左フックが彼の顎横に向けて放たれると、被弾した右腕を上げて直撃する数センチ前で防いだ。これは反射的な行動であり、意識して行われた行動ではなかった。激痛が右腕に走り、中島は歯を食いしばってその痛みに耐えた。これがテロリストに追撃の隙を与え、それと同時に弱点を教えることになった。

 守谷は再びSAT隊員の右腕を殴ろうと左フックを繰り出し、それはだぶだぶの服を着た中島の右腕に叩き込まれた。傷口から離れた位置に命中したにも関わらず、形容し難い痛みが右腕全体に走り、さらに傷口から血が噴き出た。

 素早くテロリストが二打目を放とうとした時、中島は左掌底を相手の顔面に叩き込み、二人の間に距離が生まれると左押し蹴りを守谷の腹部に入れた。しかし、テロリストは右足で踏ん張ってバランスを取り、左前蹴りをSAT隊員の股間に向けて放った。中島は左膝を内側に向けて相手の蹴りを防ぎ、距離を詰めようと接近してくる守谷の鼻頭に向けて左拳を突き出す。

 拳の接近を確認するなり、額に切り傷を持つ男は身を屈めて回避し、そのままSAT隊員の右側へ移動した。急いで相手を追いながら、中島が左ストレートを放つ準備に出た時、テロリストが負傷している中島の右腕を力強く掴み、さらに守谷はSAT隊員の傷口に中指を押し込んだ。

 想像を絶する激しい痛みに中島は苦痛の表情を浮かべて呻き声を上げた。それ見た守谷は声を出して笑い、中指をさらに深くSAT隊員の傷口に侵入させた。この時、優越感に浸るテロリストは、右から迫る肘の存在に気付けなった。中島は痛みから逃れるため、左肘を守谷の右側頭部に素早く二度叩き込んだ。

 不意を突かれたテロリストは痛みよりも屈辱を感じた。その感情が強かったため、彼は一度掴んだ中島の右腕から手を離そうとはしなかった。しかし、SAT隊員の左拳が守谷のこめかみを直撃した時、あまりの痛みに手の力が抜けた。この好機を逃すほど中島は間抜けではない。彼は左掌底で守谷の額を押すように殴り、続けて右蹴りで額に切り傷を持つ男の左横腹を蹴り飛ばした。

 東京から来たSAT隊員が脚を引く直前、テロリストは中島の右脚を掴み、さらに彼の防弾ベストの肩部分を掴んで左へ放り投げ、中島を壁に強く叩きつけた。そして、相手が態勢を立て直す前に守谷は、再び壁に中島を叩きつけようと前蹴りをSAT隊員の腹部に叩き込んだ。

 荒井に蹴られて前歯が折れた中田の口元は血で赤く染まり、彼は歯を失った痛みで苦しんでいたが、彼の双眸は左脚を被弾したSAT隊員の姿をしっかり捕えていた。

 再び荒井が右蹴りを同じく顔に向けて放とうとした。しかし、中田はそれを右手で掴み、左拳を水平に振って荒井の胸部に強烈な打撃を加えた。若いSAT隊員はこの攻撃で一時的な呼吸困難に陥り、パニックに陥った。その間に大男は、中島に折られた右脚を引き摺って荒井の上に馬乗りになり、両拳を交互に若いSAT隊員の顔面に叩き込んだ。本能的に荒井は両腕を上げて顔を防御するも、振り下ろされる

 中田の拳は重く、腕が痛みで悲鳴を上げ始めた。しかし、この間に彼の呼吸は元に戻りつつあった。
その時、大男の両手が荒井の首を掴んで強く絞め始めた。荒井の防御を退くことができなかったため、中田は隙だらけの首を掴んだのだ。元に戻りつつあった呼吸が乱されて若いSAT隊員は、苦痛の表情を浮かべて首を絞めるテロリストの手を掴んだ。しかし、ビクともしない。そこで荒井は左拳で中田の骨折している右脚を殴った。

 苦悶の声が大男の口から洩れ、荒井は腕を多く振って再びテロリストの脚を横から殴った。今まで痛みを堪えていた中田であったが、今回は大きな声を上げて感情を露わにし、右脚を庇いながらSAT隊員の右隣へ転がるように逃げた。

 首を絞めていた手が消えると、大量の酸素が荒井の肺に流れ込んできた。咽ながらも彼は次の攻撃に出ようと上体を起こし、その時、一度は奪われた自分の拳銃を見つけ、右手を伸ばした。

 一方、守谷が思い描いた通りに中島は壁に背中を強打し、苦痛の表情を浮かべた。次の攻撃を回避するため、東京から来たSAT隊員が動こうとした時、テロリストが中島の着ている防弾ベストの肩部分を両手で掴み、頭を少し後ろへ動かした。頭突きを予想した中島は、守谷の頭が振り下ろされる直前に前頭部を突出し、頭突きが繰り出されると同時にテロリストの鼻頭を砕いた。守谷の鼻から大量の血が吹き出し、SAT隊員は生温かい液体を頭部に感じた。

 この時、外で行われていた銃撃戦が一時中断された。しかし、廊下にいる4人はそれに気づいていない。

 呻き声を漏らしながら守谷は後退し、中島は追い打ちをかけるようにテロリストの股間を右足で蹴り上げ、相手が前屈みになると左拳を守谷の右頬に叩き込んだ。額に切り傷を持つ男は股間を両手で抑え、その場で両膝をついて丸くなった。相手の戦意が無くなったことを見ると、中島は荒井へ視線を向けた。

 ちょうど若いSAT隊員がUSP拳銃を手に取った時、中田が荒井に飛び掛かって来た。咄嗟に荒井は胸元で構えていた拳銃の引き金を絞り、銃弾がテロリストの顎を吹き飛ばした。そして、彼は大男のタックルを受ける直前にもう一度引き金を絞って、相手の胸部に銃弾を叩き込んだ。

 二発の銃弾を受けて息絶えようとしている中田は、最後に強力なタックルをSAT隊員に浴びせ、相手と共に床に落ちると同時に死亡した。一方の荒井はテロリストの体当たりを浴びた際、中田の肩が顎に命中し、脳震盪を起こして気を失った。

 急いで中島が荒井の所へ走ろうとしたが、何かが首に巻きついて動きを止められた。パラシュートコードが彼の首を圧迫し、SAT隊員が首に触れようと左手を上げたが、手が届く前に右膝裏を蹴り飛ばされて床に片膝をつかされた。首への圧迫がさらに強くなり、中島は顔を真っ赤にして呻き声を上げた。

 「すぐ仲間の後を追わせてやるよ…」パラシュートコードを強く引っ張る守谷は、首に巻き付いた縄を掴もうとしている中島の右脚を踏みつけた。テロリストは荒井が死んだと思っていた。

 首を絞められて後ろに引っ張られているため、荒井の状態を確認しようとしても、中島には床に倒れる黒い影を視界の隅に捉えることしかできない。呼吸が苦しくなり、目の前に靄がかかり始めた。







 車内はパニック状態であった。

 運転手のSPが冷や汗をかきながら、ルームミラーとサイドミラーを利用して襲撃者の姿を探し、見つけると急いでジグザグ走行し、さらに加速して距離を開けようとした。交差点が無いので、この方法で切り抜けるしかなかった。一方、助手席にいた彼の同僚は震える右手で拳銃をホルスターから抜き、振り返って後部座席にいる小田に伏せるように言った。それでも国会議員は迫りくる襲撃者の姿をリアグラス越しに見続けた。助手席のSPはシートベルトを外し、席から身を乗り出して小田完治の上着を掴むと急いでシートの陰に引っ張った。

 「伏せてくださいッ!」

 「そんなことより、アイツらをなんとかしろッ!」議員が怒鳴った。

 その時、三須がロケットランチャーの再装填を終えて窓から身を乗り出した。

 “先生、見てて下さい…”心の中で呟くと、三須はゆっくりと引き金を絞った。

 ロケット弾が発射される直前、三須と小木が乗る乗用車に衝撃が訪れた。その影響でロケットランチャーが少し上を向き、ロケット弾は標的の上を通過して数メートル先にあった車両用信号機に命中した。爆発と同時に破壊された信号機が小田を乗せた乗用車の前に落ち、突然のことに運転手は反応できず、車は落下してきた信号機に激突して動けなくなった。

 三須と小木が後方を見た時、二人は予想外の人物を目にして驚いた。

 「何でアイツがここにいるんだ!?」小木が思わず叫んだ。彼は西野が三須の仲間に捕えられていると聞かされていたので、同僚の出現にかなり動揺していた。それは三須も同じであった。

 「分からないッ!」動揺を隠して三須が助手席に戻り、ロケットランチャーを後部座席に放り投げた。すぐに彼は席の下に隠していたMP-5Kを取り出した。「西野は後だ。まずは小田を始末するッ!」

 西野に気を取られていた二人が意識を前に向けると、小田が二人のSPに連れられて乗用車から離れようとしていた。

 「轢けッ!」三須が逃げる小田を睨み付けながら叫んだ。

 命令を受けて小木が車を逃げる3人へ向けて走らせる。しかし、二人が乗る車が標的まであと6メートルに迫った時、西野の車が左後輪部分に体当たりしてバランスを崩された。テロリストの車はぶつけられた場所を支点に右へ回転し、一瞬、西野が乗る車と隣り合う形となった。ここで西野が三須と小木に向けて発砲しようとしたが、そうしようとした時に停車していたSPの車に激突し、エアバッグが作動して顔面を強く打った。

 小木は素早くハンドルを操作してバランスを保とうとしたが、ちょっとした操作ミスで車体を振り過ぎ、電柱にぶつかって車体後部がめり込んでしまった。それでもネズミ取りを裏切った捜査官は、アクセルを踏み込んで移動を試みた。

 「俺は小田を追う。お前は西野を始末しろ。」三須は短機関銃を右手に持って車を降り、小田とその護衛を追って走り出した。








 ヘリコプターのプロペラ音を消すように、断続的な銃声がグラウンド内に響いた。

 廃校舎の上空を旋回するヘリコプターには二人のSAT隊員が乗っており、その内の一人はH&K社製のPSG-1狙撃銃で地上にいるテロリストと交戦した。彼の隣にいる隊員は豊和工業の89式自動小銃で狙撃手の援護していた。

 上空の二人が地上にいるテロリストの注意を引き、その間に大多和たちの援護に来た5人のSAT隊員が、空に向けてアサルトライフルを発砲しているテロリストの側面に回った。一方の大多和、桑野、池田は後方警戒を頼まれ、三人は片膝をついて周囲に目を配っていた。

 二方向からの銃撃によって、優勢だと思い込んでいた守谷の部下たちは、混乱して四方八方に銃を向けて引き金を引き続けた。この混乱はSAT隊員たちにとって嬉しいものであった。銃弾が頭上を通過することもあったが、下手に狙われるよりも被弾する確率が低くなる。

 地上にいる5人のSAT隊員は、校舎入り口前に置かれた車を利用してテロリストに近づき、パニックに陥っている守谷の部下に銃弾を浴びせた。当初8人いたテロリストは狙撃手によって6人に減らされ、さらに地上のSAT隊員が銃撃を加えると一人また一人と倒れた。

 仲間の死を目にして絶望を感じていた最後の一人が立ち上がり、雄叫びを上げて手榴弾の安全ピンを抜いた。彼は力を振り絞ってそれを数メートル離れた場所にいる5人のSATに向けて投げた。その直後に男はヘリコプターに乗っていた狙撃手に胸を撃ち抜かれ、口から血を吐きながら倒れて息絶えた。グレネードはSAT隊員たちの2メートル手前に落ち、隊員たちは素早く車の陰に隠れて爆発から逃れた。

 銃声は完璧に途絶え、グランドにはヘリコプターのプロペラ音しかない。上空を旋回していたヘリコプターは機体を少し揺らして地上に着地し、乗っていた二人のSAT隊員が地上で戦っていた5人と合流した。

 「校舎内とその周辺を捜索するぞ!」地上にいたSAT隊員の一人が言い、他の6人が頷く。「二人は先着の隊員たちの手当を、その他は俺に続け。」

 指示を受け取ると、ヘリコプターに乗っていた二人のSAT隊員が大多和たちの所へ走った。彼らは緊急医療キットを持っており、重傷者がいればすぐにでもヘリに乗せようと考えていた。一方、地上で戦い続けている5人のSAT隊員は短機関銃の再装填を行い、銃を構えて慎重に校舎の中に入って行った。








 「まだ到着しないのか?」黒田が近くに座っていた女性分析に尋ねた。彼はSAT4名を小田完治警護、そして、西野を拘束するために派遣していた。

 「あと10分程かかる様です。」ポニーテルの女性分析官がパソコンのディスプレイを見つめながら、器用にキーボードを操作している。

 「あれ以降、西野から連絡はあったか?」

 「いえ、ありません。」作業に集中したい女性分析官は黒田との会話を切り上げたかった。

 「そうか…」

 支局長は落胆した表情を浮かべて、背後にある巨大スクリーンへ目を向けた。画面の左端にはグランドホテルで起こった出来事を報じている各局のニュースが表示され、反対側には北海道の道路状況、公共交通機関の運行状況が表示されている。画面の中央には小田完治の移動ルートと現在地の情報が映し出されていたが、分析官たちは議員を乗せた車が5分以上動いていないことに気付いていなかった。しかし、スクリーンを見ていた黒田は気付いた。

 「何故、議員の車が止まっているんだ?」先程まで話していた分析官に問いかけた。

 女性分析官が不機嫌そうな顔をして上司を見た。「もしかしたら、通信の影響で止まって見えているのかもしれません。」

 「確認しろ。」

 口を尖らせて分析官がキーボードを叩く。「通信に問題はありません。GPSの問題―」

 黒田は彼女が話し終える前に空いていたパソコンの前に座り、議員を乗せた車の位置情報を確認した。

 “5分以上前から止まってる…”黒田の背筋に悪寒が走った。

 彼は急いでSPとの連絡を試みたが、誰も電話に出なかった。

 「ヘリの出動要請だ。誰でもいい。手の空いてる捜査官を出し、議員の安全を確保しろッ!」








 拳銃を構え、小木が恐る恐る西野の乗用車に近づいた。

 車内は暗く、同僚捜査官の姿を確認することができない。小木は西野が運転席と助手席の上で横になり、自分を待ち受けているかもしれないと考えた。そこで彼は運転席側の窓とドアに向けて4度発砲した。しかし、反応がない。

 “逃げられた?”

 そう思った時、小野田が破壊した信号機の火がSPの車に引火して小さな爆発が起きた。緊張状態にあった小木は銃口をSPの車に向けた。素早く銃口を元の方向へ戻そうと動いたが、彼の後頭部に冷たく固い物が突きつけられた。

 「銃を捨てろ」西野が言った。彼の声は氷のように冷たかった。

 小木は両目を閉じ、自分の軽率な行動を呪った。組織を裏切った捜査官は拳銃を地面に落とし、それを西野の方へ蹴り飛ばした。

 「両手を頭の―」

 再び西野が口を開くと、小木は頭を左に傾けて銃口から逃げ、左足を軸に半回転して銃を持つ元同僚捜査官と向き合った。彼は素早く西野の銃を右手で掴み、左肘を相手の右側頭部に叩き込んだ。そして、肘打ちの勢いを利用して西野の顔面に入れようと拳を水平に振った。

 同じ訓練を受け者同士、相手の動きをある程度読むことができたため、西野は姿勢を低くして攻撃を避け、立ち上がりながら小木の顎に左掌底を突き上げるようにして打ち込んだ。続いて裏切った捜査官を突き飛ばそうと動いた瞬間、小木が銃の握られている西野の右手の指を殴って拳銃を奪い、そのままUSPの銃床で相手の顔面を殴りにかかった。

 しかし、西野は間一髪のところで上半身を仰け反らせ、銃床が彼の鼻頭をかすめた。小木の攻撃が大振りであったため、西野は相手の手首を左手で掴み、下へ引きながら右腕を小木の肘に押し当てて関節技を決めた。そのまま右足を軸に回転して西野は、元同僚を停車している車に叩きつけた。車体にぶつかる際、小木は右手で受け身を取ったので顔を打つことはなかった。それを予期していた西野は右拳を肘に向けて振り下ろし、裏切った同僚の腕をへし折った。

 呻き声を上げて小木が片膝をついた。その隙に西野は拳銃を取り上げ、有無も言わずに左腕を折られた元同僚の両脚を撃った。激痛に小木は一度体をビクンと反応させて地面に倒れ、撃たれた部分に触れようとしていた。

 「ここで大人しくしてろ。」西野がUSPの弾倉を抜いて残弾を確認した。残り5発。「すぐに小野田も連れて来る…」弾倉を押し込み、捜査官は倒れている元同僚を見た。

 「くたばれッ!!」唾を飛ばしながら小木が怒鳴った。彼の目は血走っており、今まで見たことないほどの憎悪を持っていた。

 しかし、西野はそれを無視して、小木の拳銃を拾い上がると急いで小野田の後を追った。







<次回が本当の最後になると思います。はい。>

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14-4






  医務室で治療を終えた新村がメインホールに入ると、黒田を囲むようにして並ぶ分析官たちが見えた。部下に囲まれている支局長は大きなスクリーンの前で声を張って話しており、若い女性捜査官は話しを聞くために分析官たちの群れに近づいた。

  「―と思うが、先程とりかかっていた作業に戻ってくれ!」話し終えると黒田は、自分のオフィスと正反対の方向へ歩き出した。

 事情を知らない職員たちは野村と奥村を殺した犯人がまだ施設内にいると思っており、できることなら早く事件を解決して不安を払拭したかった。ゆえに黒田の指示は職員の不満を増幅させた。

「何があったの?」新村が近くにいた同期の女性分析官に尋ねた。

「野村さんと奥村さんが殺されたのよ。ここの地下駐車場で…」

 女性捜査官は自分の耳を疑うと同時に眩暈を覚えた。本間のアジトで野村に助けてもらった時から彼女は、先輩捜査官に心惹かれていた。

 「犯人は?」新村が落ち着きを取り戻しながら再び尋ねた。
 
 「まだ誰が犯人かも分かってない。それより、アンタ大丈夫なの?」同僚の顔色を見て女性分析官は心配になっていた。

 「ちょっと…ゴメン…」そう言うと新村は黒田の後を追った。支局長なら何か知っていると考えての行動だった。

 一方、水谷の拘束室に入った黒田はドアを閉じ、分析官が操作しているノートパソコンの画面を覗き込んだ。そこには複数のウィンドウが表示さており、水谷は頻りにキーボードを叩いてウィンドウの文字や数字を追加または消去していた。

 「それで、何が見つかった?」と黒田。

 「小野田の他にも内通者がいたようです。」男性分析官が新しいウィンドウを表示させ、その下部にあったツールバーの再生ボタンを押した。

 そのウィンドウに重なるように倒れる野村と奥村が映し出された。駐車場奥の監視カメラ映像を拡大したものだったので画質は落ちていたが、二人を判別することができるほどの物だった。倒れている二人に歩み寄る男がいた。男の姿を見るなり、黒田はそれが小木だと分かった。

 「小木が―」

 その時、映像の中で小木が奥村の頭部に銃弾を撃ち込み、黒田は開けていた口を閉じた。怒りに体が震え、きつく閉じた唇も小刻みに震えだした。次に彼が目にしたのは腰を屈めた小木と映像の右端から現れた小さな影だった。その影が画面の端で動くと、倒れていた野村の体がビクンと痙攣を起こしたように跳ねた。

 「ズームアウトしろ!」

 指示通りに水谷が映像を元の大きさに戻し、野村を撃った男を拡大表示させた。

 「小野田…」黒田が呟いた。

 「小野田は西野さんが参加していた作戦の通信を妨害した上に、監視カメラ映像のデータを改竄していました。主に堀内というテロリストがいた拘束室の映像とこの地下駐車場の映像です。」
パソコンの画面に映る小野田の姿から目を離さず、ゆっくりとネズミ取りの北海道支局長が上体を起こした。「小野田と小木の手配を行う。お前はここで調査を続けてくれ。まだ内通者がいるかもしれない。」

 「分かりました。」

 このやり取りをマジックミラー越しに見ていた新村は言葉を失っていた。また、彼女は自分の中で湧き上がってくる“何か”を感じた。








 手稲の中継基地で証拠隠滅を終えた中田率いる12人のテロリストは、緊張が解けて行く感覚を楽しんでいた。手稲から張碓までの移動で彼らは多くの検問を目にしていたので、待ち伏せ攻撃の可能性を考えて行動し、この用心深さが彼らの心臓に大きな負担を与えた。しかし、周囲を森に囲まれた廃校舎の姿が見えると、テロリストたちの間に走っていた緊張が消え始めた。そして、その時、彼らは爆発音を耳にした。

 車が校舎の前で止まると、中田は我を忘れて校舎の中へ走り、ドアを開ける寸前にベルトに挟めていた拳銃を抜き取った。他の仲間たちもアサルトライフルを抱えて大男の後に続いた。ドアを蹴り開けて室内に入り、中田は素早く廊下の安全確認を行う。人影はない。

 「5人は俺と一緒に右に、他は左に行け!」中田が指示を出し、テロリストたちは素早く行動に出た。








 西野たちは素早く、慎重に前進した。先頭に大多和と荒井、中央に沢木と池田、西野、そして、殿に中島と桑野と言う順であった。彼らはテロリストの態勢が立ち直る前に建物から退避し、増援が来るまで森を利用して戦おうとしていた。計画通りに動いていれば、4分後に増援部隊が到着する予定だった。しかし、黒田が小野田の捜索にその部隊を投入したため、中島たちが期待する増援は正反対の場所へ向かって出発していた。

 1階を目指していた一行であったが、2階に降りると下から駆け上がってくる複数の足音を聞いた。そして、大多和が階段へ足を踏み入れようとした途端、1階と2階の間の踊り場に上がってきた男に出くわした。男の手にはアサルトライフルが握られている。

 両者ともに目が合うと、敵と認識して銃口を向け合った。だが、大多和が引き金を絞ろうとした時、背後にいた荒井が身を乗り出して先に発砲し、男の胸に3発の銃弾を叩き込んだ。

 その間に二人の後ろにいた沢木と池田が壁沿いに歩いて直進し、曲がり角に到達すると先頭の沢木が素早く角から頭を出して進行方向の安全を確認する。そして、人影の有無を確認すると、彼はしゃがんで角から身を乗り出して援護の体勢に入った。素早く沢木の背後にいた池田を先頭にして一行が窓に沿って移動を再開した。

 2階に上がろうとするテロリストと交戦する大多和と荒井は階段の手摺りに身を隠して、敵の前進を阻止している。銃弾が二人の隠れている遮蔽物とその周りに命中し、破片と粉塵が2階に続く階段に拡散した。火力はテロリスト側の方が強く、大多和と荒井は遮蔽物から銃だけ出して撃つことしかできなかった。

 殿の中島が二人の横を通り過ぎる際、手前にいた大多和の右肩を強く二度叩いた。仲間全員が通り過ぎたという合図であった。ネズミ取りの捜査官は撃つのを止め、隣にいた荒井の肩を同じく叩いて中島の後を追った。荒井は弾倉が空になるまで撃ち続け、弾が切れると急いで大多和に続いた。

 振り返ると、片膝をついて銃を構える中島の姿を確認した。東京から来たSAT隊員は荒井の援護をするために待機していたのだ。彼の後ろには逆方向を警戒する沢木がいる。荒井は再装填の前に防弾ベスト左からフラッシュバンを取り、安全ピンを外すとテロリストがいる方へ放り投げた。それは音を立てて階段を下って行き、階段を駆け上がろうとしていた男たちの足元で爆発した。

 一方、池田を先頭に前進を続ける西野たちは前方から出現した6人の武装した男たちを発見し、銃撃を避けるために素早く壁の凹みや教室の中に飛び込んだ。彼らと距離があった沢木、荒井、中島は近くの遮蔽物へ移動するため、姿勢を低くして走り、そして、前方から迫ってくる男たちが発砲するなり三人は応射を開始した。西野たちも遅れている仲間のために弾幕を張り始める。

 敵のアサルトライフルから放たれた銃弾が頭上を掠っても、前進する三人のSAT隊員は遮蔽物に達するまで怯まず、敵に狙いを定めて慎重に引き金を絞り続けた。中島たちの銃撃によって、6人中1人が死亡し、2人が腕と脚に被弾して悲鳴を上げた。テロリスト側の被害は大きかったが、中島たちは目立った外傷を受けていなかった。確かに、いくつかの大口径の銃弾が服や防弾ベストを掠めたが、どれも大事に至る程の被害ではない。

 三人のSAT隊員は素早く先行していた仲間と合流し、壁の凹みに隠れると再装填を終わらせて周囲に目を配った。

 「集合しろ!」廃教室に身を隠していた大多和が叫んだ。彼の声は右耳に差し込まれた小型無線機を通って、西野を除く通信機を共有する仲間たちの耳に届いた。

 メンバーを自分のいる場所へ終結させようと、大多和は共に行動していた池田と一緒に援護射撃を展開し、他のメンバーも敵へ発砲しながら移動した。その時、中島の背中に衝撃が訪れ、思わず転倒しまった。それに気づいた沢木が足を止め、中島の腕を掴んで立ち上がらせた。

 最初は中島が滑って転んだと思った沢木であったが、振り返ると足止めしていたテロリストが走って来るのが見えた。憎悪を顔に浮かべて迫る6人のテロリストに沢木は恐怖し、急いで中島と共に大多和たちのいる教室へ急いだ。

 状況にいち早く気付いた荒井は、中島と沢木が無事合流できるように床に伏せて後方から接近してくる敵に向けて引き金を絞り続けた。すぐに他のメンバーもそれに倣って両方向から迫るテロリストへ発砲し、弾幕の厚さから敵の動きが少し鈍くなった。

 その頃、大多和は急いで窓付近にあった古い暖房のパイプにロープを縛り付け、何度かきつく引っ張って強度を確認すると窓を開けてロープの輪を外へ放り投げた。黒いロープの輪は落下するに従って一つの黒い線となった。次にネズミ取りの捜査官は下の状況を確認し、安全が確保されると後ろで警戒態勢に入っていた池田の肩を叩いた。

 「行くぞッ!」そう言うと、大多和はロープを掴んで窓から身を乗り出し、地面へゆっくりと降下した。








 銃撃戦が展開されている2階に降りると守谷は中田と合流した。額に切り傷を持つ男と彼の部下はわざわざ西野と中島が通った穴を抜け、3階を隈なく捜索してから来たために遅れて到着した。しかし、遅れても守谷は今までの無駄な時間を短縮させるだけの道具を持ってきた。

 「皆殺しにしろッ!!」守谷が手榴弾を西野たちが隠れている教室に向けて投げた。

 手榴弾は教室の前方を警戒していた西野と桑野の付近に落ち、それを確認すると二人は急いで教室内に身を潜めて爆発に備えた。強烈な爆風と破片が周囲に拡散し、通路と教室扉の窓が砕けて廊下がガラス片で満たされた。また、老朽して脆くなっていた壁や天井も破壊され、硝煙で満たされていた通路に埃が宙を舞った。

 守谷の参戦はテロリスト側の士気を高め、アサルトライフルを持つ男たちは一斉に銃撃しながら前進した。大口径の銃弾が一挙に西野たちが隠れる教室に集中し、追い込まれた西野とその救出部隊は床に伏せ、壁を貫通して室内に無数の穴を開ける銃弾の雨を回避した。問題は銃撃だけではなかった。守谷と中田が前進する仲間の後に続き、アサルトライフルの再装填が始めると、すかさず手榴弾を教室に向けて投げた。教室まで9メートルほどの距離があった。

 一方、大多和に続いて池田、沢木がロープを伝って降下して仲間の到着を待っていた。

 「先に行って下さいッ!!」西野と共に行動する桑野が、自分の拳銃用予備弾倉をネズミ取りの捜査官に渡した。

 「ダメだ!俺より君が―」弾がぎっしり込められた弾倉を拳銃に叩き込んで西野が叫んだが、手榴弾が爆発して最後の部分が掻き消されてしまった。

 「私の仕事はあなたを救出することですッ!」再び始まった銃撃に声を消されないよう、桑野が大きな声を上げた。

 「いい雰囲気のところ、申し訳ないですけど…」中島が這って二人のところにやってきた。「ここは私と荒井さんで足止めするんで、逃げてください!」

 「しかしッ!」西野が食い下がる。

 「もう話してる暇なんてないんですよぉ~。早く窓から逃げて下さい。じゃないと、みんな死んじゃいますよぉ!」

 西野は渋々這って窓の方へ急いだ。桑野は残るつもりでMP-5SD短機関銃の再装填を行った。

 「君も行くんだ!」中島が桑野に向かって叫んだ。

 これを聞いて桑野は短機関銃の予備弾倉を東京から来たSAT隊員に渡そうと動いた。しかし、中島はそれを制した。「代わりにフラッシュバンとスモークをくれッ!」

 言われた通りに桑野は二つの異なるグレネードを中島に渡し、急いで西野の後を追った。教室に残るのは中島と荒井の二人となった。二人は接近してくるテロリストの銃撃を耳にしながら、互いに目を合わせた。そして、ほぼ同時に発煙弾[注:スモークグレネード]の安全ピンを抜いて廊下へ放り投げた。

 廊下に落下したグレネードを目撃したテロリストたちは一瞬怯んだが、煙が噴き出てくると恐怖心が薄れて行き、再び前進を始めた。だが、すぐに視界が悪くなり、両方向から接近していたテロリストたちの勢いが止まった。その隙に中島と荒井は仰向けになって両脚で床を押しながら、窓へ移動を始めた。移動しながらも二人は敵のいる方向へ向けて発砲を行った。

 「押し続けろッ!」守谷が檄を飛ばし、煙幕に怯んでいた仲間たちが銃撃を再開した。

 その頃、中島と荒井は窓まで辿り着いており、あとはロープで降下するだけであった。二人とも短機関銃の弾倉が尽き、拳銃で弾幕を張り続けた。

 「お先にどうぞ!」中島が右隣にいる荒井に言った。

 「それでは、失礼しますッ!」そう言うと、荒井は一度拳銃をホルスターに戻した。銃弾が周囲を飛び交う中で立ち上がるのは怖かったが、彼は勇気を振り絞って中腰姿勢を取ってロープを掴んだ。壁に沿うようにして素早く立ち上がると左脚に激痛が走り、あまりの痛さに荒井は床に倒れてしまった。

 「大丈夫か?」拳銃に新しい弾倉を入れて中島が叫んだ。

 「脚を…撃たれました…」

 消え入りそうな声で呟いたため、荒井の声は中島に届かず、東京からSAT隊員は心配して拳銃を発砲しながら荒井に近づいた。

 「生きてるか?」荒井の背中に自分の背を押し当てて中島が尋ねた。

 「な、なんとか…」仲間に聞こえるように荒井はできるだけ大きい声を出した。

 「こんな所から、おさらばするぞ!」中島は発砲しながら、フラッシュバンを廊下へ投げた。これで少しでも時間が稼げると思い、彼は荒井の腕を掴んで立ち上がらせた。

 その時、窓枠に大量の血が降り注ぎ、中島の右腕の激痛が広がった。右腕を見ると、シャツの上腕部が血で赤く染まっている。泣きたくなるほどの痛みであったが、彼はそれを堪えて荒井を逃がそうと左腕だけで脚を負傷したSAT隊員の体を持ち上げようとした。

 一方、守谷と中田が最後の手榴弾をSAT隊員たちが隠れている教室へ投げ、それと同時に中島が投げたフラッシュバンが爆発し、テロリストたちの視覚と聴覚が一時的に麻痺した。守谷たちのグレネードの一つが教室のドア枠に命中し、そのまま室内へ進入した。

 偶然振り返った中島は教室に進入した手榴弾を目撃し、急いで荒井を床に押し付けて彼に覆い被さった。そして、手榴弾が爆発した。








 中島と荒井を待っている西野たちは神経を研ぎ澄ませて周辺警戒を行っていた。周囲に遮蔽物がないため、円陣を組んで周囲に目を配り、少しでも音が聞こえると素早く銃を音源へ向けた。

 小野田という人物を演じている三須を捕まえたい西野は、なかなか降りてこない中島と荒井に腹を立てていた。そのため、しきりに上を見て中島たちの姿を求めた。

 「議員の命が危ないんだ。すぐにでも追わないといけない。」西野が右隣にいる大多和に言った。

 「とは言っても、仲間は置いて行けないだろ。」脅威の有無を確認するため、視線をすばやく動かしながら大多和が応えた。

 「三須が…いや、小野田が議員の命を狙っているんだ!早く止めないと―」

 「小野田が議員を?」大多和が西野を遮った。彼は同僚の気が狂ったと思って動揺したのだ。「何故、アイツが?」

 「奴は議員と俺に復讐しようとしている。理由は後で話す。今は小野田を捕まえることが最優先だ。」

 「なら、一緒に行こう。」西野の説明に納得できなかったが、大多和は彼の必死さに敗けた。「SATのみなさんには申し訳ないが、俺と西野は小田議員のところへ向かう。」

 「援護はいらないんですか?」桑野が尋ねた。

 「できれば…欲しい。」大多和が言葉を詰まらせながら言った。この状況で援護を求めることが、どれだけ非礼な行為か分かっていたからだ。

 「それでは池田と沢木をここに残し、私が行きます。」と桑野が言った。彼は一度仲間に目を配り、二人の隊員は目を合わせると頷いた。「すぐに戻る…」

 「テロリストの車両が正面玄関にある。それを使おう…」大多和が西野を見た。彼は建物に侵入する際、正面玄関に駐車されていた2台の車を目撃していた。

 「そうしよう。」

 そして、西野、大多和、桑野は立ち上がって正面玄関へ向かった。大多和を先頭に素早く前進し、廃校舎の角まで来ると立ち止まり、念のために敵影を探した。テロリスト全員が建物内にいると思っていたが、アサルトライフルを持つ8人が正面玄関で警戒態勢を取っていた。彼らは敵の増援を恐れた守谷が配置した見張りだった。また、テロリストの車両が増えていることに気付いた。

 「簡単に行きそうにないぞ…」見張りを見つけた大多和が背後で待機する西野と桑野に言った。「重武装したテロリストが少なくても8人にいる。」

 姿勢を低くして西野は大多和の陰から正面玄関の様子を窺った。6台の車が正面玄関を塞ぐように、一列に停められている。盾として使うのだろう、と西野は思った。彼らから一番近い車は19メートル先にある。

 「私が時間を稼ぎをします。」桑野がスモークグレネードを手に取った。

 「一人じゃ無理だ。」大多和はここに来たことを後悔していた。「俺と桑野で注意を惹き付ける。西野、お前一人で行け…」拳銃の予備弾倉1つを西野に渡してネズミ取りの捜査官が言った。

 建物の陰に戻った西野が申し訳なそうな目で同僚を見た。「しかし…」

 「時間がないんだろう?俺の気が変わらない内に走る準備をしろ。」大多和がスモークグレネードを防弾ベストから取った。

 「ありがとう…」西野が頭を下げた。

 すると、大多和が口元を緩めた。「準備はいいか?」彼は自分の隣に移動してきた桑野を見た。

 「いつでも。」

 「んじゃ、行くか…」グレネードの安全ピンを外し、大多和はもう一度桑野を見た。SAT隊員が頭を縦に振る。それを確認すると、大多和と桑野はスモークグレネードを正面玄関へ向けて放り投げた。

 大きな弧を描いてグレードが宙を舞い、弧の真ん中あたりで煙を吹き出して地面に落ちた。見張りの8人はスモークグレードが発した煙の放出音を耳にすると、素早く銃を持ち上げて周囲に目を配った。
彼らが西野たちの姿を探す間、黄色の煙が拡散して8人の間に恐怖と混乱が走り、彼らは数歩下がって敵の姿を探し求めた。

 テロリストが受け身になっている隙を狙って西野は、列の最後尾にある乗用車に向かって一目散に走り出した。銃を構えることもなく、両手を大きく振り、両脚を素早く動かして彼は運転席に向かっている。大多和と桑野は建物の陰に体を半分隠して仲間の動きを見守り、テロリストが西野を発見しないことを祈った。

 ネズミ取りの捜査官が運転席側のドアに手をかけた時、テロリストの1人が西野を見つけ、叫び声を上げてアサルトライフルを発砲した。銃弾が乗用車のフロントウィンドウに複数の蜘蛛の巣に似た銃痕を生み、西野は反射的にしゃがんで身を隠した。仲間が発砲を開始すると、他の7人も乗用車に向けて銃撃を加えた。

 “上手く行かないな!”大多和が急いで煙の向こう側にいるテロリストに向けて短機関銃の引き金を絞った。桑野も彼に倣って発砲する。8人のテロリストは予期せぬ攻撃に怯み、注意を西野から大多和たちへ移した。

 乗用車への銃撃が止むと西野は急いで運転席のドアを開けようとしたが、ドアはロックされていた。仕方なく彼は銃床で窓を叩き割り、錠を解除してドアを開けると鍵の有無を確認した。幸運なことに車の鍵は差し込まれた状態で、捜査官はすぐにエンジンをかけて車に乗り込んだ。

 エンジン音に驚いたテロリストたちは車に銃口を向けた。だが、大多和と桑野の銃撃が激しかったため、すぐに銃を元の方向へ戻した。

 西野はギアをリバースに入れてアクセルを踏み込み、車がエンジンを唸らせて勢い良く後退を始めた。この動きは大多和たちに向けて発砲していたテロリストの注意を引き、複数の銃弾を受けて車のフロントライトが砕けた。捜査官は急いでハンドルを切って方向転換し、ギアをドライブに変えると再びアクセルを踏み込んだ。

 土煙を巻き上げながら、猛スピードで校庭を走り去る乗用車を視界の隅で確認した大多和は、小さな喜びと大きな悲しみの両方を感じていた。








 廃校舎との距離が開き、銃声が小さくなると、西野は上着のポケットから携帯電話を出そうとした。しかし、彼の電話は守谷に拘束された際に奪われていた。黒田と連絡を取って小野田の身柄を押さえたい西野は、できるだけ早く黒田に三須と守谷の計画について報告したかった。

 「クソッ!」ネズミ取りの捜査官は、公衆電話を探すしかないと思って悪態ついた。

 その時、シフトレバーの付近で明かりが生まれた。視線を移動させると、テロリストの一人が置き忘れたスマートフォンの画面が煌々と光っていた。西野はそれを手に取ると、急いで黒田のオフィスに電話をかけた。

 数回呼び出し音が鳴った後に黒田の声が聞こえてきた。「黒田です。」

 「すぐに小野田を拘束してくれ!」名乗ることなく、西野が送話口に向かって叫んだ。

 黒田は混乱したが、声の主が西野だということは分かった。「西野か?今、何所にいる?」

 「大多和たちに救出されて、国道5号線を走ってる。それより、小野田を―」

 「私も小野田と小木を追っている。」西野を遮ってネズミ取りの支局長が言った。「お前も…お前も内通者なのか?」

 黒田がまだ自分を疑っていることに、ネズミ取りの捜査官は衝撃を受けた。しかし、今はそのことについて話す時ではない。

 「俺は内通者じゃない。全ては三須―いや、小野田の罠だ。アイツは俺と議員の命を狙っている。」

 「何故?」

 「2年前の潜入捜査だ。俺は小野田と守谷と言う男が所属していたグループに潜入し、奴らのテロ攻撃を阻止した。死んだと思っていたが、名前と顔を変えて復讐の機会を窺っていたようだ。」

 西野の説明はにわかに信じがたいものであったが、黒田は敢えて口を挟まなかった。ゆえに捜査官は先を続けた。

 「小野田は議員を殺す気だ。議員の居場所が分かれば、小野田を止めることができる。」

 「なら、すぐにSPに連絡し、SATを出動させる。」黒田が上着のポケットから携帯電話を取り出した。

 「それじゃ間に合わない!俺が向かう。議員は何所にいる?」

 捜査官の問いに黒田は答えるべきか悩んだ。“西野が内通者ではないと確定した訳じゃない…しかし…”

 「議員は札幌空港に向かっている。」悩んだ挙句に支局長は議員の行き先を教えた。

 すると、支局へ向かっていた西野は急いでUターンした。








 フラッシュバンで麻痺していた感覚が戻り、さらにスモークグレードの煙が廊下から消えると、守谷たちは中島と荒井のいる教室に向かって歩き出した。慎重に銃を構えながら歩を進めるテロリストたちが教室のドア横に辿り着くと、外で立ち上る黄色い煙を目にした。煙の出現から少し遅れて彼らは銃声を聞いた。

 “敵の増援か?”素早く窓横にあった柱の陰まで移動して、守谷が外の様子を窺った。スモークグレードが生んだ煙でほとんど何も見えず、彼は乗用車で三須を追った西野の姿を見ることもなかった。

 「中田と3人は俺について来い!」額に切り傷を持つ男が叫び、命令を受けた4人が守谷の後を追って1階へ走った。

 残されたテロリスト12人の内、6人がゆっくりと敵が隠れている教室の中に入った。彼らが銃弾で滅茶苦茶に破壊された教室内で見たのは、暖房機の付近で倒れる二人の男だった。一人がもう一人の上に覆い被さるように倒れている。ガラス片や木片、埃で満たされた床には二人の物と思われる血が流れていた。

 “死んでいたか…”

 教室内にいたテロリストたちがそう思っていた時、荒井は薄目を開けて突撃銃を持つ6人の男を見た。男たちは銃口を床に向けていたが、もし荒井が少しでも動けば、素早くアサルトライフルを構えて撃ってくる可能性があった。ゆえに彼は死んだフリをすることにした。

 「荒井、早く降りて来いッ!!」右耳に差し込んでいた通信機から外で待機している沢木の大声が聞こえてきた。予期せぬ声に荒井は驚いて体をビクンと反応させてしまった。

 教室を後にしようとしていたテロリストの一人が、ピクリとも動かない中島の下で倒れているSAT隊員の動きを見た。

 「おいッ!」荒井の動きを目撃したテロリストが仲間を呼んだ。「コイツ、まだ―」

 金属片が床に落ちて甲高い音が室内に響いた。音を耳にしたテロリストたちが素早く振り返って音源を探す。そして、彼らは足元に転がって来る小さな黒い物体を見つけた。テロリストの一人が突如現れたフラッシュバンを蹴り飛ばそうとした時、眩い閃光と爆音が室内を満たした。

 死を覚悟していた荒井は目を閉じていたので視覚を奪われることはなかったが、爆音のせいで聴覚が麻痺した。6人のテロリストは両目を閉じて呻き声や怒鳴り声を上げ、教室の外で待機していた残りの6人が様子を見にやって来た。

 気が付くと荒井が背中に感じていた重さが消え、突然体を持ち上げられた。呻き声を上げながら、中島は若いSAT隊員に左肩を貸して血で赤く染まった右手でロープを掴んだ。右腕を少し上げるだけでも激痛が走ったが、彼は荒井と共に逃げるために歯を食いしばって痛みに耐えた。片脚を撃たれた荒井と一緒に行動するのは楽ではなく、二人の動きは遅くて窓枠を乗り越えるのに酷く手を焼いた。

 窓枠を上がるのに苦戦する二人を目撃した6人のテロリストは、フラッシュバンで二つの感覚を失って混乱に陥っている仲間を横目に突撃銃を構えて狙いを定めた。すると、教室前方ドアから進入した三人の一人が仰向けに倒れた。
 
 男の顔には大きな銃痕があり、そこから血が流れ出ている。銃弾は顔よりも後頭部に大きなダメージを残し、男が倒れると同時に大量の血が床に広がった。他の5人は中島と荒井から死亡した仲間へ視線を向けた。続いて死んだ男の隣にいた男が同じように倒れた。今回は首に銃弾を受けていた。間を置かずに三人目、四人目が頭を撃ち抜かれた。

 一方、中島は左腕だけで荒井を持ち上げて窓枠を乗り越えた。荒井が先にロープを握り、被弾していない右脚でバランスを取って降下を始めた。素早く中島も荒井の後に続いたが、彼の場合は右腕を撃たれていたので、両脚を器用に使って降りるしかなかった。それでも二人はテロリストの射角から外れ、距離も少しずつ離した。

 テロリストの中に混乱が生まれた。仲間の死に気を取られている間に、追い込んでいたはずのSAT隊員二人が窓から姿を消した。そして、追跡しようにも窓の外に広がる森林から飛んでくる銃弾が彼らの動きを止めた。姿の見えない狙撃手の狙いは鋭く、ほぼ急所に銃弾を撃ち込んできた。12人いたテロリストは4人にまで減らされた。

 「良い感じじゃない?」単眼鏡越しにテロリストの動きを見ていた藤木が言った。

 「それじゃ、そろそろ議員の所へ行きませんか?」10倍のスコープを通して敵の姿を探す小川が口を開いた。

 「そうだね…」

 小柄の女性捜査官がスコープから顔を離し、狙いを安定させるために寄り掛かっていた木から身を引いて立ち上がった。

 「そのライフル…G-28だっけ?」藤木が小川の持つセミオートマチックの狙撃銃を指差す。「それの使用報告書を書いて欲しい。本部が気に入れば、採用になるかもしれないし…」

 「はーい。」面倒くさそうに小川が言った。








 自分は普通の人よりも優れている。小木はそう思っていた。そして、彼を正当に評価しない世の中に失望していた。

 警察から引き抜かれた小木は他の捜査官よりも積極的に行動し、23件のテロ計画を阻止してきた。刑事時代の知識と経験を活かして多くの情報提供者を獲得し、彼らから様々な情報を入手して小木は組織に貢献してきた。事実、北海道支局が有する情報提供者の12%は小木の管理下にある。それでも彼に対する黒田の評価は低かった。

 職場に対する鬱憤が募る中、テロリストの追跡中に小木は被弾して入院した。大多和の処置が素早く、そして、的確であったために命に別状はなかったが、この事件で小木のネズミ取りに対する忠誠心に亀裂が走った。

 事件発生前から容疑者の武器携帯が確認されていたのにも関わらず、黒田は拳銃携帯を頑なに拒否し、穏便に拘束するように捜査官たちに求めた。その結果、テロリストと交戦して小木は腹部を被弾した。入院しても黒田が見舞いに来ることはなかった。他の職員も彼の様子を確かめようとしなかった。しかし、例外が一人だけいた。

 小木が退屈そうにベッドに寝転がってテレビを見ていると、果物の手土産を持った小野田良平が病室にやってきた。

 「元気ですか?」小野田が人懐っこい笑顔を浮かべた。

 予期せぬ来客であったが、小木は嬉しかった。両親や友人の多くが他県に住んでいるため、話す相手は看護師または医師だけあり、個室のベッドに寝ていることが多かったので他の患者との交流は皆無だった。小野田とはあまり話した事がなかったが、腹部に銃傷を持つ捜査官は気にせず職場のことを日が暮れるまで尋ねた。

 小野田の偽名を使う三須は何度もお土産を持って小木を訪れ、互いに職場の愚痴を言い合った。この時、小木は小野田も自分と同じように、職場に不信感を持っていることを知って嬉しかった。二人は2週間と言う短い間で友情を深めた。三須は小木と彼の情報提供者を利用するつもりであったが、小木の方は完全に三須を友人の1人だと信じていた。

 「一緒に今の組織を変えよう…」退院の1週間前に三須は計画を打ち明けた。詳細については伏せたが、彼は小木にテロ攻撃の計画とそれが対テロ機関の体質を変える唯一の方法であることを説いた。

 ネズミ取りへの忠誠心を捨てていた小木は、三須の計画に賛同して協力することを誓った。その一環として、自分の情報提供者を利用して武田衛の行動をネズミ取りに流した。全ては三須が手配したテロリストの動きを秘匿するための行動であり、黒田が指揮する対テロ機関は疑いを持つことなく武田衛に全労力を注いだ。武田を餌にする案は守谷のものであった。武田であれば、上手くネズミ取りの注意を引くことができると彼は確信していたのだ。しかし、かつての仲間であった武田との直接的なやり取りは求めなかった。全ては秘匿性を保つためだった。

 「どうやら、議員は家族と別行動を取り始めたようだ…」助手席でノートパソコンを操作する三須が言った。

 「狙いは議員のままなのか?それとも両方か?」小木が横目で助手席に座る男を見た。

 「まずは議員だ。それから家族にしよう。」

 「道はこれで合ってるのか?」

 「大丈夫だ。あと10分も走っていれば、議員の車列が見えるさ…」








 地に足が着いた瞬間、中島の体に走っていた緊張が解けた。彼は左手で右腰のホルスターに収められていたUSP拳銃を抜き、荒井の横に並んだ。彼よりも先に降下していた荒井は壁に寄り掛かって周囲の安全確認を行っていた。

 「どうやら、先に行っちゃったみたいですね…」視線を鋭く周囲に配りながら荒井が言った。

 「別の方向から銃声が聞こえるから、そっちの応援に行ったんじゃない?」中島は一度片膝をつき、拳銃を左膝裏に挟めると弾倉を抜いて残弾を確認した。薬室の銃弾も合わせて、残り5発。残弾少ない弾倉を元に戻して予備弾倉のホルスターを確認したが、そこは空であった。

 「応援に行きましょう。」荒井が片手をついて壁から離れた。

 「止血を先にしよう。このままじゃ、死んじゃうよ。」降下の際に利用したロープの一部を中島が小さいナイフで切断した。

 荒井の怪我を考慮した中島は5メートルほど離れた林ではなく、危険を承知でもう一度廃校舎の中に戻った。苦戦しながらも二人は近くにあった窓から建物に進入し、埃とゴミで一杯になっている部屋に入った。ドアは閉まっており、またテロリストが出したと思われるゴミの山があったため、身を隠すにはちょうどいい場所であった。

 傷の様子を確認した二人は、切り取ったロープを使って出血部位の少し上をきつく縛った。これで出血の勢いを防いだが、できるだけ早く適切な処置を施す必要があった。

 「ところで、荒井さんの残弾は?」中島が思い出したように尋ねた。

 「薬室合わせて7発です。予備はもう無いです。中島さんは?」

 「あと5発だよ。」そう言うと、東京から来たSAT隊員は拳銃から弾倉を抜き、薬室の銃弾も取り出してそれを弾倉に入れると荒井に渡した。「何の足しにもならないと思うけど、持っててよ。」

 「でも…」

 「んじゃ、オイラはそろそろ行くよ。」中島が立ち上がった。しかし、窓の外を走る複数の影を見て、彼はすぐ姿勢を低くした。

 「俺も行きます!」5発の銃弾が込められた弾倉を、防弾ベストのポケットに入れて荒井が言った。「応援が来るまで戦います。」若いSAT隊員は被弾した左脚を庇いながら立ち上がった。

 「弾も少ないし、その怪我じゃ邪魔になるかもしれないよ。」

 「仲間は見捨てることはできません!」

 中島は困った顔をして考えた。荒井は変わらず真剣な眼差しを東京から来たSAT隊員に向けている。

 「弾の数には気を付けてよ。」中島が荒井に肩を貸した。

 「ありがとうございます!」

 二人は外にいるテロリストを警戒して、敢えて廊下に出ることを選んだ。また、これは正面玄関にいるであろう敵を撹乱するための行動でもあった。中島がドアノブを回し、静かに扉を内側に引いて廊下の様子を窺う。暗い通路に人影はない。ドアを開けて東京から来たSAT隊員は、壁に寄り掛かっていた荒井に肩を貸してと共に廊下に出た。そして、二人は固まった。

 守谷と中田は2メートル先に現れた二人のSAT隊員を見て虚を突かれた。この二人は職員専用口から逃げようと急いでいた。

 素早く荒井が銃を二人のテロリストに向け、中島が部屋へ戻ろうと動く。それを見ても、中田は躊躇せずに突進してきた。猛スピードで接近してくる大男を見て中島は、荒井を室内へ戻そうと左手で突き飛ばし、中田と向き合った。

 一方の荒井はバランスを取ってドア枠にしがみつき、すぐに体勢を立ち直して廊下にいるテロリストへ視線を戻す。その時、ちょうど中田が彼の目の前を通り過ぎ、中島に強烈なタックルを浴びせようとしていた。ゆえに荒井はもう一人のテロリストの姿を探した。彼が守谷を見つけた時、テロリストの拳銃が自分の方へ向けられていた。荒井はすぐに壁から離れ、守谷に向けて発砲した。

 タックルを受ける直前に中島は右斜め前に移動し、左肘を中田の顔面に向けて放った。しかし、大男は見た目から想像できない速さで攻撃を回避して、左へ体を回転させて右フックをSAT隊員の横腹に叩き込んだ。すかさずテロリストは立ち上がりながら、右アッパーを中島の顎に向けて繰り出す。東京からSAT隊員は上体を後ろへ下げて攻撃を避けると同時に、左蹴りを中田の股間に入れた。股間への攻撃に中田は悶絶し、彼の勢いが弱まった。好機を逃すまいと、中島は左拳を水平に振って大男の顎横に叩き込み、その勢いを利用してテロリストの右肩を掴んで引き寄せると、左膝で中田の腹部を蹴り上げた。

 一方的に攻撃される中田は苛立ち、SAT隊員が左肘打ちを放とうとするなり、中島の防弾ベストを掴んで左へ放り投げた。

 至近距離であるにも関わらず、荒井は守谷を仕留めることができなかった。左脚の怪我が集中力を削ぎ、焦りが狙いを不安定にさせていた。残弾が2となった時、守谷の銃に異変が起こった。空薬莢が排出口に挟まり、動作不良を起こした。額に切り傷を持つ男は故障した拳銃を荒井に投げつけ、SAT隊員が体勢を立て直す前に距離を縮めて荒井の拳銃を掴んだ。

 若いSAT隊員は守谷を突き飛ばそうとしたが、片脚だけでは上手く力を入れることができず、顔面に守谷の掌底を受けると同時に拳銃を奪われた。この時、荒井はバランスを崩して尻餅をついた。素早く顔を上げると、目の前に銃口があった。

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返報 14-3 [返報]

14-3







 「小野田が三須?」西野は唖然とした。「ありえない。そんなこと…」

 「アイツも苦労したらしいぞ…」守谷が椅子から立ち上がった。「特にお前が拘束された時だ。本来であれば、小田の事務所を襲撃した時にお前も議員も死ぬ予定だった。しかし、お前は小田を救った…小野田は取り乱していたが、すぐにお前と他の連中を唆してホテルに向かわせた。まぁ、これも失敗したが、まだ終わった訳じゃない。」

 ネズミ取りの捜査官は未だに守谷の話しが信じられなかった。“嘘だ。コイツは嘘を言っている。俺も混乱させるつもりなんだ…”

 「アイツも小田を始末したら、ここに来る。お前を始末するためにな…」

 守谷が一瞬、西野に背中を見せた。捜査官は両手を動かして逃げようとしたが、縄はビクともしない。しかし、彼の座らされている木製の椅子は古く、西野が動く度に軋む音がした。

 「それまで、思い出話しに浸ろうじゃないか…」額に切り傷を持つ男が、机に置いていたナイフを持ち上げた。

 振り返ると、守谷は椅子に両手を固定されたまま突進してくる西野を見えた。彼は素早く西野の胸に向けてナイフを突き出した。だが、ネズミ取りの捜査官は刃物が突き出される瞬間に体を捻り、椅子を守谷の右横腹に叩きつけた。

 虚を突かれた守谷は呻き、そして、彼の額に青い筋が浮かんだ。テロリストはナイフを水平に振って切りかかったが、刃が捜査官に届く前に西野は再び椅子を守谷に叩きつけた。2度目の衝撃で椅子が壊れて解放されたが、手首にはまだ縄と肘置きが付いている。

 椅子による攻撃で激痛に悶える守谷は素早く動くことができずにいた。その間に西野は机にあった自分の拳銃に手を伸ばしたが、テロリストはそれを阻止するために捜査官の左脛を蹴り飛ばした。痛みで伸ばしていた手は意図していた拳銃ではなく、守谷が使用している携帯電話を取ってしまった。

 西野が再び拳銃を取るために動くと、額に切り傷を持つ男がベルトに挟めていた拳銃を取り出してネズミ取りの捜査官に向けた。引き金にかけられた指が動く寸前、西野は反射的に窓を突き破って外に飛び出した。








 新たに指揮を執ることになったSPの『大窪』が大まかな予定と移動ルートを小田完治に説明し、遅くとも15分後には出発する旨を伝えた。議員とその家族は丘珠空港こと札幌空港に送り届けられ、その後、チャーター機に乗って東京に行く計画になっていた。

 「二人で話せないか?」説明を聞き終えた小田完治が大窪に言った。

 「はい…」少し戸惑った様子を見せたが、SPの大窪はドアの近くにいた仲間に視線を送った。すると、視線を受けた女性SPが応接室のドアを開けた。

 「お前たちは外で待っててくれ。」小田が隣に座る家族の方を向いた。

 「どうして?」小田の妻が尋ねた。「別に構わないでしょ?」

 「すぐに終わる。それにどうしても二人で話したい事があるんだ。頼むよ。」

 納得は行かなかったが、小田の家族は重い腰を上げ、何度も彼の方を振り返りながら部屋を後にした。

 女性SPがドアを閉め、応接室は小田と大窪だけになった。SPは背筋を伸ばしたまま、警護対象者が話し始めるのを待ち、小田はブラインド越しに見える家族の姿をソファーから目で追っていた。その眼差しは悲しそうであった。

 「議員…」大窪が口を開くと、小田完治がSPの方へ視線を戻した。

 「すまないな…ちょっと頼みごとがあるんだ。」

 「何でしょう?」

 「私と家族を別々に送ってもらいたい。」

 大窪は虚を突かれ、目を見開いた。「しかし、そうなれば―」

 「襲撃者の狙いは私だ。私の家族ではない。一緒に行動すれば、家族が犠牲になる…それはできるだけ避けたい。空港に行くまでだ。その後は共に東京に戻る。」

 「お気持ちはわかりますが、ご家族とご一緒に行動された方が護衛を強化することができます。もし、別々に行動すれば、護衛も二手に分けることになって守りが弱くなります。」大窪は小田の案に反対であった。「それにご家族も反対を―」

 「家族には私から説得する。」小田はこれ以上話す事は無いと言うように、ソファーから立ち上がった。「時間もないだろうから、早く家族に説明したい。席を外してもらえるかな?」

 SPは渋々立ち上がって応接室を後にした。








 仕事を終えた毛利直弘は重く圧し掛かる疲労感に気怠さを抱きながら、車の鍵をスラックスのポケットから取り出した。警備員である彼は今まで巡回と監視カメラ映像の確認という退屈な毎日を過ごしていたが、今日は職員の拘束やテロリストの逃亡などで異様なほど忙しかった。

 藍色の乗用車に乗り込むと毛利は鞄を後部座席に放り投げ、スマートフォンを車のステレオに繋げてお気に入りのアーティストの曲を流した。曲のイントロが聞こえてくると車を発進させ、歌が始まると毛利は小さな声で歌詞を口ずさんだ。ハンドルを右に切って出口を目指し、いつものように彼の私用車がある駐車場へ向かおうとしていた。

 歌詞を口ずさんでいた警備員であったが、右折を終えようとした時に思わず急ブレーキを踏んで額をハンドルにぶつけそうになった。彼は素早くサイドブレーキを引いて車から降り、血の海に横たわる2つの遺体に駆け寄って脈を確認した。

 “し、死んでる…”

 毛利は野村と奥村の死体から後ずさり、車に置いていたスマートフォンを取って緊急連絡先に電話した。








 西野と守谷のいる建物は5階建で、二人は5階にいた。ゆえに窓ガラスに体当たりして外に飛び出すなり、ネズミ取りの捜査官は死を予期した。

 重力に引かれて落下する捜査官は目を閉じて衝撃を待った。しかし、待てども衝撃は訪れない。閉じた目を開けようにも、瞼は思い通りに動かず、ゆっくりとしか開かない。睡魔に襲われているかの如く重い瞼が半分まで上がると地面が見えた。だが、そこに至るまでが永遠のように感じられた。全てがスローモーションなのだ。

 反射的に西野は両腕で頭を庇おうとするも、腕はゆっくりにしか動かない。地面が数メートルに迫っていたが、両腕は顔から15cmほど離れた場所にある。

 1m。

 やっと、両腕が頭まで届き、ネズミ取りの捜査官は衝撃に身構えた。その次に来るのが死だと思っていても、彼の生存本能はまだ生き続けることを求めていた。

 凄まじい衝撃と共に西野はコンクリートに叩きつけられた。想像を絶する激痛が全身に走り、捜査官は呻き声を上げた。痛みに悶える西野であったが、それと同時にまだ生きていることに驚きと喜びを感じていた。

 捜査官は地面に落ちたと思っていたが、実際は3階の屋上に落ちていた。この建物は廃校になった小学校であり、3階と4階の部屋数が違ったために3階から下が少し突き出ていて階段の様になっているのだ。それが西野の命を救うことになったが、その代償に形容し難い激痛に苦しめられることになった。両腕と脚が痺れ、痛みから逃れようと仰向けに寝転がってネズミ取りの捜査官は呼吸を整えた。この際に落下の直前に掴んでいた守谷の携帯電話を落とした。

 “逃げろ!”

 捜査官の本能が叫んだが、身体が言う事を聞かなかった。痛みに耐えながらゆっくり上体を起こすと、銃声が真上から聞こえ、その直後に脚の間のコンクリートが弾け、その破片が西野の体に降りかかった。視線を上げようとした時、再び銃声がして右足近くに着弾した。

 瞬間的に大量のアドレナリンが分泌され、全身を走っていた激痛が和らぐのを西野は感じた。そして、三度目の銃声が聞こえる前に彼は目の前にあった窓に向かって走り出した。両腕で頭部を守りながら、西野は右肩から窓に体当たりして転がり込むように室内へ逃げ込んだ。

 しかし、休む間もなく彼は再び脅威に直面した。西野は銃声を聞いて5階へ急いでいた男と鉢合わせし、男は急いでアサルトライフルを構えようと動いた。素早く捜査官は左へ移動してライフルの射角から外れると、被筒(注:ハンドガード)と銃床を掴んで股間に向けて右蹴りを繰り出した。股の間に繰り出された右膝は綺麗に命中し、相手のライフルを持つ手の力が弱まった。その隙に西野は銃床を軸に被筒を持ち上げ、男の鼻頭に叩きつけた。念のために三打目を入れようとしたが、背後から声が聞こえてきたので、すぐにライフルを取り上げて遊底を一度引き、躊躇うこと無く相手の胸部と頭部に銃弾を撃ち込んだ。

 まだ両手首に縄と肘置きが固定されていたが、西野はインド製のアサルトライフルを構えて素早く前進した。声のした方向とは逆の道へ駆け足で進み、前方に同じアサルトライフルを持った2人組の男が曲がり角から現れると、捜査官は身を低くして発砲した。しかし、走りながらの発砲は不安定で狙いが上手く定まらなかったため、同じく接近してくる二人相手に12発以上の弾を使ってしまった。弾倉には残り5発しかない。

 ネズミ取りの捜査官は持っていたライフルを捨て、射殺したテロリストの1人からライフルを奪って再び走り出した。その時、目指していた曲がり角から守谷率いる5人の男が曲がり角から現れた。素早く方向転換して逆の道に向かって駆け出したが、数十メートル先からも複数の人影が迫っていた。西野はできるだけ姿勢を低くしながら壁に沿って素早く移動し、進行方向を邪魔する人影に向けて発砲した。

 撃たれた方も一度は応射を試みたが、向かい側にいる味方への被害を考慮して銃撃を止めて壁の凹みに身を隠し、捜査官の動きを伺った。

 道は切り開かれたが、そこには待ち伏せするテロリストが少なくとも8人はいた。西野にとって最悪の状況であった。それでもライフルが火を噴き続ける間、不安な気持ちはなかった。しかし、アサルトライフルが弾倉内の銃弾を全て喰い尽くした時、彼は奈落の底に突き落とされた。

 銃声が止むと守谷たちは追い詰められたネズミのように壁に張り付く西野に近づいた。

 「往生際が悪いぞ…」守谷が拳銃の銃口を捜査官に向けた。

 額に切り傷を持つ男を見て西野はライフルを放り投げて立ち上がり、壁から離れて守谷と向き合った。追い詰められても西野は周囲に目を配った。左隣は壁。右隣には窓の間に立つ柱がある。5メートル前には守谷とその部下が5人。肩越しに後方を確認するも、後ろからも8人の男が近づいてくるのが見えた。西野は完全に逃げ場を失った。

 「三須が帰って来るまで、大人しくできないのか?」と守谷。

 “ここまでか…”

 静かに目を閉じて西野は深く息を吸い込んだ。そして、ゆっくりと吸った空気を吐き出すと同時に窓ガラスの砕ける音がして、重い何かが落ちる音を耳にした。驚いて目を開けると、捜査官の目に仰向けに倒れている男の姿が飛び込んできた。

 「いっ、痛てぇ~」突然現れた男は呻きながら立ち上がり、服に付いた埃を払い始めた。男は防弾ベストを着ており、腰には拳銃と特殊警棒、予備弾倉が収められたベルトを装着している。

 「誰だ?」守谷が突如現れた男に銃口を向けた。

 すると、守谷と西野の間に落ちてきた乱入者が顔を上げて額に切り傷を持つ男を見た。「お取り組み中でした?」

 「答えろッ!」額に切り傷を持つ男が怒鳴った。

 「そう怒らないで下さいよ!」男が一度腕時計に触れてから、両手を頭の位置まで上げて3歩後ろに下がった。

 この時になって西野は自分の方へ後退してきた乱入者の姿をはっきりと確認した。男の着ている服は体形に合っておらず、防弾ベストからはみ出している袖と裾が異様に膨らんでいる。次に捜査官はバックライトで青く光る男の腕時計を確認した。明かりが消える直前の文字盤にはデジタル数字で『02.05』と表示されていた。

 「舌を噛まないように…」中島が真後ろにいる西野へ視線を送って呟いた。

 「えっ?」捜査官が聞き返そうと身を乗り出した。

 強烈な爆発音が聞こえた。そして、それと同時に西野と中島を囲むように粉塵が立ち上がり、それは煙幕の様に周囲へ広がった。守谷たちは身を守るため、反射的に両手で頭を覆って二人から顔を逸らした。安全を確認すると、テロリストたちは素早く粉塵を左手で這いながら前進して西野と中島と探した。だが、二人の姿がなかった。

 「何所に―」額に小さな切り傷を持つ男が怒鳴ろうとした時、彼の足元に黒く細長い物体が落ちた。








 2台の乗用車が小樽署を離れた。その1台には小田完治が乗車しており、4人のSPに警護される国会議員は札幌空港に向けて出発した。その時、ネズミ取りの北海道支局は大混乱に陥っていた。

 毛利の報告によって施設は完全に閉鎖され、テロリストの捜索が行われているのにも関わらず外部への通信も遮断された。作業を中断した職員がメインホールに集められ、彼らは駐車場で発見された野村と奥村の死体について話し、黒田が来るのを待っていた。

 一方、支局長の黒田は込み上げてくる怒りを抑えるので精一杯だった。自分で職員の招集を求めたが、頭部を撃ち抜かれた2人の部下を目の当たりにして悲しみと怒りが思考を鈍らせ、何を話せばいいのか分からなくなっていた。水谷と西野を内通者と疑っていただけに、別の内通者と思われる者による犯行は黒田に大きな精神的なダメージを与えた。

 “水谷なら…アイツなら何か知っているかもしれない…”

 童顔の支局長は自分のオフィスから飛び出し、彼を待っている職員たちに目も向けずに水谷が拘束されている部屋へ走った。急ぐあまり彼はカードキーで開錠する前に拘束室へ入ろうとしたため、右肩をドアに勢い良くぶつけた。すぐに黒田はドアのロックを解いて室内に入った。突然のことに拘束されている分析官は驚いて上司を見た。

 「ネットワークに接続できな―」

 水谷が口を開くなり、黒田は分析官の首を掴んで壁に叩きつけた。

 「お前の仲間が野村と奥村を殺して逃げた。」支局長の目は怒りで燃えるように輝いていたが、それと同時に微かに涙が浮かんでいた。「他の内通者は誰だ!?」

 強く首を絞められる分析官の顔は赤く染まり、苦しさから逃れるために黒田の手を掴んで少しでも隙間を作って酸素を得ようとした。しかし、黒田は絞める力を抜かず、さらに強めた。

 「言えッ!!」支局長である黒田が水谷を怒鳴りつけた。

 「し、支局長…」

 後ろから声が聞こえて黒田が振り返る。そこには彼を追ってきた女性分析官の姿があった。彼女の姿を見て我に返った支局長は水谷から手を離し、自由の身となった分析官は咳き込みながら絞められていた首を両手で抑えた。

 「どうした?」額に浮かんだ汗を拭って黒田が尋ねた。

 「み、みんなが、待ってます…」女性分析官は水谷の首を絞める黒田を見て怯え、そう言うとすぐに部屋から出て行った。

 ネズミ取りの北海道支局長は水谷に視線を戻した。分析官は咳き込んでいたが、黒田から視線を逸らすことはしなかった。

 「ぼ…僕は…」喉を擦りながら中年の男性分析官が口を開いた。「僕は…内通者じゃない…」

 「なら、内通者は誰だ?」

 「小野田です…」












  テロリストの潜伏場所と思われる場所の一つ、張碓の近くにあった小学校跡地に到着して周囲の安全確認を行うと、5階から飛び降りた西野の姿を確認した。

 そして、ネズミ取りの捜査官が3階の屋上に落下するのを見るなり、中島は単眼鏡を取り出して付近の階の様子を伺った。3階と5階で走る人影を確認したが、4階には激痛に悶える西野がいる。次に2階へ単眼鏡を移動させた時、建物の外側で非常用螺旋階段を見つけた。

 中島は単眼鏡をポケットに戻して大多和を見た。「無謀かもしれないんですけどね…」そう言うと、東京から来たSAT隊員は荒唐無稽としか思えない作戦を述べた。大多和が反対しようとしたが、中島は隣にいたSAT隊員に短機関銃を渡し、その隊員のボストンバッグからロープを取り出した。

 「なんとかなりますって…」笑顔を浮かべて言うと、中島は非常用螺旋階段に向かって走り出した。
 
 「どうなってんだよ!」

 ネズミ取りの捜査官は悪態ついたが、すぐに言われた通りに動き始めた。大多和と5人のSAT隊員は遠回りして職員専用の入り口から突入し、その際に2人組のテロリストに遭遇したが、素早く無力化して3階へ急いだ。西野がテロリストたちの注意を惹いていたので、彼らが想像していたよりも簡単に目的の階に到着できた。

 一方の中島はUSP拳銃を片手に螺旋階段を素早く駆け上がって屋上に到達していた。夜の風は冷たかったが、汗をかいていたSAT隊員にとって、それはとても心地よい冷たさだった。呼吸を整えながら彼は屋上の安全確認を行い、それが終わると西野が落ちた3階の屋上の辺りに移動して下を見た。

 「この辺かな…」

 すると、その付近で小さな光が素早く3度点滅した。荒井が出した合図を元に中島は移動し、素早くロープを転落防止柵に縛り付け、柵の向こう側へ移動した。

 「西野は敵に囲まれ、身動きが取れない状況だ。」右耳の小型無線機から大多和の声が聞こえてきた。「あまり時間がないぞ。」

 「じゃ、突入の30秒後に…」SAT隊員が腕時計のタイマーを30秒にセットした。「爆破して下さい。」

 「はっ!?」ネズミ取りの捜査官が驚きの声を上げた。しかし、中島はそれを無視して壁を蹴って降下した。

 一方、荒井たちSAT隊員はサーモグラフィーカメラで西野の位置を把握し、彼を中心にした円を描くように爆薬を天井に設置した。一抹の不安を抱きながらも、SAT隊員は中島の作戦を信じるしかなかった。それは大多和も同様であった。彼らは爆薬から離れ、周辺警戒を始めた。

 東京から来たSAT隊員は4階と5階の間にある壁に近づくまでスピードを上げて進み、壁の直前でスピードを落として壁を両足で蹴り飛ばした。そして、壁から2メートル程まで離れると次は目的の窓に向かって突撃した。











  結果的に中島の奇策は成功した。

 設置された全ての爆薬が同時に爆発し、それが綺麗に4階の床と3階の天井を丸く切り取って西野と中島は下の階に落下した。それを確認するや否や、大多和と荒井が閃光手榴弾を爆破で開けられた穴から4階へ投げた。また、他のSAT隊員は急いで落ちてきた西野と中島の腕を引いて安全な場所まで移動させ、桑野と言うSAT隊員が中島に預かっていたMP-5SD短機関銃を返した。西野は未だに何が起こったのか理解できなかったが、中島から拳銃を渡されると反射的に受け取った。

 「急ぐぞ!」大多和が右腕を大きく振って手招きした。






           <作者の都合により、しばらくお休みを頂きます!>
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14-2







 最後のグレネードを投げると同時に、守谷の後頭部に衝撃が走って手榴弾をバンの中に落ちてしまった。慌てて手榴弾を外へ弾き出そうとしたが、何者かが守谷の背中を押し、テロリストはバランスを崩して倒れた。その時、中田が足元に落ちた深緑色の球体を見つけ、追跡者への発砲を中断して左足で手榴弾を外へ蹴り飛ばした。

 二人が振り返ると、慎重にバランスを取りながら立ち上がろうとする西野を見つけた。ネズミ取りの捜査官は後ろ手で縛られているために自由に動けなかったが、守谷を蹴り飛ばすことはできた。

 外から破裂音が聞こえてきた。最後の手榴弾による爆発であったが、バンに乗るテロリストの注意は野村たちではなく、西野に移っていた。

 「大人しくしてれば、痛め目に遭わずに済んだのになぁ~」守谷が西野に近づき、右前蹴りを繰り出した。

 ネズミ取りの捜査官は間一髪のところで蹴りを回避し、額に切り傷を持つ男にタックルしてバンのスライドドアに叩きつけた。急いで上体を起こし、西野は頭突きを守谷の鼻頭に入れようと動くも、テロリストは頭を右へ傾けて回避した。そして、回避すると同時に彼は西野の股間に左拳を叩き込んだ。股間の痛みに捜査官は身を丸めて後退し、守谷は西野の胸を蹴り飛ばしてバンの反対側に叩きつけた。

 「クソがッ!!」額に傷を持つ男は西野の頭を両手で持ってバンの壁に何度も叩きつけた。

 「死んでしまいますよ。」助手席にいた男が振り返って恐る恐る守谷に言った。

 「そうだな…」ここで守谷は我に返って気絶している西野から離れた。「席を変わってくれないか?」

 助手席にいた男がアサルトライフルを持って後部座席に移動しようとした時、守谷が男の胸倉を掴んで拳銃を男の下顎に押し付けた。

 「ちょっ―」

 額に切り傷を持つ男は表情を一切変えずに引き金を引き、バンの天井が真っ赤に染まった。守谷は死体を引っ張ると、気絶している西野の上に放り投げて助手席に座った。








 「怖い気持ちは分かる。」野村が震えている新村にやさしく言った。

 二人の乗る黒い軽自動車はテロリストの白いバンから500メートル後方の位置で停車していた。

 「俺も怖い。でも、西野さんを救わないといけない。そのために君の力が必要なんだ。」

 ハンドルを握る新村の両手は震えており、彼女の目はスピードメーターを見つめたまま動かない。

 “ダメか…”

 その時、女性捜査官が防弾ベストのポケットから短機関銃の予備弾倉を2本抜き、それを野村に渡した。

 「もうそれしかないですけど、足りますか?」

 新村の言葉を聞いて男性捜査官は口角を上げた。「十分さ。」

 深呼吸をしてから若い女性捜査官はハンドルを握り、そして、アクセルを踏み込んだ。軽自動車はエンジンを唸らせて加速し、テロリストの後を追った。

 助手席の野村はMP-5Kの再装填を終えると、携帯電話を取り出して支部に電話をかけた。呼び出し音が数回鳴った後に奥村の声が聞こえてきた。

 「野村だ。道道17号(注:読み方『どうどう』、北海道の主要地方道のこと)でテロリストの白いバンを追跡中。ドローンで白いバンとの距離を調べてくれ。」

 「ちょっと待ってください。」女性分析官がキーボードを叩いて、グランドホテル上空を旋回していた2機の偵察ドローンの1機にアクセスした。そして、そのドローンを操縦している分析官に野村の現在位置を送り、その半径4キロ圏内にいる2台の白いバンを見つけるように頼んだ。

 新村の運転する軽自動車は縫うようにして前を走る車の間を走り、テロリストの白いバンを探して加速を続けている。しかし、目的の車は見つからない。

 「見つかりました!」奥村の声が携帯電話の受話口から聞こえてきた。「野村さんの現在位置から700メートル離れた所を走っています。」

 「分かった。」

 奥村の報告通り、2台の白いバンは700メートル先を走っていた。前の車を縫うようにして進む野村と新村の車は加速を続け、約4分後に目的の車を発見して接近を試みた。距離が近づくと野村が助手席から身を乗り出し、守谷たちが乗っているバンに向けて発砲した。今回は後輪ではなく、車体に向けての銃撃であった。野村が動くと同時に新村は拳銃を抜き、銃身をサイドミラーに固定して援護射撃に出た。

 短機関銃から放たれた複数の銃弾がバンの後ろにドアに命中した。その内の2発が窓を砕き、二人の捜査官は車内にいる大男を見ることができた。突然のことに中田は驚いてアサルトライフルを持ち上げ、壊された窓から応射するために動いた。

 「ドアを開けろッー!」守谷が怒鳴りながら後部座席へ移動し、床に置いていたロケットランチャーを拾って構えた。

 激しい銃撃を受ける中、中田が後ろドアを開けて素早くアサルトライフルを発砲した。最初は狙いを定めることができなかったので、数発が軽自動車のボンネットに命中した。しかし、銃の反動で銃口が上がり、フロンドガラスの中心に縦一線の穴を開けた。一方、守谷はロケットランチャーの狙いを車の間を縫うよう走行している軽自動車の手前に定め、引き金を絞るタイミングを計っていた。

 軽自動車に乗る二人の捜査官はロケットランチャーを構える男を発見すると、心臓が縮まるような恐怖を感じた。野村が急いで助手席に戻ると同時に、新村がハンドルを左に切ってロケットランチャーの射角から逃れようとした。

 その時、額に切り傷を持つ男はゆっくりと引き金を絞った。強烈な後方噴射と共にロケットが発射され、その際に生じた大量の白煙が運転席と助手席を満たし、驚いた運転手は咄嗟に後部座席を振り返った。

 発射されたロケットは真っ直ぐ黒い軽自動車に向かって飛んで行ったが、標的が急ハンドルを切ったために命中はしなかった。それでも野村と新村の乗る車は道路に直撃したロケットの爆発と爆風を浴び、横転してガードレールに激突して止まった。その様子を見届けた守谷はロケットランチャーを床に投げ、何事も無かったかのように助手席に戻って行った。








 警察署に着いていた小田完治は応接室の中を忙しなく歩き回っていた。家族のことが心配で黙って座っていることができないのだ。

 ドアの横でそれを見ていたSPの真嶋も仲間のことが心配であったが、顔に出さないよう努めた。それでも警護対象者を見ている内に仲間を思う気持ちが強くなった。

 その時、応接室のドアが開いて小田の家族が入って来た。小田完治の姿を見るなり、緊張がほぐれたのか、彼の家族は目に涙を浮かべた。議員は素早く駆け寄り、妻と子供たちを抱き寄せた。彼らはすすり泣きながら身を寄せ合い、小田完治は小さく「無事でよかった」と呟いた。

 真嶋がほっとして胸を撫で下ろしていると、背後から肩を叩かれた。振り向くとホテルで彼と共に議員とその家族を警護した民間の警備員3人がいた。

 “柴田は?”真嶋は咄嗟に同僚の姿を探したが、見つからなかった。

 「柴田を見なかったか?」

 「いいえ。」近くにいたスーツ姿の警備員がSPに言った。

 “まだ現場にいるのか?”

 「つい先ほど連絡があったのですが…」同じ警備員が口を開いた。「すぐに応援が来るそうです。真嶋さんの無線機と携帯電話に繋がらなかったので、私の方に連絡がきました。」

 「そうか…」

 「応援が着き次第、議員とその家族の避難が始まることになっています。」

 「何所へ?」と真嶋。

 「丘珠空港(注:正式名は『札幌空港』)に行き、北海道を離れる手配が取られています。」

 「しかし、すぐに動いては…」

 「詳細は応援が来てからとなっています。それまで我々は待機だそうです。」








 杉本哲司は色褪せた黒革のアタッシュ・ケースを持ち、官邸の三階にある南会議室のドアをノックした。

 いつもと変わらない定例報告ならば心配はないのだが、現在進行形の北海道の件があるために多くの懸念があった。官房長官たちの意地の悪い発言ではなく、予算の削減や組織の縮小が議題として上がることを恐れている。

 『ネズミ取り』が創設されてから大規模テロは未然に防いできた。勿論、この機関が誕生する前から日本警察はテロ攻撃を阻止するために努力している。

 今までの調査で、2年前に菊池信弘と彼の思想に魅了された学生たちが起こしたテロ攻撃との関連性は見つかったが、まだ確証は得られていない。それでも当時の生き残りが数人いると考えられているため、東京支部にいるネズミ取りの分析官たちは彼らによる犯行の可能性が高いと見ている。北海道におけるテロ攻撃の動機は、自衛隊基地への攻撃を妨害した小田議員に対する報復と推測された。

 「どうぞ。」

 ドアの向こう側から声が聞こえてきたので、杉本がドアを開けて室内に入った。

 「進展は?」ネズミ取りの局長を見るなり官房長官の吉村吉彦が尋ねた。彼は楕円形テーブルの端の席に座っていた。官房長官の隣には首相補佐官の沼村直人が椅子に腰掛けている。

 「主犯の特定はまだできていませんが、2年前の事件との関連が見つかりました。」テーブルにアタッシュ・ケースを置き、その中から予め用意した資料を取り出して二人の前に置いた。

 官房長官と首相補佐官は資料に一瞥をくれると、一切手を付けずに再び杉本に目を向けた。

 「簡潔に頼むよ。もうすぐ記者会見なんだ。」と官房長官。

 「北海道の事件は、2年前の自衛隊基地攻撃事件に関与した人物によるテロ攻撃と思われます。そして、犯人は小田完治議員を狙っているようです。」杉本は求められたとおり、簡潔に述べた。

 「それは困るねぇ…」首相補佐官が呟いた。「あの事件は『火災』として処理されたんだ。今さら、『あれはテロでした』、と言えば有権者の支持を失いかねない。何か違う理由を考えるべきだ。」

 「確かに…」官房長官は隣に座る禿げ頭の男に同調した。

 “まだ政局に気を取られているのか…”杉本は黙って二人を見つめた。

 「できれば…小田くんの政策に反対する勢力の犯行として発表すべきだ。『右』でも『左』でも構わない。」首相補佐官は素晴らしい案を述べたと思った。

 「しかし―」杉本が意見を述べようとした。

 「声明の内容はこちらで決める。」吉村官房長官が遮った。「君は早く事件を解決しろ!」

 「分かりました。」








 目を覚ますなり、野村は飛び上がって腰のホルスターから銃を抜いて周囲を見渡した。彼は軽自動車の中ではなく、救急車内のストレッチャーの上にいた。

 「落ち着けよ。」大多和が後輩捜査官の銃を掴んで下ろさせた。

 「西野さんは?」野村が尋ねた。「白いバンは?」

 先輩捜査官は首を横に振った。「ドローンで探してる。お前はよくやったよ。」

 慰めの言葉を聞いても野村は自分が許せなかった。この時、彼は運転席にいた新村のことを思い出した。

 「新村は?彼女は無事ですか?」

 「負傷してたから、先に小木と一緒に支局の医務室に送ったよ。負傷と言っても、新村はちょっと深い切り傷と擦り傷、小木は肋骨を折っただけだ。奇跡的にお前は無傷みたいだが…」

 拳銃をホルスターに戻して野村はストレッチャーから下りようとした。その際に肩と腰に痛みが走ったが、動くのに支障がない程度であった。

 「あまり無茶するなよ。まだやる事があるんだ…」

 彼らを乗せた救急車は近くの病院に着いたが、大多和は野村を連れて病院内の駐車場へ向かった。先輩捜査官に促されて野村はグレーの乗用車に乗り、その車は数回の尾行確認を経てネズミ取りが利用している地下駐車場に入った。

 「お前にお土産があるらしい。」駐車場に車を入れるなり、大多和が言った。

 二人の乗る車が進んで行くと、ヘッドライトが駐車場の奥にいた二人の男を照らした。一人は体形に似合わないだぶだぶの服を着ており、彼の横にはうな垂れて床に座り込んでいる中年男がいる。

 大多和が車を停めるなり、野村は車を降りて中島と佐藤に近づいた。

 「大変だったみたいですね。」中島が笑みを浮かべて言った。

 「いや…私は…何も…」野村はテロリストを取り逃した事に憤りを感じていたが、表情に出さないように努めた。それに西野を救えなかった事に罪悪感を持っていた。

 「野村さん…」SAT隊員が柔らかな口調で話し始めた。「過ぎた事はどうしようもないです。あなたの仲間はテロリストに捕まりましたが、まだ生きてる。後悔は後に回して、今は彼の救出に専念しましょう。」

 “確かに…”若い捜査官は顔を上げて中島の顔を見た。

 「その手掛かりになると思って…」SAT隊員がうな垂れている佐藤の肩を軽く叩いた。「彼を持ってきましたよ。」

 「その男は?」野村の隣に並んだ大多和が尋ねた。

 「ホテル付近の建物から狙撃銃で小田議員を狙ってた男です。」

 「テロリストの仲間なんですか?」と野村。

 「そう考えるのが妥当でしょう。ホテル正面から突入して、標的をホテルの裏口まで押し出し、そこを狙う予定だと思いますね。」中島は佐藤を捕らえた後、藤木と現場にいた数人のSAT隊員から聞いた情報を元に自分の考えを述べた。「万が一、彼が単独犯であれば、議員が出入りするのが確実な正面入り口付近を見張ると思いますし…」

 「なら、色々と聞いたい事があります。」野村が佐藤に近づく。「色々と…」








 西野がテロリストに拉致されたとの報告を受けた黒田は、苛々しながらスパイウェアが常時送信してくる水谷の行動記録に目を通して怪しい動きの有無を調べていた。しかし、送られてくる情報に不審な点はない。

 “気付かれたか?”黒田は水谷がスパイウェアの存在に気付いた可能性を考えた。“そうなれば、これは時間の無駄か…。西野の捜索に集中すべきか?もし、アイツが内通者であれば、何も水谷に的を絞る必要も無い…”

 水谷は先ほどから通信記録を見ており、そこでいくつかの記録を何度も繰り返し閲覧している。また、彼は監視カメラの映像記録にもアクセスし、特定の時間帯の記録を入念に確認していた。

 “都合の悪い証拠を探しているようにも見えるが、記録を書き換えようとはしてない。”黒田は分析官の行動を見て思った。“逆にアイツは削除された物を修復しようとしているようにも見える…”

 その時、彼のオフィスにタブレットを持った奥村が入って来た。

 「水谷さんの行動を調べましたが…特に異常はありませんでした。」奥村がタブレットの画面を黒田に見せた。画面には水谷が使用した画像比較ソフトや音声解析ソフト、最近のニュースに関する閲覧履歴が表示されていた。

 「本当にこれだけか?」と黒田。

 「はい。」

 女性分析官は何故、上司がこれほどまでに水谷に拘るのかが理解できなかった。彼女は水谷の記録を調べながら、黒田の記録も調べていた。そして、そこには水谷よりも疑わしい記録が多かった。

 「もう少し遡って彼の記録を調べて欲しい。」

 「分かりました。」

 不満を顔に出しながら奥村は黒田のオフィスを後にし、自分の机に戻ると一目散にオフィスに籠っている上司の記録にアクセスした。








 携帯電話が鳴ると、大多和は野村たちから離れて電話に出た。

 「どうなってる?」電話は黒田からだった。

 「今、野村と中島という名のSAT隊員でテロリストの尋問をしています。が、テロリストの携帯電話から色々と情報が見つかっているので、もうすぐ終わると思います。」

 「そうか…」そう言うと、黒田は数秒沈黙した。大多和が代わりに口を開こうとすると、再び支局長の声が聞こえてきた。「話しは変わるが、西野は…アイツは本当に拉致されたのか?」

 大多和は黒田の質問に疑問を持った。“支局長は西野もテロリストだと思ってる?”

 「はい。救急車に乗せられる前に意識を取り戻した新村が、テロリストに連れ去られる西野について教えてくれました。野村も同じことを言ってます。私も西野が拉致されたと思います。」ネズミ取りの捜査官が淡々と述べた。

 「そうか…」

 「何かあったんですか?」

 「いや、何でもない。」

 「それでは尋問が終わり次第―」

 大多和が会話を切り上げようとした時、それを遮るように黒田が口を開いた。「尋問は君とSATに任せたい。野村には一度、こちらに戻ってきて欲しい。」

 「しかし―」

 「西野に関して確かめたいことがあるんだ。」ネズミ取りの支局長が強い口調で言った。

 「では、そのように伝えます。」捜査官の声には戸惑いが混じっていた。

 電話を切り上げると、大多和はノートパソコンと睨み合う野村と中島に近づいた。そのパソコンは佐藤が持っていたスマートフォンと接続されており、解読ツールを用いて電話内にある位置情報と暗号化されていたメールを確認していた。

 「野村、支局長がお呼びだ。」大多和が後輩捜査官の隣に並んだ。「後は俺が引き継ぐ。」

 若いネズミ取りの捜査官は驚きの表情を浮かべて大多和を見た。「今ですか?」

 「西野について聞きたい事があるそうだ。」

 「でも―」

 「支局長にも何か考えがあるんだろうさ。」首を傾げて大多和が言った。「それより、何か見つかったか?」

 「見つかりましたが…」納得の行かない呼び出しに野村は苛立ち、見つけた事を口にしたくなかった。

 「怪しい場所を2ヵ所見つけましたよ。」中島が二人の会話に割り込んだ。

 これに野村は驚き、さらに怒りを覚えた。できれば、この発見を条件に支局へ戻ることを延期させようとしていたのだ。

 「何所ですか?」大多和が中島へ顔を向けた。

 「銭函と手稲にある建物です。彼は襲撃後にこの2つの場所のどちらかに行く予定になっていたようですよ。」SAT隊員がノートパソコンの画面に表示されている2つの赤い点を指で示した。

 身体を前のめりにして大多和はパソコンの画面を見つめた。1つ目の建物は銭函に近い張碓という場所にあり、もう1つは人口が密集している手稲区の住宅地にあった。

 「どちらかの建物に西野がいるのか…」大多和が呟いた。

 「その可能性がある、の方が正確かもしれませんよ。」と中島。「報酬の受け渡し場所、または中継場所かもしれないですし。もしかしたら、拘束された時のための罠かも…」

 「なら、彼に話してもらいましょう。」野村が胸にある苛々を落ち着かせながら言った。

 三人はうな垂れている中年男に目を向けた。

 「無駄でしょう。」SAT隊員が再びパソコンに向き合った。ネズミ取りの捜査官たちは中島の態度に不信感を抱いた。

 「どうしてですか?」野村が尋ねる。

 「彼はこういう状況に慣れてる。この手のタイプは長期戦を好みます。まぁ、手荒な真似をして吐かせるのも手ですが、正確な情報を喋ってくれる保証はないです。確実なのは、今ある情報を元に行動することだと思いますよ。例え、罠であっても…」

 「一理あるが、それでも吐かせるべきだ。」大多和が食って掛かった。

 「それならネズミ取りさんの自白剤などを使うべきです。ここには無いけど…」

 中島の意見を聞いて大多和が野村と向き合った。「どうせ支局に戻るんだ。この男と一緒に戻って情報を聞き出してこい。それからSATに応援要請を出して出動準備を完了させてくれ。」

 野村は下唇を噛んで喉まで出かかっていた言葉を抑え、命令に従うことにした。若い捜査官は中島と共に佐藤の腕を掴んで立ち上がらせ、乗用車の後部座席に中年男を押し込んだ。

 「現場で待ってますよ。」運転席に乗り込んだ野村に中島が笑みを浮かべて声をかけた。

 野村は表情を変えずに「すぐに合流します」と言って駐車場を後にした。そして、彼と入れ替わるようにしてすぐ、1台の黒いバンが駐車場に入って来た。

 大多和と中島が腰のホルスターに収められた拳銃に手をかけたが、バンから下りてきた4人を見て手を離した。

 「遅くなってすみません」額に大きな絆創膏を付けたSAT隊員の荒井が言った。彼は守谷たちの襲撃で負傷したが、ホテル入り口付近の爆発で亡くなった仲間と拉致された西野のことを知ると、大多和に頼み込んで救出作戦のメンバーに組み込んでもらった。また、荒井は信頼できる同僚3人を連れてきた。

 「全然だ。装備は整えてあるな?」と大多和。

 「はい。」荒井がはっきりとした口調で返事した。

 「んじゃ、すぐにでも行けそうですね。」大多和の隣に並んで中島が言った。

 中島の姿を見るなり、4人のSAT隊員の表情が硬くなった。大多和は何が起こったのか分からず、隣のSAT隊員を見た。しかし、中島はただ笑顔を浮かべているだけだった。

 「洞爺湖ではお世話になりました!」荒井の横にいた桑野という隊員が一礼し、他の三人も彼に倣った。

 大多和は益々混乱したが、中島は相変わらず笑みを浮かべていた。








 意識を取り戻して目を開けようとした時、後頭部に激痛が走り、呻きながら西野は再び目を閉じてしまった。彼は痛む場所に触れようとしたが、両手の自由が効かない。しかし、脚は縛られていない。目をゆっくりと開けると、両手が縄で椅子の肘置きに固定されているのが見えた。

 「起きたか?」正面から守谷の声が聞こえてきた。

 西野が顔を上げようとした時、再び後頭部に激痛が走った。この時、彼は正面に座る守谷の姿を見た。蛍光灯が煌々と光る部屋は狭く、机と椅子が部屋の壁に積み上げられている。ふと目についた窓を見ると、拘束されている自分の姿が窓ガラスの反射で映っていた。外はもう暗く、窓の向こう側がどうなっているのか分からなかった。

 「焦るなよ。時間はたっぷりある。三須も議員を始末したら、こっちに来る。」

 “三須!?”

 「お前たちは死んだはずだ!」ネズミ取りの捜査官が激痛に耐えながら言った。

 「書類上な…」

 「俺はお前が死ぬのを見た。」

 それを聞いて額に小さな切り傷を持つ男が笑い出した。

 「なら、俺は幽霊か?」そう言うと、守谷は左拳を西野の左頬に叩き込んだ。衝撃の強さに捜査官の視界がぼやけた。「確かに俺はお前に撃たれ、そして、輸送機から落とされた…しかし、運が良く三須たちに救われた…」

 西野はまだ衝撃から立ち直れていなかった。ゆえに守谷が話しを続けた。

 「あの時から俺たちはお前への復讐を考えていた。しかし、三須は簡単な報復では物足りないと思い、前回よりも多くの資金と武器、人員の調達に動いた。計画はアイツが作り、俺がそれを実行した。お前を探し出すために三須は警察に入り、最終的にはお前も所属している組織に入った。俺がせっせと武器を買っている間にな…」

 “三須がネズミ取りに?”ようやく意識がはっきりしてきた西野が心の中で呟いた。

 「有り得ない。三須が簡単に入れるような―」

 「『背乗り』って奴で簡単に新しい身分が手に入ったのさ。」捜査官を遮って守谷が言った。「お前らの組織は警察よりも広いネットワークを持っていたらしく、三須はお前も同じ組織にいることを突き止めた。そして、そこで潜入捜査と小田完治の詳細を知った…」

 「俺と議員を狙ったテロでどれだけの命が失われたと思ってるんだ!」思わず西野が怒鳴った。

 「必要な犠牲だ。それに数で人の価値を決めるのは良くないぞ、小林…」守谷はワザと西野をかつての偽名で呼んだ。「人の価値はその人間の知性で測られるべきだ。」

 その理不尽な考えに西野は絶句した。

 「三須はお前を信頼していた。もしかすると、俺よりもお前に肩入れしていたかもしれない…」言葉を失っている捜査官を見た守谷は話しを続けることにした。「そんなアイツも、今じゃお前を殺したがってる。」

 「み、三須もここに、北海道にいるのか?」西野が言葉を詰まらせながら訊いた。

 すると、額に切り傷を持つ男がニヤリと笑った。「アイツはずっとお前の側にいたよ。」








 支局の駐車場に車を入れた野村は急いで後部座席にいる佐藤を降ろそうとした。彼はできるだけ早く中年男を他の捜査官に任せ、黒田との話しを終わらせたかった。

 佐藤の左腕を掴んで引っ張ろうとした時、背後から駆け寄ってくる足音を聞いて野村が振り返った。そこにはタブレットを持った奥村がいた。彼女は監視カメラで野村の到着を確認すると、駐車場まで走って来たのだ。

 「どうした?」と野村。

 小太りの女性分析官は肩で息をしており、捜査官が尋ねてもすぐに応えられなかった。

 「大丈夫か?」野村が中年男から手を離して奥村に近づく。

 「の、野村さんに、見て、欲しい物が、あります。」呼吸を整えながら女性分析官が言った。彼女はタブレットを持ち上げて画面を野村に見せ、野村は渋々その画面を覗き込んだ。「黒田さんに、水谷さんの行動記録を、調べるよう言われて、調べたんですが、不審な点は何も無かったんです。」

 「それで?」若い捜査官は話しの内容が掴めず、急いでいるにも関わらず話しを引き延ばす奥村に苛立った。

 「何度も何度も、似た様なことを言われるので、支局長が疲れておかしくなったと思って、逆に支局長の記録を調べたんです。そしたら、通信記録を消したり、逃亡後に死亡した堀内という男のいた、拘束室の監視映像を、改竄してる形跡があったんです!」

 「何故、そんなことを?」

 「もしかしたら、支局長は昇進の障害となる証拠を消しているのかもしれないです。または支局長がテロリストの―」

 唾を吐くような音が3度、地下駐車場内に響いた。その後、奥村に覆い被さるようにして野村が倒れた。女性分析官は突然のことに驚き、野村を支えようとしたが、彼の重さに耐えきれずに尻餅をついてしまった。好意を寄せていた相手が倒れ掛かってきたため、奥村の意識は野村に注がれ、顔を赤くしながら彼女の膝上に頭を置いて倒れている捜査官の顔を見た。

 「に、逃げ…ろ…」消え入りそうな声で野村が言った。上着の下に防弾ベストを着ていたので無傷ではあったが、銃弾を受けた背中に激痛が走っていた。

 「えっ?」奥村が聞き返そうと顔を野村に近づけた。

 ちょうどその瞬間、彼女の胸を2発の銃弾が襲った。被弾した女性分析官は衝撃に押されて背中から地面に叩きつけられた。呼吸困難に陥った奥村は口から血を吐きながら、苦しみと戦った。

 「余計なことを…」野村の背後から親しみのある男の声が聞こえてきた。その声の主はゆっくりと二人に近づき、奥村の頭に2発の銃弾を撃ち込んだ。

 ここでようやく野村は二人を撃った男の姿を見た。

 “小木さん…?”

 消音機付きの拳銃を持つ小木は奥村のタブレットを拾おうと身を屈めた。この隙に野村はホルスターに手を伸ばして拳銃を握った。

 再び唾を吐くような音が駐車場内に響き、後頭部から進入した銃弾が野村の頭部を貫通した。タブレットに気を取られていた小木は突然のことに驚き、拳銃を野村の死体に向けた。

 「ちゃんと頭を撃て。」小野田が鋭い眼光を小木に向けた。次に彼は消音機付きの拳銃を乗用車に乗っていた佐藤に向け、素早く3度引き金を絞った。2発が中年男の胸に命中し、最後の1発が頭部を捉えて後部座席が血で染まった。

 「あ、あぁ…」小木は小野田の勢いに圧倒された。

 「議員の行き先が分かった。急ぐぞ。」

 二人は予め用意していたグレーのSUVに乗り込んでその場を後にした。

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返報 14-1 [返報]


 「また会えましたね。」西野の隣に腰掛けるなり、藤木孝太が言った。

 西野は昨日出会った男の唐突な出現に少し動揺したが、すぐに気持ちを切り替えた。

 「髭を剃ったんですね。」藤木が隣に座る元警察官の顔を見て笑みを浮かべた。「その方が似合ってますよ。」

 そう言われると西野は俯いて、今朝剃ったばかりの頬を右親指で軽く触れた。

 「無駄話のために来たわけじゃないだろ?」ここに来た理由を思い出して元警察官が藤木の方を見た。

 「いきなり本題に入るのって、すごく堅苦しいでしょ?だから、ちょっと世間話しをしようかと思いまして…」

 西野は藤木の馴れ馴れしい喋り方が好きになれなかった。

 「しかし、お望みであれば本題に入りましょう。西野さんの答えを聞かせてください。」

 藤木の顔に浮かんでいた笑みが消えた。銀縁眼鏡のレンズ越しに見える彼の双眸は鋭く、先程とは打って変わって真面目な人間に見える。

 「逆に聞きたい事があるんだ…」西野が藤木から視線を逸らさずに言った。「俺はもう二度とあんな連中と関わりたくない。アンタも分かるはずだ。何でまだその仕事をやっていられるんだ?」

 予期せぬ言葉にネズミ取りの捜査官は首をかしげた。「良い質問ですねぇ~」

 西野は黙って藤木を見つめ続けた。

 「実は…」藤木が口元を微かに緩めて口を開いた。「似た質問を友人にしたことがあります。堅物な男でして…ものすごく仕事熱心なんですよ。彼に尋ねると、非常に臭い台詞を言いました。」

 横に座る元警察官が先を促す。

 「『守りたいものがあるから』だそうです。」藤木は西野の反応を見て先を続けることにした。「私だって西野さんの言う“あんな連中”とは関わりたくないです。でも、私たちが求めていなくても、彼らは来るんです。中には話しの通じる人たちもいますが、大半は聞く耳を持たない。彼らの中に“答え”があるからです。そんな人たちを野蛮な手段を用いてでも、止めなければならない時が来るかもしれません。そんな時にみんなが『誰かがやるから大丈夫』と考えていたら、いずれ私たちは大切な物を失うでしょう。簡単に言えば、『誰かがやらなきゃいけない事』だから、私は“あんな連中”と関わりを持つことにしたんです。」

 「しかし―」

 「無理強いはしません。」藤木が西野を遮った。「嫌なら嫌と言えばいいんです。」

 「後悔してないのか?」元警察官が視線を逸らさずに尋ねた。

 「してたら、ここには来てませんよ。」ネズミ取りの捜査官がベンチから立ち上がた。「もし、気が変わったら、15時までに空港に来てください。そこで待ってます…」


















14-1






 「も、守谷……?」西野は驚きを隠せなかった。

 名前を言われると額に小さな切り傷を持つ男がニヤリと笑う。「やっと思い出したか…」

 ネズミ取りの捜査官は咄嗟に右拳を守谷の顔面に繰り出した。しかし、相手は左手でそれを掴んだ。

 「あまり良い動きじゃないな。“あの時”の方が早かったぞ…」そう言うと守谷は西野の拳から手を離さずに、頭突きを捜査官の顔面に叩き込んだ。

 鼻頭に強力な一撃を受けた西野は気が遠くのを感じた。鼻の骨が折れ、両方の穴から血が流れ出た。

 「もうすぐ警察の増援が到着します。」守谷の隣にいた大男が言った。
 「そろそろ移動するか…」









 反射的に乗用車の陰に飛び込んだものの、野村と新村は襲撃者たちの激しい銃撃を受けて身動きが取れずにいた。

 雨の様に降り注ぐ銃弾は乗用車に無数の穴を開けると同時に窓ガラスを砕いた。ガラスの破片が身を丸くして隠れている二人の捜査官の上に落ち、あまりの恐ろしさに新村は震えた。しかし、涙を流すことはなかった。一方の野村は再装填を済ませて突進を試みようとしていた。

 “このままじゃマズイ…”

 その時、銃撃の勢いが弱まった。

 野村は敵の何人かが再装填を行っていると推測して車の陰から飛び出した。そして、発砲しながら前進しようとした時、彼は手榴弾を投げようとしている敵2人を見た。野村はすぐに引き返して隠れていた新村の右腕を掴んで立ち上がらせ、二人は姿勢を低くした状態で駆け出した。

 目出し帽で顔を隠している男2人は野村と新村の位置へグレネードを投げ、放たれた2つの手榴弾は綺麗な弧を描いて二人の捜査官がいた車の手前に落ちた。

 新村の腕を引く野村はできる限り遠くへ移動したかったが、仲間を連れながら逃げるのは難しく、離れることができても5メートルが限界であった。女性捜査官は状況が読み込めなかったが、背後から聞こえてきた破裂音を耳にしてやっと状況を理解した。

 手榴弾が爆発すると二人はしゃがみ、素早く襲撃者たちがいる方へ短機関銃の銃口を向ける。銃口の前には今まで遮蔽物にしていた乗用車があって敵の姿を見ることができない。しかし、二人は襲撃者の勢いが収まりつつあることに気が付いた。

 “撤収するのか?”

 野村は銃を構えた状態で中腰の姿勢を取って襲撃者たちの様子を伺った。そして、彼は大男が西野を右肩に担いで移動するのを目撃した。先輩捜査官の危機に野村は怒り、我を忘れて目出し帽を被った襲撃者たちに向けて発砲を開始した。

 突然のことに背後で待機していた新村は狼狽えたが、彼女も連れ去られようとしている西野を見つけ、野村の行動の真意を理解する事ができた。

 大男が西野をバンに押し込もうした時、スライドドアに小さな穴が開いた。何事かと振り向くと、発砲しながら接近してくる男女の姿を確認した。すると、大男の後ろにいた男がインド製のアサルトライフルを構え、野村たちに向けて引き金を引いた。

 「構うな。」そう言って、大男がバンに乗り込んだ。

 指示を受けた男は何度か発砲してからバンの助手席に乗り、素早く再装填を行った。彼と同様に急ぐ守谷率いる襲撃者たちは応射しながら、それぞれが乗って来たバンに乗り込んでその場を後にしようとしていた。

 焦る野村は走ってバンとの距離を詰めるも、途中でMP-5Kの弾倉が空になった。再装填する時間が惜しいため、男性捜査官は腰のホルスターからUSP拳銃を素早く抜き、走り去ろうとする2台の白いバンに向けて発砲した。一方の新村は置き去りに去れた車の陰に身を隠して再装填を行い、それから先輩捜査官の後を追った。

 2台の白いバンは野村たちの攻撃を気にもせずに加速して二人の捜査官から離れて行く。

 バンが曲がり角に入る直前、野村の背後から黒い軽乗用車が接近してきて彼の右横で停車した。

 「乗って下さい!」運転席には新村がいた。

 彼女は乗り捨てられていた軽自動車を見つけ、それを借りることにしたのだ。

 後輩捜査官が下した咄嗟の行動に野村は感心しながら、黒い軽自動車の助手席に乗り込んだ。そして、彼が素早くMP-5Kの再装填を行い始めると、新村はアクセルを勢い良く踏み込んで襲撃者たちの後を追った。








 中島が腰元で構えていた銃を佐藤の右脚に向けた瞬間、中年男がSAT隊員に飛び掛かった。

 男は両手で拳銃の銃身を掴み、素早くそれを中島の腹部に押し当てて銃口を逸らした。そして、間を置かずに佐藤は右膝蹴りをSAT隊員の股間に向けて繰り出した。

 蹴りが飛んでくる直前、中島は左脚を後退させながら腰を右に捻って佐藤の金的蹴りを回避し、素早く左掌底を中年男の胸に叩き込んだ。この掌底で中年男は掴んでいた銃から手を離しそうになったが、左足で踏みとどまって次の攻撃に出た。

 一方、SAT隊員はこの隙に銃口を動かして相手の脚を撃とうとしていた。あと数ミリで狙いが定まろうとした時に佐藤の頭突きが中島の右頬を直撃し、その弾みで引き金を絞ってしまった。狭い室内に銃声が響き、拳銃弾が佐藤の右脚をかすめて軽傷を負わせた。

 中年男が銃身を強く掴んでいたため、遊底の動きが封じられて空薬莢の排出が行われなかった。ゆえに遊底を引いて薬室に残っている空薬莢を抜かなければ、銃を正常に使用することはできない。

 仕方なく中島は銃から手を離して左と右の拳をリズミカルに繰り出し、自ら拳銃を抑えるために両手の自由を封じていた佐藤は2つの拳を顔面に受けた。素早く放たれた拳であったが、威力は中年男の想像を超えて重たかった。

 佐藤は掴んでいた拳銃から手を離して2歩後退した。できるだけ距離を開けて回復を試みたのだ。だが、中島の勢いは止まらなかった。SAT隊員は左前蹴りを中年男の股間目がけて繰り出した。そして、それを見るなり佐藤は右脚で中島の蹴りを払い、SAT隊員の左側へ回る。

 中年男の動き確認するや否や、中島は左裏拳を佐藤の左側頭部に叩き込んだ。続けてSAT隊員は裏拳の勢いを利用して左へ回転し、激痛に身体を右に傾けていた相手の左頬を右拳で殴った。

 次の攻撃を恐れる佐藤は咄嗟に両腕を上げて顔面を守り、それが仇となって防御が手薄になった左横腹に中島の右蹴りを受けた。予期せぬ衝撃に中年男は体勢を崩しそうになったが、なんとか右足で踏みとどまる。

 相手の動きなど気にせず、SAT隊員は左拳を佐藤の顔に向けて繰り出す。それを見るなり中年男は左手で相手の拳を弾き、向かってくる攻撃の軌道を変えた。続いて中島が右拳を放つと、佐藤は体を左に傾けて攻撃を回避し、伸び切ろうとしていた相手の右腕を挟むようにして両手を繰り出した。右掌底でSAT隊員の右手の甲を叩き、左手ではきつく拳を作って相手の腕の内側を叩いた。

 地味な攻撃であったが、中島の腕に軽い痺れが走った。関節技を警戒したSAT隊員が腕を引こうとした時、佐藤の裏左拳が中島の右側頭部を襲った。中年男は先ほど繰り出した左拳の勢いを利用して素早く攻撃したのだ。
 
 間を置かずに佐藤が右掌底を中島の顔面に入れようとした瞬間、外から大きな爆発音が聞こえてきた。二人の動きが止まり、1秒半ほど睨み合う形になった。
 
 この爆発音は守谷の撃った携帯式対戦車擲弾発射機(注:ロケットランチャー)が西野と荒井の後方にあった乗用車に命中した際に生じたものであった。

 “来たか…”体に走る痛みを感じながら佐藤は守谷たちの到着を予想した。しかし、状況が掴めない中島は野村たちのことが心配であり、急いで助けに行きたかった。

 焦る気持ちを抑えながらSAT隊員は再び動き出した。彼は防がれることを念頭に置きながらも左拳を素早く突出し、中年男は後ろに下がって攻撃を避けた。そして、後退した勢いを利用して右前蹴りを放った。

 蹴りが放たれるや否や、中島は素早く斜め右へ踏み出して相手との距離を縮める。その際に彼の横を佐藤の右蹴りが通り過ぎ、距離が近づくと中年男の顔に恐怖が広がった。

 佐藤は咄嗟に左肘を繰り出して接近してくる中島の顔面を殴ろうとしたが、SAT隊員はそれを右手で難なく防御した。そして、それとほぼ同時に彼は左手を突き出して中年男の右肩を掴み、相手を手前に引きながら突き上げるように左膝を佐藤の腹部に叩き込んだ。

 腹部を襲った激痛に耐えきれず、中年男は身を丸めて歯を食いしばって呻いた。しかし、中島は攻撃の手を止めようとはしない。SAT隊員は痛みと戦っている相手の首筋に向けて、左肘を振り下ろそうと左腕を上げた。

 その時、首筋に悪寒を感じた佐藤は思い切って中島にタックルした。突然の攻撃にSAT隊員はバランスを崩し、体勢を立て直そうと後ずさりながら中年男の上着を掴もうと動く。しかし、その直前に佐藤は両手で中島を突き飛ばして距離を開けた。勝ち目のない戦いだと判断した故の行動であった。二人の距離が開くと、中年男は腹部を抑えながら急いで部屋から廊下に飛び出した。

 素早く体勢を整えたSAT隊員が逃亡した男を追うために走り出すと、唾を吐くような音と金属が擦れる音が廊下から聞こえてきた。その後、中年男の呻き声と重たい何かが落ちる音を耳にした。彼は急いで自分の拳銃を拾い、遊底を引いて薬室に閉じ込められていた空薬莢を吐き出させた。中島は拳銃を構えながら素早く、そして、静かにドア枠の左横に移動して廊下の様子を確認した。SAT隊員が目にしたのは床に倒れて呻いている中年男の姿であり、その他には何も見えない。

 別方向の安全確認のため、中島は右手に握った拳銃を胸の辺りで構えると、素早くドア枠から顔を出し、脅威の有無を確認するなりすぐに室内に顔を戻した。一瞬のことであったので、人影しか見ることができなかったが、それで十分だった。SAT隊員は拳銃をホルスターに収め、両手を上げて廊下に出た。









 大多和と6人のSAT隊員が黒煙と焦げ臭さの漂う道路を通って、小型バスによって壊された正面玄関へ向かった。グランドホテルの上空では北海道警察とマスコミ各社のヘリが爆音を周囲に撒き散らしながら現場の様子を見守っており、地上の方は警察が黄色い規制線を張って被害の拡大を減らそうとしていた。それでも守谷たちは、その規制線の一つを突破して西野を攫いにやってきた。銃声や爆発音が単発的に人々の耳に入ってくるため、現場にはまだ緊張が走っている。

 黒田の命令を受けた大多和たちがホテルの車寄せに近づくと、座り込んでいる二人のSAT隊員を発見した。

 「大丈夫か?」二人に近づきながら大多和が尋ねた。

 「俺たちは…なんとか…」被弾した左腕を右手で抑えた藤田が消え入りそうな声で応えた。彼の隣にはうな垂れている近藤がいた。二人は他の隊員が全員死んだと思っている。

 「西野たちを見たか?」と大多和。

 「いえ…」藤田が首を横に振った。

 「すぐに救護班も来る。ここで待機しててくれ。」

 大多和と6人のSAT隊員は、テロリストによって破壊された正面ドアを通ってホテル内に進入した。まず始めに彼らの目に飛び込んできた物は突入に使用された小型バスだった。砕けた窓ガラスとドア枠の金属片が床に飛び散っており、奥に進んで行くと焦げや血が付着した破片があった。そして、さらに進んで行くと血の海を作る多くの死体を発見した。

 凄惨な光景を見た大多和は唇をきつく閉じ、湧き上がってくる恐怖心と戦った。彼の後ろにいたSAT隊員たちも現実離れした光景に怯んでいたが、それと同時にこのような行為をしたテロリストに怒りを覚えた。

 彼らは死体を踏まないように前進したが、目指している大ホールへ続くエスカレーターは両方とも死体で埋め尽くされていた。

 “許してくれ…”

 周辺を警戒しながら、できるだけ死体を踏まないように2階の大ホールに辿り着くと、再び血の海で横たわる多くの死体を発見した。何人かはまだ生きており、呻き声や助けを求める低い声が大多和たちの耳に届いた。ネズミ取りの捜査官は二人のSAT隊員に生存者の応急手当てを頼み、残りの4人を連れて大ホールに入った。

 引っくり返ったテーブルと椅子などで散らかったホールに入ると、大多和の目に懐かしい人物の顔が映った。

 「小木!」

 名前を呼ばれた小木が広瀬の死体から頭を上げて周囲を見渡した。

 同僚との距離が縮まるに連れて大多和は、彼の側に横たわる生気を失った広瀬と座り込んでいるパンツスーツ姿の女性の存在に気付いた。

 「西野は?」小木の前に来るなり大多和が尋ねた。

 「テロリストを追いに行った。」西野と荒井が走っていた方を指差して小木が言った。

 「広瀬さんは…?」

 「死んだよ…」小木の目は広瀬の死体に釘づけであった。

 「そうか…」そう言うと大多和は先輩捜査官の死体をしばらく見つめた。「俺は西野を追う。応援が来るまで、ここで待機してくれ。」

 「わかったよ…」

 「すぐ戻る…」小木の肩を軽く叩いて励ますと、大多和と4人のSAT隊員は西野たちが向かった方へ走り出した。








 狭い小道を縫うように白い2台のバンが進み、その後を黒い軽自動車が追っている。

 小道を抜けると、規制線と4人の制服警官が3台の行く手を阻んだ。しかし、テロリストたちの乗るバンは気にせず規制線を突破し、その際にバンを止めようとした制服警官2人が轢かれて道路脇に弾き飛ばされた。

 新村は規制線の直前に車の速度を落とし、「退いてください」と叫びながら制服警官たちに道を開けるよう左手を振った。彼女の声は届いていなかったが、轢かれた仲間を見た警官たちは軽自動車の接近を見るなり道路脇へ急いで避難した。二人の捜査官を乗せた軽自動車は規制線を越えると、加速して西野を連れ去った白いバンの後を追った。

 3台の車が小樽運河沿いの片側2車線の道路に入った。野村は助手席から身を乗り出し、短機関銃を構えると11メートル先を走る白いバンに向けて発砲した。狙いは後輪であったが、角度の悪さと手の震えでバンの車体と道路に銃弾が当たった。

 「距離を詰めろッ!」野村が運転席にいる新村に向けて言った。

 女性捜査官がアクセルを踏み込み、それと同時にバンの斜め後ろへ車を移動させた。

 銃撃を受けた白いバンの運転手はサイドミラーで追跡者の姿を確認すると、ルームミラー越しに後部座席にいる守谷を見る。「金魚の糞みたいに付いて来る車がいます。」

 「余興にはなるだろう…」守谷がニヤリと笑って言った。

 大男の中田が足元に置いていたロケットランチャーを持ち上げ、バンの後ろドアに手を伸ばそうとした時、額に切り傷を持つ男がそれを制した。

 「それは議員のために残して置け。こっちの方が面白いと思うぞ。」守谷は足元の鞄から手榴弾を取り出した。

 中田が小さく頷いてバンの後ろドアを開けると、守谷は手榴弾の安全ピンを抜いて外へ放り投げた。深緑色の球体は地面に音を立てて落ち、惰性で勢い良く後方へ転がって行った。

 テロリストの動きを見た野村は急いで助手席に戻り、ハンドルを左に切った。軽乗用車は縁石を乗り越えて歩道に乗り上げ、その直後に手榴弾が爆発した。ハンドルを切って逃げていなければ、手榴弾は車の真下で破裂していた。

 「上手く逃げたな…」守谷が再び手榴弾を取り出して安全ピンを外して歩道の方へ投げた。

 一方、新村は再び道路へ戻るためにハンドルを操作し、野村はテロリストたちの動きに注視した。

 「手榴弾に気を付けろ!」バンから目を離さずに野村が言った。しかし、彼は2つ目の手榴弾の存在に気付けなかった。

 「分かりました。」新村が再びアクセルを勢い良く踏み込む。

 その時、歩道で2つ目の手榴弾が爆発し、その破裂で生じたアスファルトの破片が黒い軽自動車の車体に降り注いだ。

 「クソッ!!」野村が悪態をついた。

 守谷は再び手榴弾を道路へ放り投げた。しかし、今度は間を開けずに次の爆弾を道路へ放った。1つ目のグレネードが軽自動車の2メートル手前で爆発し、その際に爆風と破片を浴びた軽自動車はバランスを崩して、新村はハンドルを握る手に力を入れなければならなかった。2つ目の手榴弾が爆発する寸前に野村は、ハンドルに右手をかけて左へ切って再び歩道へ逃げた。

 間一髪で手榴弾の上を通過することは免れたが、車体の右横に強烈な爆風を浴びた。車内にいる二人の捜査官は無傷であったが、軽自動車の方は爆風と破片の影響で車体は塗装も剥げた上に凸凹になっていた。窓も手榴弾とアスファルトの破片によって所々傷が付いている。

 「しぶといな…」歩道へ逃げた軽自動車を見て守谷が言った。彼は最後の手榴弾を鞄から取り出し、中田の方を向く。「車を撃て。」

 大男の中田はインサス(注:別記はINSAS [新インド小火器システム、Indian New Small Arms System])のアサルトライフルを構えると、歩道から道路に戻ってきた軽自動車に向けて発砲した。

 「頭を下げろッ!」新村にそう言うと、野村は怯まず助手席から身を乗り出して応射した。彼が予想した通りに中田は新村に狙いを定めており、銃弾は運転席側の窓に集中していた。白いバンは銃撃を受けると蛇行運転を始め、野村の銃撃を避けようとした。

 フロントガラスを突き破って頭上を通過する弾丸に恐怖した新村は、アクセルを踏む勢いを落とし、守谷たちとの距離が開き始めた。

 「加速しろッ!!」バンになるテロリストに向けて発砲する野村が怒鳴った。しかし、新村はアクセルを踏むことができなかった。

 「潮時だな…」守谷が手榴弾の安全ピンを抜き、軽自動車との距離が開き過ぎる前に手榴弾を落すようにして外へ投げた。








 「つまり、我々の中にテロリストの協力者がいると?」椅子の背もたれに寄りかかっていた黒田が尋ねた。

 「そうです。」水谷が真剣な眼差しで上司を見つめた。

 “広瀬も似た様なことを言っていたな…”目の前に座る分析から目を逸らさず、黒田は数時間前にした広瀬との会話を思い出した。“しかし、アイツは西野と共に消えた。”

 水谷を内通者だと思っていたネズミ取りの支局長は、分析官からの自白を予期していたが、目の前の男も「内通者の存在」を仄めかしてきた。直感で“モグラ”の存在を疑う広瀬とは違い、分析官の水谷は内通者の存在を疑う具体的な証拠を列挙した。しかし、どれだけ具体的なことを言われても黒田は信じられなかった。彼は水谷が自分の疑いを晴らすために嘘をついていると思ったのだ。

 “泳がせてみるか…”

 「すぐに戻る。」ネズミ取りの支局長が拘束室を出て、隣の部屋に入った。その部屋からマジックミラー越しに拘束されている水谷を見ることができる。黒田は部屋にあったノートパソコンを起動させ、自分のアクセスコードを使ってスパイウェアをインストールした。彼は一度電源を切って、ノートパソコンを水谷のところへ持って行った。

 「お前の言う証拠を見せてくれ。」黒いノートパソコンを分析官の前に置いて黒田が言った。

 「分かりました。」

 水谷がパソコンを起動させて作業に取り掛かり、ネズミ取りの支局長はその様子を椅子に座って見守った。事前に仕掛けたスパイウェアによって、水谷の動きは黒田のパソコンに転送される。目の前にいる分析官が裏切り者かどうか、それである程度の事が分かると黒田は思った。

 その時、拘束室のドアが開いて奥村が入って来た。「お話しがあります。」

 “いいタイミングだ。”と黒田は思った。彼が部屋を後にすれば、水谷が何かしらの行動に出る可能性がある。

 「どうした?」ネズミ取りの支局長は奥村と一緒に部屋を出た。

 「小田議員とその家族の避難が完了しました。議員は現場付近の警察署で休んでいて、家族もすぐ同じ場所に到着するそうです。」

 部下からの報告を聞いて黒田は胸を撫で下ろした。「無事で何よりだ。それで西野たちは?」

 「まだ確定した情報ではないのですが…」自信が無いためか、奥村の声が小さくなった。「現場にいたSAT隊員によると、西野さん、広瀬さん、小木さんはテロリストと交戦していたようです。」

 “また面倒くさいことになったな…”心の中で黒田が呟いた。“アイツらはテロリスト側ではないのか?”
 
 「そうか…新しい情報が入ったら、また報告してくれ。」

 「分かりました。」奥村が自分の机に戻るために走り出した。

 「奥村ッ!」黒田が部下を呼び止め、急いで駆け寄った。「過去24時間の水谷の行動を調べてくれないか?」

 「でも…」

 「忙しいと思うが、急ぎで頼む。」
 







 「お邪魔でしたか?」藤木が笑みを浮かべながら尋ねた。彼の隣には小柄の女性が立っており、彼女の右手には消音器が取り付けられたUSP拳銃が握られている。

 「議員の近くにいた方がいいじゃないのか?」挙げていた両手を下げて中島が言った。

 「議員はもう安全な場所に移動しましたし、私は“彼”に用があるので…」藤木が這って逃げようとしている中年男を指差した。

 「俺もアイツに用がある?」と中島。

 「何故です?」藤木は中島の意図を理解しながらも尋ねた。

 「アイツの仲間に会いたいのさ。」

 「前にも言いましたが、あなたはこの件から―」

 「分かってるさ…」SAT隊員が藤木を遮った。「でも、こんな機会を逃すなんてことはできねぇよ。」

 元公安警察の男は中島に同情しており、もし自分が同じ状況に立たされれば、同じく復讐を考えるだろうと思っている。

 「気持ちは分かりますが、危険なことですよ。特に何所に敵がいるか分からない状況下では…」

 「だから、あの男に聞くのさ。」逃げようとする佐藤に歩み寄りながら中島が言った。

 「テロリストの居所の話しじゃないですよ。私が言っているのは、ネズミ取りの中にいる内通者のことです。」

 抵抗する佐藤の右手首を掴んで時計周りに捻り上げると、SAT隊員はすぐしゃがみ込んで中年男の右腕を相手の背中に押し当て、素早く左腕を掴んでテロリストの両腕を後ろで固定した。

 「何か縛る物はあるか?」と中島。

 すると、藤木の隣にいた小川がSAT隊員に近づき、上着の下から結束バンドを3本取り出して手渡した。

 「ありがと。」中島は手慣れた手つきで佐藤の両手首を縛り上げ、次に残りの2本で中年男の左右の膝上をきつく縛り上げた。小川が佐藤の両脚のふくらはぎを撃ったので、出血している箇所の上を閉めて止血を試みたのだ。「それで…その内通者ってのは誰なんだ?」

 「それが分かれば、苦労しないですよ。だから、私は小川ちゃんと二人で密かに行動してるんですから…」

 「目星は?」立ち上がって中島が問い掛けた。

 「付いてますが…知りたいんですか?」

 SAT隊員は黙って藤木を見つめた。元公安の男は顔に浮かべた笑みを崩さなかったが、一度、俯いて再び中島を見た。

 「野村信一と水谷洋平です。」

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返報 13-7 [返報]

13-7





 何も起こらなかった。

 確かに菊地は引き金を引き、撃鉄も落ちた。しかし、弾は発射されなかった。

 大学教授がもう一度引き金を絞ろうとした時、西野が素早く菊地にタックルして転ばし、銃を奪い取ろうとする。初老の老人は背中を強打したが、銃を守ろうと必死に抵抗した。

 その時、守谷が西野の右足首を掴んで菊地から引き離した。潜入捜査官は突然のことに驚いたが、すぐに左足を突き出して左腕を被弾した男の右腕を蹴った。それでも守谷は怯まずに西野を菊池から引き離すと、右踵を捜査官の腹部に叩き込んだ。激痛によって西野の肺から一気に空気が飛び出し、両手で腹部を庇いながら体を右によじった。

 菊地信弘は北朝鮮製のマカロフの遊底を引き、不発弾を弾き出して再び銃口を西野に向ける。一方、大学教授が銃を向けようとしていた時に西野は落としたSIG拳銃を見つけ、守谷の踵落としを回避すると同時に右へ回転し、そして、拳銃を取った。
 
 慎重に狙って撃ったにも関わらず、菊池の銃から放たれた銃弾は西野を捕らえることができなかった。彼はもう一度西野へ向けて発砲しようとする。だが、守谷が捜査官に接近したために引き金にかけていた指から力を抜いた。

 守谷が接近するのを見ると、西野は銃を敵に向けて引き金を引いた。しかし、狙いが甘く、3発の内2発が額に傷を持つ男の左肩上の空気を切り裂き、最後の1発が守谷の左肩を捕らえた。ここで拳銃の弾が尽きた。

 左腕から血を流す守谷は雄叫びを上げて西野に襲い掛かり、右手で捜査官の首を絞めた。男の力は強く、酸素を求める西野がいくらもがいてもビクともしない。咄嗟に捜査官は弾の切れたSIGの銃床で守谷の額を殴った。この攻撃で塞がっていた額の傷が開いて血が噴き出し、西野の首を絞める手の力が少し緩んだ。捜査官は再び銃床で男の額を殴った。今度は先ほどよりも力を込めて殴り、傷口から飛び出した血が西野の顔に降り注いだ。守谷は呻きながら後退し、額から落ちてくる血によって視界を奪われた。

 次に西野は弾の切れたSIGを菊池に投げつけ、距離を縮めると菊地の拳銃を無理矢理取り上げた。そして、大学教授の腹部に向けて2度撃ち、続いて血を拭って目を開けようとしている守谷に銃口を向けて2度引き金を絞った。菊池はその場に座り込み、守谷はバランスを崩して転び、その際に後ろへ転がりながら輸送機から落ちた。

 素早く西野は操縦席へ銃を向け、一言も警告を発せずに操縦者の頭に1発の銃弾を叩き込んだ。操縦士の血が窓と計器に降り注ぐ。

 続けて副操縦士の頭を撃ち抜こうとした時、菊池が立ち上がって学生を守ろうと右手を銃口の前に伸ばした。捜査官の発砲した銃弾が菊池の右人差し指と中指を吹き飛ばし、これによって弾道が逸れて計器に命中した。輸送機は離陸体勢に入っていたが、操縦士の死と副操縦士の混乱がそれを困難にしている。

 潜入捜査官は大学教授を押し退けて副操縦士を撃った。撃たれた学生は即死し、床に叩きつけられた菊池は虫の息であった。

 操縦士を失った輸送機であったが、死体が操縦桿を左に傾けたために急激に傾き、そのまま基地にあった建物に激突した。




















 「この一件は火災事故にすべきだろう…」

 内閣総理大臣が突然口を開いた。それまで彼は閣僚たちの話しを聞いているだけで一言も発していなかった。
 
 閣僚やその場にいた関係者はただ唖然としていた。彼らは数時間前に自衛隊基地で起こった出来事について話している。
 
 「しかし、総理…」官房長官の小田完治が右隣にいる異常なほどに痩せこけている総理大臣に言う。「これほどの事となれば…」
 
 「下手な混乱を生むのは良くないだろう。違うか、小田?」

 「この件を隠蔽することは不可能かと…それにこれは公表すべきことです。」

 総理が小田の方に体を向けると机に左肘をついて身を乗り出した。「お前、これが絶好のチャンスだと思っているだろ?」

 小田は目の前にいる男が言っていることが理解できなかった。それは他の閣僚たちも一緒であった。

 「対テロリスト機関…」総理が自分の椅子に戻る。「これを作るには絶好の機会だ。それにお前、この事件が起きる前に何かコソコソしていたな。お前、何か知っていたんじゃないか?」

 室内にいた全員の目が小田に集まる。小田は心臓が縮まるような感覚に襲われたが、表情を変えずに総理大臣から目を離さなかった。

 “公安に通報したのが漏れたのか?しかし、それだけでは―”

 突然、総理大臣の顔に笑顔が広がった。「冗談だよ。」

 室内を満たしていた張り詰めた空気がこの一言で薄くなり、小田は笑みを総理に返すと机の上に置かれた書類挟みへ視線を戻した。

 “どうやら違ったようだ。”

 「個人的に…」総理が再び口を開く。「君の案には賛成だよ。アメリカも賛成している。他の国々も。でも、対テロ機関を公のものにすることには反対だ。こういうものはできるだけ、秘密にすべきだ。」

 「しかし―」小田が総理の話しを遮る。

 総理が官房長官を睨みつけた。

 「私は君の案を進めるつもりだ。しかし、国会では話し合わない。野党は確実にこれに反対するだろう。それに私はもうすぐ引退する…」

 “そういうことか…”総理の意図を読み取った小田は口を噤むことにした。“全て私に負わせるのか…”








 菊池たちが引き起こしたテロ攻撃は、「自衛隊基地で発生した火災」として報道された。

 しかし、近隣住民は爆発音と銃声を耳にしており、それらの情報はソーシャルメディアを通じて広く日本、そして、世界中に伝わった。

 政府は野党とマスメディアに追及されたが、「爆発音と銃声のようなものは、火災によって生じた音であって、まことしやかに囁かれている自衛隊とテログループによる戦闘ではない」と否定した。その後、数か月に渡って報道されたが、世間の関心事は別のスキャンダルへ移り、この自衛隊基地攻撃は次第に人々の記憶から薄れて行った。

 ここまでが表向きの話しである。

 事件後、防衛省はすぐに警察庁を責め、基地内への警察関係の立ち入りを拒否した。この対応の背景には公安警察主導の潜入捜査があった。

 航空自衛隊入間基地で潜入捜査官だと名乗る男が拘束されたことが発覚すると、防衛省は警察庁の怠慢に怒りを覚えた。彼らは警察庁がテロ攻撃と潜入捜査の情報を共有していれば、防げた事件だと信じて激しく抗議した。

 一方の警察庁は防衛省の主張を否定した。事実、彼らはテロ攻撃の情報を掴んでいたが、その標的までは掴んでいなかった。ゆえに潜入捜査官を2名送り、詳細な情報を入手しようとしていたのだ。しかし、テログループの警戒心の高さと妨害があったために攻撃標的を事前に知ることができなかったと報告した。

 防衛省は警察庁の報告を詭弁とし、入間基地の捜査から警察を排除しようとして両者の間で激しい言い合いが始まった。だが、政府からの要請もあり、両機関は表面上捜査協力を約束し、争いに終止符を打つことにした。








 「吉崎美由紀さんはいますか?」

 受付にいた女性が顔を上げると、短髪に髭面の若い男性が見えた。髪は短く整えられているのに、顔の半分が髭で覆われている。その男は埃を被った灰色のネルシャツと色褪せたジーンズを身に纏っていた。

 「どちら様ですか?」若い受付担当の女性が作り笑いを浮かべて尋ねた。

 「西野、西野史晃です。」

 「ご用件―」

 作り笑いを浮かべながら女性が尋ねようとした時、彼女の隣にいた先輩らしき女性職員が西野顔を見て口を開いた。

 「吉崎さんは亡くなりましたよ。」

 西野は目を見開いて30代半ばに見える女性職員の方を向いた。

 「先月のことですよ。知らないん―」

 学生として大学に潜入していた男は眩暈を憶え、女性の声を聞く余裕もなかった。

 “美由紀が死んだ…?”








 棺の中で横たわる三浦大樹の顔は綺麗に整えられていたので、誰も彼の顔に薄く残っている切り傷や内出血に気付くことはなかった。

 大勢のSAT隊員や同期の警察官も忙しい中、三浦の葬儀に駆けつけてきた。その中には中島とその家族も含まれている。しかし、弟の様に可愛がっていた後輩の死を中島はまだ受け入れられなかった。

 “まだ何所かで生きているに違いない。きっと、あの人懐こい笑顔を浮かべて戻ってくる。これも捜査の一部だ…”中島はそう思いたかった。

 「ねぇ、お父さん…」5歳になる息子が中島の左手を引いた。「三浦の兄ちゃん、何で寝てるの?」

 後輩の死を受け入れたくない男は息子の問いに戸惑い、それと同時に込み上げてくる涙を必死に抑えた。

 「お兄ちゃんは…」声を出すと涙が出そうになり、中島はここで言葉を飲んだ。そして、自分でも認めたく言葉を口にした。「お兄ちゃんは、天国に行ったんだよ…」








 『今の自分』に嫌悪感を抱く西野は吉崎美由紀に会えば、『昔の自分』に戻れると思った。再び彼女と一緒になり、新しい職を見つけ、結婚し、子供を授かり、一緒に年老いて幸せに暮らしたかった。彼は『普通の人生』を送りたいのだ。

 “事情を話せば分かってもらえる…”西野はそう思った。“警察官を辞めれば、もうあんな連中と関わることもなくなる…”

 しかし、吉崎美由紀はもうこの世にいない。西野が潜入捜査後に抱いていた希望の光はもう存在しないのだ。

 西野は愛した女性の死因を探った。皮肉なことに彼が潜入捜査官になる際の訓練が、この調査の役に立った。まずは吉崎美由紀の死に関する情報を探し、地元新聞紙に書かれていた「女性会社員の自殺」に関する記事で彼女の名前を見つけた。小さな記事であったために詳細なことは書かれていなかったが、死亡した場所と日時は特定できた。

 次に彼は公開されている吉崎のSNSを隈なく調べた。投稿された文章、写真、動画などに目を通して手掛かりを探すも、特に目立ったことは何もない。また、SNSで見つけた投稿の大半が食事や友人たちと遊んでいる写真と動画であった。

 “美由紀は自殺するような人じゃない…”

 吉崎が登録しているSNSサイトで西野は適当な名前でアカウントを複数作成し、新聞記者やアンケート業者を偽って吉崎美由紀の友人たちにスパイウェア付きのメッセージを送った。これでメッセージを開けば、スパイウェアが作動して開封者のデータを見ることができる。意外と引っ掛かる人が多く、その中には新聞記者を装ったメッセージに真摯に答えてくれる人もいた。

 この調査で分かったことは、吉崎美由紀が上司の角田陽平という男に迫られていたということであった。西野はすぐに角田を調べ上げ、彼の携帯電話とパソコンをハッキングし、吉崎に繋がる情報を求め、元警察官は見つけた。吉崎からのメールは削除されていたが、彼自身が送ったメールの方はあまり手が付けられていなかった。

 西野はすぐに送信メールをコピーして読み、角田が執拗に吉崎を食事や飲みに誘っている事実を見つけた。吉崎の友人や同僚たちから似た話しを得ていたので、このメールはその情報の裏付けとなった。それに角田陽平は警察からも容疑者として目を付けられていたので、西野は彼が犯人だと断定した。

 既に標的の行動確認を終えていた西野は、角田の帰宅時間が迫るとすぐに彼の自宅に電話をかけ、角田陽平が病院に運ばれたと電話に出た男の妻に嘘を言った。そして、その数分後に子供を連れた角田の妻がマンションから飛び出してきて、タクシーを拾うのを西野は見た。タクシーが見えなくなると、元警察官は落ち着いた足取りで角田一家の住む部屋に向かった。








 「この二人か…」机に置かれた2つの写真を見て小田が呟いた。

 官房長官の前に座る杉本哲司は何も言わず、彼が並べた西野と三浦の顔写真を一瞥した。

 「二人は…今どこに?」写真から顔を上げて小田が尋ねる。

 「一人は亡くなり、もう一人は行方不明です。」杉本が最初に三浦の写真を、次に西野の写真を指差して答えた。

 「遺族に死因を告げたのか?」

 「いいえ。機密情報であるため、訓練中の事故死という扱いにしました。また、三浦巡査部長の交際相手であり、死亡した高橋恭子は別件で事故死になっています。」手元に置いていた書類を見ずに杉本が言った。

 「もう一人の行方不明の方は?」

 「行方不明と言いましたが、既に発見して部下を派遣しています。」

 「彼を引き入れる予定なのか?」小田が口を「へ」の字に曲げて訊いた。

 「はい。」頭に白髪が混じっている杉本が頭を縦に振った。「残念ながら、彼はもう“こちら側の人間”です。それにこれは彼のためです。」

 「本当にそう思うか?」官房長官は疑いの目で杉本を見た。

 「彼は生きる“目的”を失い、いずれ自殺を試みると思います。私は彼に新しい目的を与えたいのです。そうすることが、彼のためだと思います。」








 海辺にある公園で西野はベンチに座っていた。

 街は黎明の色に染まっており、たまにカモメや鴉の鳴き声が聞こえてくる。西野はその鳴き声を無視して波の音に耳を澄ませていた。彼の視界に入るのは海と転落防止用の柵しかない。古びたジーンズから彼はポケットナイフを取り出した。

 “これでいいんだ…”

 「ちょっと若すぎるんじゃないですかね?」

 紺色のコートを羽織った男が西野の隣に座った。西野は驚いてナイフを落としそうになった。

 「いや~、いい場所ですね。東京にもこんな場所あればいいのに…」男は銀縁眼鏡をかけており、コートの下にはコートと同じ色のスーツを着ている。

 「誰だ?」

 「私ですか?」

 男はコートの内ポケットから名刺を取り出して西野に見せた。名刺には『日本交通保安協会 藤木孝太』と書かれていた。

 「自己紹介はこんなもので…少しお話しをしませんか?」

 「話し?」

 「そうですよ。あなた、自殺しようとしてたでしょ?もったいない!命は大事にしないといけませんよ。」

 男の話し方に苛立ってきた西野は立ち上がった。

 「あなたが自殺を選んだら美由紀さんが悲しむと思いますよ。」銀縁眼鏡の男が呟く。

 これを聞いた西野はベンチに座る男を睨みつけた。

 “当たりだ!”藤木は自分を睨みつけている男を見てそう思った。

 「話しを聞いてくれるつもりになりましたか?」

 「その名前をもう一度言ってみろ―」

 「『殺すぞ!』ですか?」藤木が西野を遮って言った。「私がここに来た理由はあなたとケンカするためじゃないですよ。大切な人を亡くしたのはあなただけじゃない。」藤木の脳裏にある男の姿が浮かんだが、すぐに気持ちを切り替えた。「座ってくださいよ。そうじゃないと、変な奴らが出てきますよ。」

 藤木の言葉を聞いて西野はようやく囲まれていることに気付いた。3メートル前方に一人スーツを着た男、5メートル先の背後にもスーツ姿の男が一人。西野は大人しくベンチに座ることにした。

 「ありがとうございます。早速ですが、本題に入りたいと思います。あなたの経歴を読ませてもらいました。私の上司はあなたを非常に気に入っていて、できれば明日からでもあなたに働いてもらいたいと言っています。」

 「人違いだろ?俺は―」

 「西野史晃さん。元巡査部長。一年の潜入捜査後に辞職。その後は行方不明…となってましたが、意外とすぐにあなたを見つけることができました。」

 「天下り機関が元警察官に何の用だ?もっと補充すべき役人がいるだろう?」と西野。

 「ただの天下り機関だったら、あなたをスカウトするために東京からわざわざ来ませんよ。」

 「だったら何だ?」

 「秘密です。もし、こっち側の人間になれば全てを教えることができます。」

 「詐欺師にしては手口が下手だな。」

 藤木が笑みを浮かべた。「国家機密をそうそう漏らすことはできません。それにあなたを騙すつもりなんて微塵もない。」

 「じゃ、何が目的だ?」

 「目的はあなたをスカウトすることです。」

 「違う。俺が聞いているのはお前らの魂胆だ。」

 「『魂胆』…」銀縁眼鏡の男が西野から海へ視線を移動させる。「西野さん、あなたなら分かると思いますよ。」

 「話しをはぐらかすな。」

 「してませんよ。では単純に言いますと…この国はもう安全ではないんです。あなたも知っているでしょ?」

 西野の脳裏に菊池信弘や三須たちの顔が浮かんだ。

 「それに…頭の狂った連中のせいで、誰かが泣くところなんて見たくないんですよ。」

 西野は何も言わなかった。しかし、彼は藤木の意図を理解していた。

 “対テロ機関を新たに創設しようとしているのか…”

 「この国はあなたのような人を求めています。私と一緒に東京に来てくれませんか?」

 古びた服を着た西野は無言のまま海を見続けた。

 藤木はコートのポケットから携帯電話を取り出し、西野が来ているネルシャツの胸ポケットにそれを滑り込ませた。

 「返事は次回でも結構です。その携帯に私の番号が入っているのでいつでも連絡できます。良い返事を期待しています。」そう言って藤木がベンチから立ち上がる。

 「ちょっと待て!」公園から立ち去ろうとした藤木を西野が呼び止める。「俺は無理だ。もう俺は…そっち側の人間じゃない…」

 「それを決めるのは私の上司です。あなたじゃない。あなたが誰を殺して山に捨てたことなんて、私にとっては別に問題じゃない。それに…」藤木が西野に近づく。「部下を強姦し、妊娠したことを知るなりビルの屋上から突き落とした人が消えたって…困る人は少ないでしょ?」

 「何で―」

 「ご安心を。私はあなたの味方です。人間誰しも頼れる人間が必要ですよ、西野さん。私はその内の一人です。」















 全てを話し終えると、藤木は溜め息をついた。

 “喋りすぎたかな?”

 話しを聞いていた中島は砂場で遊ぶ娘を見守っていたが、隣に座る男が口を閉じると視線だけを藤木に向けた。

 「残党狩りはいつだ?」SAT隊員の声は落ち着いていた。しかし、彼の胸は高鳴っている。

 「話しを聞いてなかったんですか?あなたはこの事件に関わるべきじゃない。」

 「お前に止める権利も義務もないだろ?」

 「ありますよ。」ここでネズミ取りの捜査官は口を閉じた。「これ以上、知り合いを失くすのはツラいですよ…」

 これを聞くと中島は鼻で渡った。「まだ隠し事があるみたいだな…」

 「まぁ、それは次回にしましょう。」ベンチから藤木が立ち上がった。「もし…もしも、奴らと対峙することになったら…その時は分かってますよね?」

 「分かってるよ。」ネズミ取りの捜査官を見ずにSAT隊員が返事した。言い合いを避けるために言ったことであり、本心では別のことを考えていた。

 “対峙することになれば、その時は全力でぶっ潰す…”




















 目覚めると、天井に広がる大きな黒い汚れが見えた。室内はカビ臭い上に肌寒くて薄暗かった。

 守谷は起き上がろうとしたが、左腕と腹部に走った激痛で上体を起こすこともできない。仕方なく頭を動かして室内の様子を調べた。畳三畳分の部屋で彼が横たわっているベッドしか家具はなく、天井から小さな豆電球が1つぶら下がっている。

 彼から見て右側にあるドアが開き、三須が入って来た。目覚めた守谷を見るなり三須は口元を緩めて友人に近づいた。

 「起きたか?」

 「あぁ…ここは?」

 「病院だよ。違法な病院だけど…お前は運が良いよ。無理を言って中田に戻るように言い、車で滑走路に侵入しようとした時に道路の真ん中で倒れていたお前を見つけた…」

 「先生はどうなった?」守谷が右肘をついて身を乗り出した。彼の額は包帯で巻かれており、傷のある部分が少し赤く染まっている。

 「あまり動くな。傷はまだ塞がってない。」

 「答えろ!先生はどうなった!?」声を荒げると、腹部に激痛が走って守谷は再び横になった。

 「先生は…亡くなった…」三須の声には落胆の響きが含まれていた。「輸送機の操縦ミスだろう…政府はあれを火事と言って―」

 「操縦ミスじゃねぇよ。あれは小林のせいだ…アイツも裏切り者だった…」

 「どういうことだ?」

 「小林がいきなり格納庫にやってきて撃ってきた。俺と寺尾を撃ち、先生にまで襲い掛かった…奴も警察の手先だったんだ…」

 三須は信じられなかった。彼は西野を非常に信頼しており、心強い味方の一人だと思っていた。

 「本当に小林だったのか?」大学院生は守谷の間違いだと信じたかった。

 「確かだ。アイツと殴り合い、撃たれた…お前も俺の傷を見ただろ?これは小林の仕業だ!」

 信頼する友人の言葉を聞いて三須は色々と考えを巡らせた。

 “事実を確認する必要がある…”

 「何を考えてる?今すぐに仇を―」

 三須が右手を上げて守谷を制した。「感情的になるな。そこがお前の欠点だ。」

 そう言われて守谷は口を噤む。

 「仇は取る。だが、その前に準備が必要だ。今まで以上の準備が…」

 「何か考えがあるのか?」

 「ある。だが、時間が掛かる。」

 「もたもたしてる時間はないぞ!」

 「分かってるよ。」半ば呆れ気味に三須が言った。「大丈夫。奴らにはちゃんと報いを受けさせるさ…大きな報いを…」

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返報 13-6 [返報]

13-6







 三須に付き添われてトイレから戻ってきた西野は、水で満たされたバケツに携帯電話を放り込む複数の男女を目撃した。

 「あれは?」三浦の死からまだ立ち直れていない西野が三須に尋ねた。

 「準備だよ。計画が早まってね…」

 この言葉に西野は驚き、心臓が激しく動悸した。

 「早まった?」

 「君も見ただろ?あのネズミのせいで、先生が計画を明日の夜に早めたのさ。」

 “大原さんに知らせないと…”

 西野がそう思っていると、守谷が近づいてきた。

 「お前の携帯もバケツに入れろ。」

 「SIMカードを抜いてもいいか?大事な連絡先が―」

 「連絡先なんてどうでもいい。ぶつぶつ言ってないで、早くしろ!」

 守谷に怒鳴られて潜入捜査官は渋々スマートフォンを上着のポケットから取り出し、それをバケツに満たれた水の中へ落とした。沈んで行く携帯電話を見つめていると、三須が西野の左肩に手を置いて潜入捜査官に微笑みかけた。

 「何事にも犠牲は付き物だよ、小林くん。それにデータなら、あとで簡単に修復できる。」

 三須の慰めを聞いても西野は何も言わなかった。彼は連絡係との緊急連絡先を思い出すのに必死だった。始まりと終わりの数字は憶えているが、真ん中2桁の数字が思い出せないのだ。

 「先生が来たぞ。」守谷が三須と西野に呼びかけた。

 「菊地先生に会うのは初めてだったよね?」三須が西野に訊く。

 「はい…」潜入捜査官はまだ電話番号を思い出そうとしている。

 「緊張しなくても大丈夫さ。」西野の表情を見て三須が言った。「先生はとてもいい人だよ…」








 潜入捜査官からの連絡が途絶えて二人の連絡係は動揺し、机に置いている携帯電話を凝視することしかできなかった。

 「正体がバレたのか…?」三浦の連絡係である山中が呟いた。

 「いや…」大原が首を横に振る。「45分前までは西野と連絡が取れていた。」

 「その後に捕まったかもしれないだろ!」山中が声を荒げた。

 「分からない。もう少し待ってみよう。」

 「係長に連絡した方が良さそうだ。問題が大きくなる前にしないと…」三浦の連絡係は頻りに体を震わせていた。

 大原は同僚の状態の方が心配だった。

 「もう一度、西野の位置情報を確認してみないか?」と山中。

 「無駄だと思うが…」

 「やってみる価値はあるだろ?」

 「わかったよ…」大原がスラックスのポケットからスマートフォンを出した。








 学生たちは半円を描くようにして菊池信弘を取り囲み、大学教授の言葉に耳を傾けていた。

 「これから6つのグループに分かれてもらい、それぞれ別々の場所で車を借りてもらう。」

 「目的地は何所ですか?」と学生の一人が尋ねた。

 「埼玉県の入間市だ。」守谷が菊池の代わりに答える。

 「何故、早まったんですか?」別の学生が菊池に向かって訊く。

 「準備は既に整っていた。そして、もう待つ必要は無いと思ったからだよ。」大学教授は三浦の件を言わなかった。学生たちが警察の潜入捜査を知れば士気が下がると思ったのだ。「詳細は後でGメールの下書きに書き込んでおくので、各自で確認して欲しい。」

 “Gメールの下書き?”西野はその存在を知らされていなかった。

 彼がメールアカウントの存在に疑問を持っていると、三須が黒いゴルフバッグ2つを菊池のいる机の前に置いた。

 「各グループに同じゴルフバッグを2つずつ持って行ってもらう。一つには普通のゴルフグラブ、もう一つには武器と簡単な銃器の取扱説明書が入っている。」菊池がゴルフバッグを指差しながら説明する。「私からは以上だ。健闘を祈る…」

 大学教授がその場を後にすると、三須が菊池のいた場所に立った。

 「これから少額だが、活動資金を渡す。それで乗り物を借りるんだ。」上着の内ポケットから三須が6つの封筒を取り出して机の上に並べた。「それから無線機も提供する。周波数はGメールを確認してくれ。」

 「Gメールのアカウントを知らないんですが…」と西野が声を上げた。

 「すぐに教えるよ。」と三須。








 大原がスマートフォンから顔を上げ、答えを待っている同僚を見た。

 「ダメだ。全く反応がない。もしかしたら、電源を切ってるかもしれない。」

 「やはり捕まったか…」冷や汗を額に浮かべている山中が言う。
 
 「分からない。それに三浦の安否だってまだ―」

 「三浦は捕まったさ!あの連絡は救助要請だった!三浦は捕まって殺されたに違いないッ!そして、彼が西野のことも話せば、西野も捕まって殺される…」

 山中の叫びに大原は動揺した。“ありえるな…”

 「係長に連絡して三浦と西野が言っていた連中の拠点に乗り込もう。そうすれば、十分な証拠も掴めるはずだ!」

 “できれば避けたいことだが…”

 「分かった。係長に連絡して連中を捕まえるか…」大原が再び携帯電話に目を戻し、番号を入力し始めた。








 6つのグループが編成され、西野は『野坂』という男が率いるグループに入った。この班には他に『小出』、『糸井』、『大久保』の三人がおり、彼らは西野と野坂同様に京都大学に所属している学生であった。

 潜入捜査官は隙を見て連絡係の大原に電話しようとバケツから携帯電話を取り出したが、それは既に壊れていた。彼は静かにそれをバケツに戻し、自分のグループへ急いだ。

 「糸井が車を借りに行った。アイツが戻るまで俺たちは待機だ。」坊主頭の小出が言った。彼は今日のために髪を切った。この男にとって散髪は気を引き締めるための行為なのである。

 「他のグループは?」周囲を見渡して西野が尋ねる。

 「それぞれ車を探しに行ったよ。同じ場所にいても怪しまれるだけだし…」大久保がスマートフォンを見ながら言った。

 「そう言えば…あの男は…どうなったんだ?」恐る恐る潜入捜査官が訊いた。

 「あの男?」と小出。

 「守谷さんに始末された奴か?」大久保が西野を見る。「アイツは女がいる場所に連れて行かれたよ。自殺したように見せるらしい。」

 “女…?”西野は何のことだか分からなかった。

 「あの男の他に誰か殺されたのか?」潜入捜査官が大久保に尋ねた。

 「何も知らないんだな…高橋って男は警察のイヌで、それの元締めが女警察官だったんだ。」

 “彼の連絡係は男性だったはず…殺された女性は何者だ?”

 西野は詳細な情報が欲しかったが、これ以上の詮索は疑惑を生むと考えて口を噤んだ。








 二人組の男は視線だけ周囲に配って警戒しながら10メートル先にある建物の裏口に近づいた。男たちは共に黒いスーツ姿でその下に白いシャツを着用し、ネクタイはしていない。

 彼らは裏口の横に立つと上着のボタンを外し、右裾を後ろへ押しながら腰のホルスターに触れた。そして、拳銃の銃把を掴んで静かに引き抜き、次に左手で上着の左ポケットに入れていた短い消音機を取って銃口に捻じ込んだ。

 「配置に着いたか?」男たちの右耳に差し込まれているイヤフォンから大原の声が聞こえてきた。

 「甲班、配置に着いた。」黒いUSP拳銃を腰に押し当てて待機している七三分けの髪型の男が応えた。拳銃とスーツの色が同色なので、遠くから見れば彼が銃を持っているとは分からない。

 「乙班、こちらも配置に着いた。」別の班の声がイヤフォンを通して聞こえてきた。こちらの班は正面入り口の付近にいる。

 「できれば発砲するな。三浦と西野の保護が優先だ。」

 「了解。」

 そう言うと、七三分けの髪型をした男が後ろを振り返った。彼は左手を顔の横に置いて指を三本立てた。男の後ろにいた眉毛の太い同僚はUSPの撃鉄を下ろしてカウントを見守った。

 3…2…1…

 ドアノブを回して先頭に立つ男が室内に侵入した。両脇をしっかり締めて銃を小さく構える二人は壁沿いに移動し、ドアがあると静かに素早く室内を確認して前進した。しかし、全く人気がない。室内には塩素の強い匂いが漂っている。

 進んで行くと二人は乙班と合流した。合流後、前進を続けると異臭が彼らの鼻を突いた。西野と三浦を探しに来た公安機動捜査隊のメンバーは異臭の発生源を求めて地下室へと進んだ。道中で彼らは強い消毒液の臭いを嗅いで咽そうになり、地下室のドアを開ける時には目に涙が溜まっていた。

 ドアの向こう側には首を吊った男性と血の海の中で倒れる女性の遺体があった。

 急いで七三分けの髪型の男が首吊り遺体の顔を懐中電灯で照らして確認する。顔が酷く腫れ上がっていたが、男は写真の顔を記憶していたので、それが保護対象者であることに気付いた。

 “遅かったか…”

 すると、眉毛の太い男が折り畳みナイフを取り出して三浦の首を圧迫している縄を切った。すぐに七三分けの髪型の男が三浦の死体をしっかりと掴んで静かに床に寝かせる。

 一方、乙班は三浦の交際相手であった高橋恭子の顔写真を取って大原に送信した。彼らは彼女の存在を知らなかったので、高橋がテロリストの仲間かと思った。

 「三浦大樹の遺体を確認。また、身元不明の女性の遺体も発見しました。」七三分けの男が大原に報告する。

 報告を受けて大原は言葉を失った。“やはり死んでいたか…”

 「零、聞こえていますか?」七三分けの男が尋ねる。大原たちのコードネームは『零』であった。

 「き、聞こえてる…」ようやく大原が口を開いた。「二つの遺体を運び出してくれ。先程の場所で合流しよう。」

 「了解。」








 6時間を超える長距離運転を経た菊池たちのグループは、二手に分かれて埼玉県の入間市と狭山市のビジネスホテルで準備を整えている。

 菊池と行動を共にする三須が大学教授の利用しているツインベッドルームにゴルフバッグを持って入って来た。彼は慎重に縦長の鞄をベッド横に置き、中に入っていた長い布をベッドの上に敷く。続けて三須は鞄の中から武器を取り出して、ベッドに敷いた布の上に並べ始めた。

 「私の分はいらないよ。」菊池がテレビの電源を入れて言った。これは銃器の可動テスト音を少しでも消すためであった。

 「しかし、拳銃だけでも―」

 「いらないよ。」

 これ以上言っても無駄だと思った三須は口を閉じて黙々と弾倉の込められていない武器を布の上に並べる作業を続けた。そして、全ての武器を並び終えた頃に行動を共にする4人の学生が二人のいる部屋に来た。彼らはベッドの上にきちんと並べられている武器を見て胸を高鳴らせた。

 “遂にこの時が来たんだ!”

 学生たちは割り当てられた銃器を手に取って動作の確認作業を行う。遊底を何度か引いたり、引き金を絞ったり、空の弾倉を出し入れするのが主な確認であり、分解して掃除をするようなことはしなかった。

 この作業を終えると彼らは空の弾倉に銃弾を詰め込み始めた。ロシア製のマカロフ拳銃を模した北朝鮮製の拳銃のように装弾数の少ない物であれば、比較的簡単に銃弾を詰め込める。しかし、AK-47を模造した中国製の56式自動歩槍やフィリピンで密造されたUZIのコピー品などはそう簡単に弾を込めることはできない。弾倉内のバネが強力なので、詰め込み作業中に右親指が赤くなって手を休める学生も多かった。

 武装の準備は他のホテルでも行われており、西野も共に行動する4人の男と弾倉に銃弾を詰め込んでいた。西野以外の男たちは短機関銃または突撃銃を求め、潜入捜査官は残っていたマカロフ拳銃を模した北朝鮮製の拳銃をあてがわれた。

 その後、準備作業を終えた学生たちはそれぞれの部屋に戻って眠ることにした。しかし、彼らは遠足前夜の子供のように緊張して眠ることができず、スマートフォンでGメールに書かれている計画書に何度も目を通した。

 西野はこれが最後の機会だと思い、室内に備え付けられていた電話で連絡役の大原に電話しようとした。大原の電話番号を頭の中で復唱しながら受話器に手を伸ばすと着信音が鳴り、潜入捜査官は驚いて伸ばしていた右手を引っ込めた。突然のことに西野は驚いて固まってしまったが、すぐに受話器を取り上げた。

 「もしもし?」と西野。

 「小林くんかい?」

 電話は三須からであった。彼は西野が所属するグループの野坂からメンバーの部屋番号を聞いており、各グループのリーダーたちと最後の会話も終えていた。

 「はい。どうしました?」

 「少し話せるかな?今、君のいるホテルのロビーにいるんだ。」

 「今から行きます…」そう言って西野は電話を切った。








 その頃、2台の白いバンが入間市に到着した。1台は守谷が運転しており、もう1台は中田という男が運転していた。それぞれ別のルートを使い、そして、予約した別々のホテルの地下駐車場にバンを停車させた。

 バンの積荷は硝安油剤爆薬ことアンホ爆薬であった。爆弾はプラスチック製の30Lサイズのドラム容器に入れられており、それは食器などの家庭用品が収められた段ボールの下に隠すように積まれていた。無関係な段ボールを積んだ理由は引っ越し業者と偽るためである。各バンに積まれている爆薬の数は10個、合計で20個である。三須と守谷はこれだけあれば、撹乱と防護柵の破壊ができると思っていた。

 目的地に到着すると、守谷と中田はチェックインを済ませて仮眠を取ることにした。








 「そんなに驚かなくてもいいだろ?」笑みを浮かべて三須が言った。

 西野と三須は潜入捜査官が宿泊するホテルの周辺を歩いている。三浦の一件から守谷は疑心暗鬼になっており、小林と名乗る男も警察が送り込んできたスパイだと思っていた。ゆえに彼は西野の動向を探るよう三須に頼んだ。

 大学院生は何度か角を曲がったり、カーブミラーを使ったりして不審人物を探したが、彼の注意を引くような発見は無かった。

 「ただ格納庫まで走り、先生たちと合流する。君のグループ仲間は囮だ。言うなら、磁石。彼らが注意を引いてる間に格納庫へ行く…驚くことはないだろ?」

 「彼らを見捨てろと?」西野が三須の横顔を凝視する。

 すると、三須が鼻で笑った。「そうじゃないよ。彼らの犠牲は必要不可欠ことだ…彼らは英雄になるんだ。そして、君もね…」

 「でも…」

 「心配いらないよ。小林くんは自分の心配だけすれば良いんだ。」

 しばらく二人は黙ったままホテルの周りを歩き、尾行確認を終えた三須は西野とホテル前まで移動した。

 「それじゃ…」大学院生が右手を上げて別れを告げ、背中を西野に見せた。

 「三須さん!」

 潜入捜査官が呼び止め、三須が振り返る。

 「絶対にやらなきゃならないことなんですか?」西野の声は震えていた。恐怖というよりも、それは怒りによって引き起こされた震えであった。

 三須は数秒間、西野の双眸を見つめた。大学院生の目には何の感情も浮かんでおらず、ただ潜入捜査官の正義感に燃える目を見るだけで何も言わなかった。西野が再び問い掛けようとした時、三須が右口角を少し上げて頭を縦に振った。そして、大学院生は自分の宿泊しているホテルへ戻って行った。
 
 西野は急いでホテルへ戻り、ロビーにあった公衆電話まで走った。財布から10円を取り出して暗記した大原の電話番号を入力する。周囲に目を配りながら潜入捜査官は受話器から聞こえてくる呼び出し音に耳を傾けた。機械音が永遠とも思えるほど西野の右耳に響き、急ぐ彼は左手人差し指で何度も灰色の公衆電話の頭を叩いた。ようやく「カチッ」という音が聞こえ、次に大原の声がした。
 
 「もしもし?」
 
 「大原さんですか?」西野が問い掛ける。
 
 これには大原も驚いた。「西野か?何所にいる?何があった?」
 
 「今、埼玉の入間にいます。携帯電話が―」
 
 「何やってんだ、小林?」

 話しに夢中になっていた潜入捜査官は周辺警戒を怠っていたため、背後から近づいてくる男の存在に気付けなかった。後ろを振り向くと、大量のお菓子と数本の1.8Lの炭酸飲料の入った買い物袋を持つ小出が見えた。西野は焦って受話器を元の位置に戻し、買い物帰りに見える仲間の方へ体を向ける。

 「母親に電話してたんだ。親父が入院してるから…」西野が適当な嘘を述べた。

 「そうか。大変だな…」小出はあまり西野の行動を気にしていなかった。「ちょうどいい。みんな、眠れそうにないから野坂さんの部屋にこれから集まるんだけど来る?菓子もあるよ。」坊主頭の小出が買い物袋を持ち上げて西野に見せた。

 「行くよ。」潜入捜査官は動揺を隠しながら言った。

 「みんな待ってるから急ごう。」








 “埼玉?入間?携帯?”

 大原は西野から聞きたい事が山ほどあったが、潜入捜査官からの電話は途中で切られてしまった。彼にとって西野から連絡は吉報であった。西野はまだ生きており、埼玉の入間市にいる。声のトーンから急いでいる感じはあったが、怯えている様子は感じられなかった。つまり、西野の偽IDはまだ有効である可能性が高い。

 「西野は何と?」山中が尋ねた。

 「埼玉の入間にいると言っていた…」大原が携帯電話を机に置く。

 「急いで行こう。まだ機捜の奴らもいる。」

 「だな…」








 深夜2時8分28秒。

 小熊が率いるチームは航空自衛隊入間基地の正門、『道上』という男のグループは稲荷山門の近くに車を停めて来たる時を待っていた。

 “あと2分…”

 それぞれが携帯電話で時刻の確認をして胸を高鳴らせ、銃把を握る手に力を入れた。

 2時9分00秒。

 小熊と道上が合図を出さなくても、学生たちは装備を持って車から降りた。各グループに所属する運転手はギアをニュートラルに入れてから車を降り、シートベルトでハンドルを固定すると座席の下に置いていた耐火煉瓦を手に取った。彼らのグループが持つ車はセダンタイプであって奇襲向きではない。しかし、彼らに別の車を用意する暇はなかった。

 2時9分37秒。

 各グループの運転手が再び車のギアをドライブに入れ、乗用車がゆっくりと進み始める。すると、運転手は車のドアを左手で抑えながら、重さ3.7kgの煉瓦を恐る恐るアクセルペダルの上に落とすようにして置いた。煉瓦の重さでペダルが押され、乗用車は加速して入間基地の門目がけて走り出した。

 2台の乗用車は別々の場所でほぼ同じタイミングで走り出し、風圧によって運転席側のドアが閉まる。これを見た小熊と道上を除く学生たちはポケットに入れていた手榴弾の安全ピンを抜き、乗用車が目的のゲートに激突すると手榴弾を車へ放り投げた。

 そして、手榴弾が投げられると同時に小熊と道上は発煙筒を着火させ、門に激突して動けなくなっている車の方へ飛ばした。手榴弾の破裂と同時に発煙筒が車の上に落ち、乗用車のトランクに積まれていたアンホ爆薬が爆発した。
 







 2時10分17秒。
 
 滑走路に面した道路で待機していた4つのグループが爆発音を耳にした。

 各グループは約70mの間隔を開けて待機しており、爆発音を聞くと一斉に学生たちは運転手を残して車から飛び出した。彼らの手には銃が握られており、外に出るなり遊底を引いて初弾を薬室に送った。

 一方、残された運転手はギアをニュートラルからドライブに入れてアクセルペダルを勢い良く踏み込んだ。4台の車は基地と道路の間にある金網フェンスに向かって突撃し、地面に埋まっていたフェンスを弾き飛ばして敷地内に侵入した。

 2時10分59秒。

 学生たちが切り開かれた入り口に向かって走り出した。

 拳銃を右手に持つ三須が仲間の後を追いかけようとした時、菊池に左腕を掴まれた。何事かと大学院生が振り返る。

 「君にはまだやる事がある。」

 そう言うと、菊池信弘はスタンガンを三須の胸に押し当てて電源を入れた。スタンガンからバチバチと電流の流れる音がし、大学院生は体を痙攣させて地面に崩れ落ちた。

 三須は尊敬する大学教授の顔を見上げ、目で「何故ですか?」と訴えかけた。

 「歴史には“証人”が必要なんだよ。」菊池は意識を失いかけている学生の手から銃を奪った。そして、大学教授は背後で待機していた中田という学生の方を向く。

 「三須と君はここから逃げるんだ。全てが終わった時、あの声明文を公開してくれ。」

 菊池の話しを黙って聞いていたプロレスラーのようにがっしりした体格の中田は、頭を縦に振って三須を右肩に担ぐとその場を後にした。








 2時11分00秒。

 爆発音とそれに続いて生じた銃声を聞いた自衛隊たちが応戦に出た時、西野の所属するグループが大久保の運転する車によって切り開かれた入り口に向かって走り出した。

 戦う気のない西野は拳銃をベルトに差し込んで仲間の後を追い、どのようにして彼らを止めようか考えていた。

 金網フェンスから10m程離れた場所で大久保が車を停め、走ってくる仲間と合流する。

 「発煙筒は?」長身の野坂が大久保に尋ねた。

 「お前が持ってんじゃねぇのか?」目を大きく開いて茶髪の大久保が問い返した。

 「持ってはいるが…」

 「じゃ、問題ないだろ!」

 野坂は大久保の態度が気に入らなかったが、ここで彼と争う気はないので渋々ショルダーバッグから発煙筒を取り出した。

 その時、彼らの顔を眩い光が襲った。

 「そこで何をしてる?」光の方向から声が聞こえてきた。

 西野たち5人が顔を照らす光を手で遮りながら、声の主を確認する。そこには懐中電灯と自動小銃を持つ自衛隊員が1人いた。自動小銃の銃口はまだ下に向けられており、西野たちをまだ脅威とは認識していない。

 しかし、襲撃者たちは違った。パニックに陥った小出は雄叫びを上げながら持っていたAK-47の模造銃を腰で構え、銃口を自衛隊に向けると引き金を絞った。

 異変に気付いた自衛隊は懐中電灯を落して地面に伏せ、素早く右へ回転して銃弾から逃れようと動いた。本物のカラシニコフ自動小銃に似た乾いた断続的な銃声と共に無数の銃弾が発射され、狙っていた隊員がいた場所の空気を切り裂いた。

 小出は銃が弾倉を食い潰すまで引き金を引き続け、標的が移動しても同じところばかり撃っていた。だが、他のメンバーはそれぞれ銃を構えて自衛隊員の後を追うようにして発砲した。

 数発が移動する隊員の腕や脚をかすめ、4発が防弾ベストに命中した。ここまでは致命傷に至るダメージを受けなかったが、彼が立ち上がろうとした時に再装填を終えた小出の自動小銃が再び火を噴いた。銃弾が右の腕と肩に命中して自衛隊員は突き飛ばされたように地面に叩きつけられた。

 止めを刺す機会であったが、西野を除く全員弾切れであった。彼らは急いで新しい弾倉を銃に入れようと動き始める。

 これを見た潜入捜査官は素早くベルトに差し込んでいた拳銃を抜き取り、手前にいた小出の背中に向けて3度引き金を絞った。反動によって拳銃が跳ね上がり、最後の1発は小出の後頭部を撃ち抜いていた。

 『菊池たちを止める』ことで思考が一杯になっていた西野の咄嗟の行動であった。

 菊池たちの無力化。それが彼の導き出した答えであった。

 背後からの攻撃に野坂、大久保、糸井が驚いて装填の手を止めて振り返った。

 躊躇することなく西野は銃口を小太りの糸井に向け、引き金を絞る。今度は反動を考慮して引き金を2度引いた。

 照星、反動、照星、反動。

 2つの銃弾は糸井の胸を捕らえ、被弾した男は糸の切れた人形のように崩れ落ちた。

 突然の裏切りに激怒した大久保が、持っていた短機関銃を投げ捨てて西野に襲い掛かった。潜入捜査官は慌てながらも銃口を大久保に向けて引き金を絞る。初弾は接近する男の左肩をかすめたが、続けて放たれた2発目が彼の顎を、そして、3発目が左頬を捕らえた。怒りに燃えていた大久保は地面に倒れると同時に絶命した。

 ここで西野のマカロフを模して作られた拳銃の遊底が後退し、再装填の必要性を彼に伝えた。西野が予備弾倉に手を伸ばした時、何かが頭上の空気を切り裂いた。ふと顔を上げると、短機関銃を構える野坂が見えた。

 「この裏切り者がッ!」

 長身の男が引き金にかけた指に力を入れると同時に3発の銃声が聞こえ、西野を撃とうとしていた野坂がうつ伏せに倒れた。

 死を覚悟した西野であったが、突然のことに彼は状況が呑み込めなかった。しかし、野坂が倒れたことによって、彼の陰になっていた存在が潜入捜査官の目に映り込んだ。仰向けに倒れた状態で左手に拳銃を持つ自衛隊員がおり、その銃口は西野に向けられている。

 暗がりであったので互いの顔を見ることはできなかったが、西野は自衛隊員の鋭い視線を感じた。そして、潜入捜査官は弾の切れた拳銃を地面へ放り投げた。彼は撃たれても仕方のないところまで来てしまったのだ。

 菊池や三須をもっと早くに止めることもできたかもしれないが、彼は恐ろしくて連絡役に強い進言を行わず、許されるのならば逃げ出したかった。三浦を救う手立てもあったかもしれない。しかし、西野は何もしなかった。

 銃声を期待していた西野であったが、自衛隊員は黙って銃口を潜入捜査官に向けるだけで引き金を絞ろうとしない。彼は迷っていた。西野は敵であるが、自分の命を救ってくれた。しかし、逃がす訳にはいかない。

 多くの血を失った自衛隊員は疲れて銃を持つ左手を下ろした。銃を下ろしてはいけないが、腕が休みを求めていた。

 覚悟できていると思っていても、自衛隊員の動きを見て西野は安堵し、胸を撫で下ろした。

 その時、西野と自衛隊員は金属音を耳にして、音のした方を一斉に見た。そこには右手に手榴弾を持つ野坂がおり、彼は口から血を流しながらも不気味な微笑みを浮かべて潜入捜査官を見つめていた。そして、西野が伏せた瞬間に手榴弾が破裂した。

 奇跡的に潜入捜査官は手榴弾の破片を回避できたが、野坂の血と肉片を浴びた。血を見て西野は同じ潜入捜査官であった三浦のことを思い出し、激しい吐き気に襲われて咽た。

 “クソッタレ…”

 立ち上がって野坂の亡骸を見下ろした西野は心の中で悪態ついた。彼は思い出したように自衛隊員の所へ駆け寄り、この時になってようやく隊員の顔をはっきりと見ることができた。その自衛隊員は西野よりも若く、20または21くらいに見えた。

 若い自衛隊員は自分の右隣で両膝をつく西野を見るなり、左手で潜入捜査官の上着の胸部分を掴んだ。

 「助…けて…」消え入りそうな声で隊員が言った。

 「すぐに助けを呼ぶ。」

 そう言って、立ち上がろうとすると若い隊員が強く西野を引っ張った。

 「行かないで…」

 この時、西野は手榴弾の破片が自衛隊員の守られていない下腹部に刺さって、大量の血が流れていることに気付いた。

 「すぐに戻って来る。だから、ここでじっと―」

 自衛隊員を落ち着かせて助けを呼ぼうとしたが、その前に潜入捜査官は若い隊員の両目から生気が消え、頭がだらりと地面に落ちた。西野は自衛隊員が意識を失っただけだと思い、何度も体を揺すって起こそうとした。しかし、若い隊員が目覚めることはなかった。

 見ず知らずの自衛隊員であったが、西野の胸は悲しみで締め付けられて目に涙が溜まった。潜入捜査官は再び死亡した三浦大樹のことを思い出し、自分の無力さに苛立った。そして、この苛立ちが彼の中に存在していた何かを砕いた。
 
 2時13分24秒。








 2時14分16秒。

 航空自衛隊は小熊と道上たちが思うほど容易に足止めできる存在ではなかった。奇襲であったにも関わらず、彼らは4分足らずで制圧されてしまい、全員死亡した。

 その頃、菊池は守谷のグループと合流して目的の輸送機がある格納庫へ急いでいた。他の生き残っていたグループも同様に格納庫に急いでいたが、彼らは運悪く複数の自衛隊員に遭遇して戦闘し、呆気なく無力化された。ゆえに守谷は時間稼ぎのため、自分のグループメンバー4人を自衛隊員が密集している地域に送り込んだ。

 C-1中型輸送機は暗い格納庫の中で眠っていた。菊池たちは全長29mあるこのターボファンエンジン搭載の機体を探し求めており、これを使って人々を覚醒させようと目論んでいる。

 彼らの計画は実に単純な物であった。輸送機を盗み、それで首都東京へ飛ぶ。

 特に標的などは決めておらず、燃料が切れるまで人口密集地域を飛ぶ考えであった。東京へ行く時もできる限り重要施設や街の上を通り、目的地に着けば飛べなくなるまで旋回を繰り返す。これは菊池と三須で考えた方法であり、輸送機を撃ち落としても、それが東京に落ちても大学教授が無能だと思っている政府に大きなダメージを与えることができる。また、この攻撃によってテロに対する警戒を高めることができると彼は思っていた。

 “詩織とあの事件で亡くなった犠牲者たちのために…”

 学生たちが輸送機の発進準備を始め、菊池はこれから起こることに興奮して両脚を震わせた。

 「先生…」守谷が大学教授の横に並んだ。「他のグループとの交信が途絶えました。つまり…」

 「いいんだ。」菊池は俯いて右手に持つ拳銃を見た。「彼らは英雄だ。歴史がそれを証明する。」

 「そうですね…」

 「そろそろ出発かな?」

 「はい。」

 二人は後部ハッチから輸送機に乗り込み、守谷が見張りとして残した1人にも乗り込むように手招きした。見張りをしていた男が自動小銃を抱えて走り出すと、乗用車が格納庫の裏口を突き破って侵入し、C-1の後部ハッチ左部分に激突して停車した。
 

 突然の出来事に驚いた菊池たちは銃を乗用車に向けて様子を伺う。しかし、車から降りてくる者はいない。彼らが銃を下ろすと同時に銃声が格納庫内に響き、守谷が先に襲撃者の姿を確認した。

 “小林ッ!!”

 額に青筋を浮かべた守谷は持っていたUZI短機関銃の模造銃を西野に向けて引き金を引いた。
断続的な銃声が聞こえ、潜入捜査官は素早く左へ飛んで守谷の射角が逃げた。彼の右手には北朝鮮製の拳銃、左手には亡くなった若い自衛隊員のSIG拳銃が握られている。

 右残弾4。左残弾7。

 慎重に行動しなければ、菊池たちを止めることはできない。

 「出せ!出すんだッ!!」大学教授が操縦席にいる学生たちに向かって叫んだ。

 操縦席と副操縦席にいる学生がマニュアルを見ながら後部ハッチを閉めようとするも、西野が突入に使用した車がそれを妨害していた。仕方なく彼らはハッチを開けたまま飛ぶ決断を下した。

 西野の後を追うように銃弾が床や格納庫の壁に命中し、潜入捜査官は急いで後部左ハッチに激突させた車の陰に飛び込んだ。それと同時に守谷の短機関銃が弾切れとなり、彼は再装填する代わりに隣で呆然としていた見張りからカラシニコフ自動小銃の模造銃を取り上げ、西野が隠れている車に向けて発砲した。

 C-1中型輸送機がゆっくりと滑走路に向かって動き出す。

 潜入捜査官は激しい弾幕に身動きができず、飛行機が動き出すと次第に焦りが生じてきた。

 “逃がすか!”

 自動小銃が火を噴く中、西野は遮蔽物から飛び出して輸送機の中に向けて4度発砲する。両方の拳銃から2発ずつ放たれ、その内の1発が守谷の左腕に命中し、他の3発は輸送機の壁にめり込んだ。

 右残弾2。左残弾5。

 被弾した際に額に小さな切り傷を持つ男は、激痛に抗う事ができず、発砲している銃を左斜め下に下ろしてしまった。この時、1発の銃弾が西野の左腿をかすめ、その部分のジーンズが血で染まる。

 西野は輸送機に飛び乗りながら再び2つの拳銃を発砲し、北朝鮮製のマカロフの弾が切れた。彼が発砲する直前に守谷は急いで伏せ、丸腰であった見張りの胸に潜入捜査官が放った全ての銃弾が命中した。撃たれた男はその衝撃で後ろに倒れた末に息を引き取った。

 右残弾0。左残弾3。

 輸送機が滑走路に入り、加速を開始した。

 “これを止めるには操縦者を撃つしかない。”

 潜入捜査官が拳銃を操縦席に向けた時、守谷が立ち上がって西野を輸送機の壁に叩きつけた。
機内の隅で丸くなっていた菊池は自分も加勢するべきだと思い、拳銃を裏切り者である西野に向ける。しかし、守谷が邪魔で撃てなかった。

 西野を壁に叩きつけると、捜査官は拳銃を落してしまった。素早く守谷は距離を取って自動小銃を西野に向ける。咄嗟に潜入捜査官は自動小銃のハンドガードを下から両手で包み込むように持って銃口を上へ移動させ、それと同時に守谷が引き金を引いて輸送機の天井に複数の穴を開け、そして、弾倉が空になった。守谷は西野を突き飛ばし、自動小銃の銃床で殴り掛かった。

 潜入捜査官は急いで左に逃げて攻撃を回避した。しかし、そこで彼はぎこちなく両手で拳銃を持つ初老の大学教授と対面した。

 菊池は西野に銃口を向け、ゆっくりと引き金を絞った。

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返報 13-5 [返報]

13-5




 家の中を隈なく探したが、菊池夫妻は娘を見つけることができなかった。

 パニックに陥った妻の清子は度重なる疲労で倒れ、信弘は妻のために救急車を呼ぶとすぐ警察に電話して娘の捜索を求めた。一刻も早く娘を探したかったが、彼は救急車が到着するまで妻の手を握って娘の無事を祈った。

 息子や近所の人々に助けを求めることもできたかもしれないが、信弘も妻の貧血と娘の失踪でパニックに陥っていたので、そこまで考えることができなかった。

 “どうしてこんなことに…”

 10分後に2人の救急隊員がやってきて妻の清子を救急車に乗せ、救急隊員の一人が信弘に同乗を促した。すると、2人の制服警察官が狼狽している初老の大学教授に近づいてきた。

 「菊池信弘さんですか?」背の低い制服警察官が尋ねた。

 「はい。」信弘が二人組の警察官の方を向く。

 「娘さんの件で確認して欲しいことがあるので、ご同行願いますか?」

 菊池信弘は一度救急隊員の方へ向き直り、「すみませんが、後で合流します」と言った。

 すると、救急隊員は搬送先の病院名を告げて病院へ急ぎ、菊池は2人の警察官と共に警察署に向かった。









 

 冷水を顔に浴びせられて三浦が目を覚ました。

 彼に冷水を浴びせた守谷は空になったプラスチックのバケツを床に放り投げ、横たわる三浦の顔を覗き込んだ。SAT隊員は湿気の多い薄暗い部屋で両手を後ろ手に縛られており、腕を動かしてみたがビクともしなかった。
 
 「起きたかい、大ちゃん?」薄ら笑いを浮かべて守谷が言った。三浦の肘打ちによって生じた額の切り傷の出血はもう止まっており、傷は小さな赤い一筋の線になっていた。
 
 「恭子は何所だ?」三浦は恋人の安否が気がかりであった。

 「お前の後ろにいる。」

 SAT隊員が後ろを向こうと動くなり、守谷が彼の髪を掴んで手前に引っ張った。

 「まだ話しは終わってないぞ。お前は何者だ?」

 「俺はただの―」

 「そうじゃない。」守谷が三浦の話しを遮った。「知りたいのはお前の“正体”だ…」

 「だから、俺は―」

 三浦が再び喋り始めると、額に真新しい切り傷を持つ守谷が上着のポケットから黒い二つ折りの財布に似た物を取り出した。そして、男はそれを開いて拘束されているSAT隊員に見せた。それは高橋恭子の警察手帳であった。

 「あの女に俺たちを探るように唆されたか?お前なら簡単にあの女の誘惑に負けるだろうな…ところで、あの女、高橋恭子はヤってる時にどんな声を出すんだ?それとも御褒美はまだだったかな?」

 守谷の発言に三浦は苛立ち、額に青筋を浮かべた。

 「それ以上言ってみろ…後悔することになるぞ…」

 「そうかな?」守谷が三浦の髪から手を離す。「俺はこう見えてもやさしいんだ…」額に切り傷を持つ男は右足でSAT隊員を押して高橋恭子の方を向かせた。

 高橋は彼から2メートル程離れた場所で三浦と同じように両手を後ろ手で縛られた状態で横たわっていた。彼女は気を失っており、乱暴された痕跡は見当たらなかった。

 三浦が交際相手の状態を確認して安心していると、守谷は部屋の隅にあった机から灰色の工具箱を持って来てそれをSAT隊員の前に置いた。

 「お楽しみの時間だ。」そう言って、守谷が工具箱から金槌、マイナスドライバー、パイプレンチ、ポケットナイフを取り出して床に並べた。「ちなみに金槌とドライバーはセットになってるから、どっちか一つっていうのは無理だ。」

 「彼女は無関係だ!殺るなら俺だけにしろッ!!」三浦が怒鳴った。

 「それはダメだ。」守谷はあっさりと三浦の訴えを拒否した。「三須はお前たちを消したがってる。それにお前が死んだら、彼女が悲しむだろ?でも、二人とも死ねば…共に楽だろ?」不気味な笑みを浮かべながら、守谷は床に広げた道具を等間隔に離して並べ直す。

 「恭子は無関係だ。彼女は俺の潜入捜査を知らないんだッ!!」

 「どうだかねぇ~」と守谷。

 「信じろとは言わない。だが、もうすぐ仲間がここにやってくるぞ。」三浦はこの場を切り抜けるために嘘をついた。「お前たちの携帯はもうハッキング済みだから、すぐにここを突き止めて突入して来るぞ!」


 これを聞くと額に浅い切り傷を負った守谷は笑みを消し、三浦から視線を逸らして道具箱を置いていた机の方を見る。

 「お前ら…」

 守谷が呼ぶまで三浦は他者の存在に気付けなかった。三浦を囲むように三人の男たちが暗闇の中に隠れており、彼らは鋭い目つきで三浦と高橋を見つめていた。

 「武田は上の連中に荷物をまとめるように言え。後の2人はこの大ちゃんを別の場所に運んでもらう。」指示を下すと守谷は道具箱を置いていた机から赤黒く汚れたタオルを取って三浦の前で立ち止まった。

 「ちょっと失礼…」そう言うと、彼は三浦の腹部を蹴り飛ばし、これが引き金となって激痛と呼吸困難がSAT隊員を襲った。そして、その際に三浦の口が大きく開き、間を置かずに守谷は潜入捜査官の口にタオルを深く押し込み、吐き出されないようにジーンズのポケットに収めていた短いパラシュート・コードで固定した。

 「女はどうするつもりです?」武田が尋ねた。

 「彼女はここに残る。」守谷が床に置いていたポケットナイフを取り上げて言った。

 三浦は必死に体を動かして、目の前にいる男がしようとしていることを止めようとした。

 「分かってるって…」そう言って、守谷は気を失っている高橋恭子の髪を掴んで持ち上げた。頭皮に走った激痛で高橋が目を覚まし、数メートル前で縛られている恋人を見て驚愕した。

 三浦は何度も体を動かして起き上がろうとした。それを不快に思った武田がSAT隊員の頭に右膝を乗せて床に押し付け、三浦の動きを抑えた。

 「だ、大ちゃん…?」

 それが彼女の最後の言葉になった。

 守谷は深くナイフの刃を高橋の首に差し込み、三浦の前でゆっくりと水平に移動させた。刃が移動する際におびただしい量の血が飛び散り、それは三浦と武田にも届いた。

 高橋恭子は想像を絶する痛みに震え、助けを求めて声を出そうとするも、出るのは息を吐く音だけであった。彼女が死ぬ前には見た物は首から飛び出る血と声にならない絶叫を上げて暴れ回る三浦、彼を抑える男であった。彼女の血は気管に進入し、それは肺を満たそうとしていた。呼吸ができない苦しみが込み上げ、その苦しみが癒える前に彼女は息絶えた。

 SAT隊員は涙を流しながら叫んでいた。しかし、彼の声はタオルによって塞がれている。

 高橋の死を確認すると守谷は彼女の髪から手を離し、ナイフを床に放り投げた。

 「三須に電話だな…」

 何事も無かったかのように守谷と武田は仲間二人を残してその場を後にし、三浦は咽び泣きながら恋人の亡骸を見ることしかできなかった。









 ステンレスの台に横たわっていたのは明らかに菊地夫妻の娘であった。娘の詩織は眠っている様に見えたが、肌の色は青白くなっていて生気が見られない。

 顔を覆っていた白い布が捲られて愛する娘の顔が見えると、信弘は込み上げてくる感情を抑えることができなかった。涙が両目に溜まって視界がかすみ、呼吸が乱れて唇が震え、両脚で立つのもやっとの状況だった。

 菊池信弘から連絡を受けた警察は、通報の12分前に起きた交通事故の被害者と菊地の娘の特徴が似ていたので信弘に同行を求めたのだ。

 娘の詩織は母がうたた寝している間に家を抜け出し、適当な建物の屋上から飛び降りようとしていた。彼女は自分が両親に迷惑をかけていることに胸を痛めており、いずれ自分が両親を死に追いやってしまうと思って自殺を決意したのだ。

 “私がいなくなれば…”

 しかし、菊池詩織はその道中で脇見運転をしていた男性の車に轢かれ、その際に頭部を強打して死亡してしまった。

 娘の訃報を受けた妻の清子は泣き崩れ、息子の優介は言葉を失った。それでも家族の死を受け入れられない二人は死体が安置されている警察署へ行き、そこで蝉の抜け殻のようになっていた菊地信弘を見つけた。残された家族は亡くなった詩織の死体と向き合い、そして、締め付けられるような痛みが胸を襲った。

 この悲しみが癒え始めたのは、事件から3年後のことであった。その間、菊池夫妻は生気を失ったようだった。何をしていても娘のことを思い出し、その度に泣き出してしまった。両親を気遣う息子の優介はできるだけ実家に顔を出すようにしていたが、あまり助けになっていなかった。

 娘の喪失から菊池信弘は事件を起こしたグループを恨み、彼らに関する報道を追い続けた。しかし、彼らの報道は年々減少し、世間から忘れられようとしていた。

 前代未聞の化学兵器によるテロ攻撃を受けて小田完治が対テロ機関の草案を作っていた頃、菊池信弘の怒りは政府へと向けられた。

 “娘を死に追いやった奴らはまだ生きてる…なのに、何で政府は何もしない!!”

 信弘は娘の死を無駄にしたくなかった。彼は政府と警察に『正義の執行』を求めた。しかし、当時の議会は「もう二度と同じことは起らない」と高を括って、今までと変わらない日常に戻ろうとしていた。

 “もっと大きな攻撃が起きれば、人々の目が覚めるかもしれない…そうすれば、もう二度と私たち家族と同じ悲しみ持つ人々は生まれない…”

 この危険な考えが菊池信弘の思考を支配し、結果的に彼自身がテロリストとなって国を変えようという考えに辿り着いた。そして、菊池の計画はもう準備を終えており、後は実行するだけの状態にあった。









 三浦を運ぶよう指示された2人の中に剛田がいた。守谷はこのような事態を引き起こした彼にSAT隊員を始末させる役割を与えた。

 咽び泣いている三浦の横に歩み寄ると、剛田は憎悪を抱きながら、仲間だと信じていた男の左腕を引いて起き上がらせた。恋人の死で焦燥し切っている三浦は腕を引かれても、高橋恭子の亡骸から目が離せなかった。

 「お前のせいで俺まで裏切り者扱いだ…」剛田が悪態ついた。

 しかし、三浦はまだ恋人の死体を見つめている。彼女の恐怖と激痛によって引きつる顔が痛ましくて形容し難い苦しみがSAT隊員の胸を襲った。

 「何とか言ったらどうだ?」絶望の淵にいる三浦の顔を覗きこんで剛田が言った。「って言っても、この状態じゃ無理か…」

 「おい!早くしろよ。」ドアの付近で待機していたもう一人の男が急かした。

 「ちょっと待てくれよ。」そう言うと、剛田はSAT隊員の口を塞いでいた縄とタオルを取った。「少しだけ話させてくれ。」

 「早くしろよ…」仲間のわがままに呆れながら男は言った。

 剛田が再び三浦の顔を覗き込む。「お前のせいだ。お前のせいで―」

 いくら目の前で喋られても、その言葉は三浦の耳には届いていなかった。しかし、自分の視界に入って来た男の顔は認識できていた。そして、その顔を見続けていると、恋人を失った悲しみが守谷たちに対する憎悪へ変化した。

 「あのクソ女がそんなに大事だったのか?どうせだったら、あの女を犯せばよか―」

 挑発の言葉を言い終える直前に三浦は剛田の喉にかぶりつき、大きく頭を振って相手の喉から顔を離した。突然のことに剛田は固まり、そして、喉の辺りから痛みが広まり、混乱して喉を両手で抑える。

 間を置かずに三浦はかじり取った肉片をパニックに陥っている剛田の顔面に吹きかけ、畳みかけるように剛田の鼻に頭突きを喰らわせた。喉から飛び出る血とそれが引き起こす呼吸困難、そして、想像を絶する激痛で剛田の意識は朦朧し、両手を喉で抑えながら地面に崩れ落ち、絶命した。

 剛田が死ぬ30秒前、ドア付近で待機していた仲間の一人が三浦に蹴りかかった。彼は剛田が噛みつかれるところを目撃して急いで駆け寄ったが、SAT隊員との距離を詰める間に彼の仲間は肉片を顔面に吹きかけられて頭突きを受けていた。

 「この野郎ッ!」男が立ちあがろうとしていた三浦の右横腹にローキックを入れた。

 口元が血で真っ赤に染まっていたSAT隊員は左肩から床に転び、その直後に背中を蹴られた。しかし、彼は痛みを感じていなかった。大量のアドレナリンによって感覚が鈍っているのだ。

 男が再び蹴りを入れようとした時、三浦が左肩を軸に左右の足で床を交互に蹴り飛ばして後方へ回転した。そして、その弾みを利用してSAT隊員は踵落としをするために右足を上げていた敵の左脚を蹴り飛ばして転ばせた。

 突然のことに受け身が取れず、男は後方に転んで後頭部を強打した。男が激痛に呻く。

 相手の隙を見逃すほど三浦は甘くなかった。彼は慎重に立ち上がると、後頭部の痛みに苦しんでいる男の股間に右踵を落した。そして、男が悲鳴を上げようとした時、SAT隊員は死ぬまで男の顔面を右踵で何度も踏みつけた。

 男の死を確認すると三浦は再び血の海に横たわる高橋恭子を見た。彼の目から再び涙が溢れ出し、呼吸が乱れ始めた。SAT隊員は彼女の亡骸の近くにあったナイフを手探りで取り上げると、両手の自由を奪っていた縄を切った。苦悶の表情を浮かべる恋人の死体を抱きしめて三浦は咽び泣いた。

 「剛田、倉田!早く手伝えよ!!」

 ドアの向こう側から声が聞こえてきた。声は上から来ているように思え、三浦は自分が地下室にいると推測した。

 「ちょっと行ってくる…」そう言うと、三浦は高橋の瞼を閉じさせ、血の海から別の場所に彼女の死体を移動させた。

 SAT隊員は床に転がっていた工具から金槌を拾い上げると、それをベルトバックルの辺りに斜めにして差し込んだ。そして、次にマイナスドライバーを手に取った。ドアの前まで移動すると三浦は再び高橋恭子の亡骸を見た。

 「すぐ戻るよ…」












 「久しぶりだな。」そう言いながら小田完治が椅子に腰かけた。

 「3年振りくらいかな?」丸縁眼鏡をかけた菊池信弘が応えた。「それより少し痩せたんじゃないか?」

 「これでも6キロは太ったんだぞ。それよりお前から連絡してくるなんて珍しいな。」小田がウェイトレスからメニューを受け取る。

 「忙しいところ申し訳ないね。」

 「忙しいのはお互い様だろう。それで、何があったんだ?」現職議員はメニューに書かれていたウィスキーをウェイトレスに見えるよう指差し、ウェイトレスはメモを取ると静かに立ち去った。

 「まぁ、ちょっとな…」菊池が言葉を濁した。

 すると、小田は思い出したように目を見開いて笑い出した。これには菊地も驚いた。

 「お前もあの法案に反対なのか?」

 「あの法案?」

 「メディアの言う共謀罪さ。」

 大学教授はその法案についてある程度の知識は持っていた。もし、この法案が正式なものとなれば、菊池たちは処罰の対象になる。

 「実際はどうなんだ?危険なのか?」と菊地。

 「あれは形式的なものだ。破防法でもやる気になれば、テロリスト予備軍を捕まえることはできる。それに別件逮捕で芋づる式に組織犯罪を取り締まることだってできるんだ。やる気になれば、政府はなんでもできる。ただ、やらないだけさ。今のところ、何の利益にもならないからな…」

 ウェイトレスが小田のウィスキーを持ってきた。一礼をしてウェイトレスが去ると菊地が表情を強張らせた。小田は友人が何か深刻なことを話す気だと思い、テーブルに両肘をついて男の話しを聞く体勢に入った。

 「相談があるんだ。」菊地が声のトーンを落とす。「この国を変えようと思う…」

 小田は友人が冗談を言ったと思って笑い出した。「学生の頃から何にも変わってないな!」

 大学教授は表情を変えずに小田の顔を見つめ続けた。

 「お、おい。本気なのか?」

 「冗談だと思うか?この国は腐敗している。助けを求める人を助けず、私腹を肥やす人間ばかりだ。」

 「中には良い人もいるぞ。」小田が付け足した。

 「しかし、下衆が目立つ。人々は目覚めなければならない。未来のために…」

 「しかしだな…そんなことを言っても…」

 「だが、私にそんな力はない。だからお前の力を貸して欲しいんだ。」

 小田はウィスキーの入ったグラスを持ち上げると、無言のまま茶色い液体を見つめた。

 “娘を失ってから狂ったと聞いていたが…本当だったのか…”

 「どうなんだ?協力してくれるのか?」菊池信弘が小田から返事を引き出そうと尋ねた。

 「どのように協力すればいいんだ?」小田が一気にウィスキーを飲み干した。

 「ありがとう。頼れるのはお前だけなんだ…計画はもうできている。まずは―」

 小田は友人の話しに耳を傾けながら、これから自分がすべきことを考えていた。そして、大学教授が喋り終えた頃、小田完治も自分の考えをまとめた。











 携帯電話の着信音で西野は目を覚ました。彼は菊池信弘の著書『岐路に立つ』を読んでいる最中に眠りに落ちてしまったのだ。

 潜入捜査官はゆっくりと起き上がって、テーブル上で振動しながら機械音を鳴り響かせる携帯電話を取った。電話は西野の連絡係からだった。

 「どうしましたか?」欠伸を堪えながら西野が言う。

 「もう一人の潜入捜査官に会ったよな?」連絡係である『大原』の声には鬼気迫るものがあった。「あの後にもう一度会ったか?」

 「い、いいえ…」電話越しに感じる大原の迫力に西野は押されていた。

 「アイツから何か聞いてないか?何でもいいんだ。どんな些細な事でも構わない。」

 「と言っても、あれ以降、彼とは会ってませんし…その時も特に変な様子はなかったです。」三浦との会話を思い返しながら潜入捜査官が答えた。

 「本当か!?」


 「は、はい…」

 「そうか…」大原の声には落胆の響きが含まれていた。
 
 「何かあったんですか?」西野は三浦に何かが起きたと思い、気になって尋ねた。

 「連絡が取れなくなった。もしかすると、捕まったかもしれない…」

 これを聞いて西野は眼球を押し潰されたパオロのことを思い出した。

 “彼もあの外人みたいに…”










 ドアを開けると三浦は階段を2段飛ばしで駆け上がった。

 あと2歩で階段を上がり切ろうとした時、踊り場のドアが開いて顎髭を生やした男が現れた。男はマイナスドライバーを片手に持つ血だらけの三浦を見ると、危機感を抱いて咄嗟に右押し蹴りを放った。

 三浦は首を左に傾けて蹴りを回避すると、前進しながら男の右脚の下を潜り抜けるようにしてマイナスドライバーを持った右手を突き出した。工具の先端が男の股間に突き刺さり、男が悲鳴を上げる。構わずにSAT隊員は右肩で男の脚を押し上げながら前進し、顎髭男をドアに叩きつけ、間髪入れずに左肘を相手の右側頭部に入れ、そして、マイナスドライバーで男の喉を突いた。遅い仲間の様子を見に来ただけの男は床に滑り落ち、悶え苦しんだ末に息絶えた。

 SAT隊員がドア枠を通り抜けると、仲間の死を目撃して唖然とする童顔の男が見えた。この男に戦う意思はなかったが、三浦にとって相手の気持ちはどうでも良かった。

 恐怖に震える童顔の男が助けを呼ぼうと口を開くと、その口を塞ぐように三浦は男の口に向けてドライバーを突き出した。口蓋垂(注:のどちんこ)にマイナスドライバーが刺さり、童顔の男は思うように声を上げることができなかった。

 素早く三浦はドライバーを抜き取り、左手を相手の右側頭部に添えて壁に叩きつける。それは一度では終わらず、男が床に崩れ落ちようとしているにも関わらず三浦はそれを追うように相手の頭を壁に勢い良く叩きつけた。

 2人目の相手を無力化の完了後、左側にあったからドアから男が飛び出してきてSAT隊員にタックルした。タックルの後に男はドライバーを持つ三浦の右腕を掴んで壁に押し付ける。彼はマイナスドライバーが一番の脅威だと認識し、それを抑えるのが最優先だと判断した。

 しかし、三浦は道具にばかり頼るような人間ではなかった。彼はタックルしてきた男の股間を左膝で蹴り上げ、相手が怯むと前進しながら左拳を男の顔面に三度叩き込み、ドライバーを相手の右胸に刺した。刺された男は呻き、SAT隊員から離れようと三浦を両手で突き飛ばす。

 後ろに押された三浦はその弾みでドライバーから手を離してしまった。3人も連続で刺し続け、その時に付着した血で手が滑ったのだ。再び距離を詰めようと彼が動くと、右側から別の男が現れて三浦を左へ突き飛ばした。虚を突かれたSAT隊員は転び、急いで体勢を立て直そうと動く。

 彼を突き飛ばした赤縁眼鏡が特徴的な男は、これを好機と見てマウントポジションを取ろうと倒れた三浦に飛び掛かった。

 しかし、その時にはもう三浦の体勢は整っていた。SAT隊員は飛び掛かってくる男の股間に右足を叩き込み、男は激痛に顔を歪めながら三浦の上に落ちてきた。両手で突き飛ばすように三浦は男を左側へ押し退けると、ダウンした状態で相手を追うように両脚を左側へ回し、赤縁メガネをかけた男の顔面を2度踏みつけた。

 一度の蹴りによってプラスチック製のレンズ割れて男の目に刺さり、二度目の蹴りで鼻の骨が折れると同時に後頭部を背後にあった壁に強打した。断続的に訪れる激痛に男は悲鳴を上げた。 

 三浦は相手の息の根を止めようと再び蹴りを入れようと脚を持ち上げる。すると、SAT隊員の右横腹に衝撃が訪れた。彼にドライバーで胸を刺された男が仲間を助けるために三浦に蹴りを入れたのだ。再び男が蹴りを入れようとした時、急いで三浦は倒れた状態で左へ回転して立ち上がろうとする。

 マイナスドライバーがまだ胸に刺さっている男は逃げたSAT隊員を追いかけ、四つん這いになって立ち上がろうとする彼の腹部を蹴り上げた。

 「死ね!死ね!」三浦の腹部を蹴り上げながら男が叫んだ。

 疲労のため、三浦は三度も蹴りを受けていた。しかし、彼はすぐに呼吸を整えて4度目の蹴りが腹部を襲う直前にそれを左腕で防いで押し返した。防御を終えると、SAT隊員は素早く片膝をついて上体を起こしながらベルトに挟めていた金槌を右手で取った。

 男が再び右蹴りを放とうとした時、三浦は相手の左足首を金槌で殴り、殴られた男は激痛に悲鳴を上げて足首を庇おうと身を屈めた。そして、その瞬間に三浦は先ほど放った一振りの勢いを利用して金槌を左から右へ水平に振った。意図した訳ではなかったが、男は金槌の釘抜き部分で側頭部を殴られ、先端が深く頭に突き刺さった。

 耳朶を震わせる男の悲鳴が廊下に響いたが、三浦は表情一つ変えずに男と一緒に金槌を手前に引き寄せ、相手の首筋へ拳を振り落した。衝撃の強さで金槌が男の頭から離れ、肉の塊となった男の体は静かに床へ落ちて行った。

 三浦が視線を上げて次の獲物を探した。廊下の先には鉄パイプや金属バットを持った男5人が震えながら血だらけのSAT隊員を見つめている。

 「お前らは下がってろ。」男たちを掻き分けて武田衛が前に出てきた。「誰も手を出すなよ…」

 そう言うと、武田が金槌を持つ三浦の動きに警戒しながら前進し、それに応じるようにSAT隊員も歩き出した。

 距離を詰めながら武田は上着の下に隠していた特殊警棒を取り出し、振り下ろして展開させた。











 震えるほどの怒りを堪えながら、三須は守谷からの報告に耳を傾けていた。

 「警察は俺たちのことを調べていたのか?」冷静な声を装って三須が問い掛けた。

 「高橋って野郎はそう言ってた。」守谷は敢えて三浦が暴れ回っていることを仲間に伝えなかった。「どうする?」

 「計画を早める。」

 意外な返答に守谷は驚いた。

 「先生と話したのか?」

 「これから話す。先生は例の議員とお話し中だ…」今後のことを考えながら三須が言った。「ソイツを…高橋という男を“屠殺場”に連れて来い。」

 「分かった。」

 「それと…小林も“屠殺場”に呼んでくれ。」

 「アイツも消すのか?」

 「いや、彼には試験を受けてもらう。」











 三浦が先に動いた。彼は素早く金槌を振り上げ、武田の頭に向けて振り下ろす。

 素早く武田は特殊警棒で三浦の攻撃を弾き、カンッと金属同士が激しく接触する音が廊下に響く。金槌を防ぐなり武田衛は警棒を左から右へ水平に振ったが、それは空を切っただけであった。

 相手の動きからSAT隊員は身を屈めて武田の一振りを回避し、警棒が頭上を通り過ぎると金槌で武田の左横腹を殴った。そして、彼は素早く立ち上がりながら、左アッパーを相手の顎に叩き込んだ。

 攻撃の速さと激しさに武田衛は圧倒され、バツ印を描くように特殊警棒を振り回しながら後退する。最初の振りは三浦の左腕を捕えたが、最後の一振りは距離が開いたために空を切るだけで終わった。後退したまでは良かったが、右足で三浦が倒した男の一人を踏んで武田はバランスを崩しそうになった。

 目の前にいる敵が隙を見せると三浦は眼光を鋭くさせて武田に接近した。右手の中で金槌の柄を回して釘抜き部分を下へ向け、SAT隊員はバランスを崩そうになっている武田の左肩へ金槌の釘抜き部を振り下ろした。

 鋭く尖った金属部分が武田衛の肩に深く突き刺さり、武田が激痛に歯を食いしばる。彼は素早く警棒を振り上げて三浦の頭に向けて振り下ろす。しかし、それは簡単に塞がれた。

 SAT隊員は右手を手前に引いて金槌と一緒に武田を引き寄せながら、敵が振り下ろしてきた特殊警棒を持つ右腕を左腕でブロックして三浦は相手の鼻頭に頭突きを喰らわせた。その際に金槌が武田の肩から離れて血飛沫が飛んだ。

 鼻を潰されて武田は意識が遠退きそうになったが、どうにか踏みとどまり、塞がれていた右腕を手前に引いて三浦の左太腿を特殊警棒で殴った。

 左脚に走った激痛でSAT隊員の体が左に少し傾いた。彼は警棒による追撃を恐れ、金槌で攻撃を仕掛ける。しかし、この攻撃が放たれる前に武田が三浦の上着を掴んで手前に引き、彼は素早く相手の首筋に左手をかけた。SAT隊員を抱きかかえるような姿勢を取ると、武田は特殊警棒の底部で相手の後頭部に殴りかかる。

 警棒が三浦に接触する寸前、SAT隊員は武田衛に掴まれた状態で右腕を振って金槌で敵の後頭部を殴り、左手で相手を突き飛ばす。悶絶する武田を見るなり、三浦はすかさず金槌を振り上げて襲い掛かった。

 武田は金槌が自分の頭を襲うのを防ぐために左手で三浦の右手首を捕え、それと同時に特殊警棒の柄でSAT隊員の額を打つ。そして、一番の脅威を排除するため、武田衛は警棒で相手の右腕を殴った。

 額と右腕に強烈な痛みが走り、三浦の右手から金槌が離れて床に大きな音を立てて落ちた。激痛に目を細めてしまったが、彼は武田が警棒を振り上げるのを確認することができた。

 “終わりだッ!”

 武田衛が止めを刺そうとした時、SAT隊員が相手の頭と右腕の間へ左腕を伸ばし、それが振り下ろされた警棒の軌道を外側へ逸らした。そして、彼は武田の右腕を左脇で挟み、左手で相手の二の腕を掴んでしっかりと固定する。目の前にいる敵が反撃に出る前にSAT隊員は捕らえた腕を引いて距離を縮め、頭突きを喰らわれた。

 二度の鼻に対する攻撃で武田は流石に崩れ落ちそうになり、掴んでいた三浦の右手首から手を離して後退する。しかし、まだ右腕を固定されているので逃げられない。

 十分攻撃したと思った三浦は特殊警棒を奪おうと、二の腕を掴んでいた左手を手首へ移動させて固定し、右手で相手の武器を奪おうとした。

 「うらぁ!」戦意を取り戻した武田が左押し蹴りを放った。

 三浦は攻撃を警戒して後退し、その際に左腕で武田が持っていた特殊警棒を弾いて床に落とした。彼は落ちた武器へ手を伸ばそうとしたが、再び武田の蹴りが飛んできたので諦めた。

 二度目の右押し蹴りが来ると三浦は左へ動いて回避し、そのまま素早く前進して武田の背後に回り込むと右腕を相手の首に巻き付けた。体力の限界に差し掛かっていたSAT隊員は、これで戦いを終わらせようと思っていた。

 首を圧迫されて呼吸が苦しくなり、武田の顔が次第に赤くなった。彼はこの状況から逃げ出すために右手で圧迫している三浦の腕を抑え、そして、左肘を後ろにいる相手に向けて何度も放った。その内の3打がSAT隊員の左脇腹に命中し、彼の右腕から少し力が抜ける。

 “今だッ!”

 武田は自分を苦しめていた相手の右腕を首から引き剥がし、一歩前出ると素早く振り向きながら右拳を水平に振って三浦に殴り掛かった。

 だが、痛みに耐えながらSAT隊員はすかさず対応に出た。両腕で武田の右腕を抑え、右手で相手の手首を掴み、左掌底を武田の肘に叩き込んだ。鈍い音と同時に武田衛の腕が外側へ曲がり、彼の悲鳴が廊下に響いた。三浦は間を置かずに相手の後頭部に左手を添え、勢い良く壁に叩きつけた。武田衛は壁に長い血の線を描きながら床に崩れ落ちる。

 蓄積されていた疲労がどっと押し寄せ、三浦はその場で膝をついた。

 「随分、暴れたなぁ~」

 SAT隊員の背後から声が聞こえてきた。彼が振り向くと、そこには恋人の命を奪った男がいた。

 雄叫びを上げながら三浦が守谷に向かった。守谷は左足を突き出して立ち上がろうとしていた三浦の胸を蹴り飛ばして転ばし、相手が起き上がる前に彼はSAT隊員の顔を蹴り飛ばした。

 「武田を病院に連れ行け。残りはコイツを“屠殺場”に運べ。」

 そう言い残して守谷がその場を立ち去ると、彼の仲間たちが三浦を袋叩きにした。










 レストランで友人の話しに耳を傾けていた時、小田完治はできるだけ早く公安警察に菊地信弘が計画していることを話そうと考えていた。しかし、レストランを後にした今、彼は新たな選択肢を見出した。

 “アイツの言い分にも一理ある。”

 読書灯の明かりしかない部屋で小田はアームチェアに腰掛けている。

 “しかし、通報すべき事案だ。だが、アイツの計画が成功すれば、私の提案している対テロ機関が実現するかもしれない…”

 小田完治は自身の考えが許されるものではないと思っているが、それでも彼はこれを好機と捉えていた。

 “敢えて見逃すべきか…いや、もし、既に公安が奴の動きを追っていたら?”

 現職議員の額に大粒の汗が浮かび上がってきた。

 “となると、今日のことも見られていた?通報しなければ怪しまれるな…”

 胸に引っ掛かるものを感じながら、小田は固定電話の受話器を持ち上げた。

 “待てよ…”小田が受話器を戻した。“計画はまだ先のことだ。それに友人の冗談だと言えば済むかもしれない。いずれにせよ、明日にしよう。”

 小田は読書灯の明かりを消して書斎を後にすると寝室に向かった。










 「こっちだ。皆がお前を待っている。」建物に入るなり、守谷が西野を呼んだ。

 突然の予期せぬ相手からの連絡に西野は怯えていたが、黙って男の後を追って廊下を歩き出した。三浦の失踪を聞いていたので潜入捜査官は、この呼び出しが少なくとも三浦関連だと思っている。そして、自分の正体も知られたかもしれないと恐怖した。

 「何があったんだ?」男の横に並んで西野が尋ねた。

 「ちょっと問題が起きただけだ。」

 “やっぱり、例の捜査官か…”

 「大丈夫。すぐ終わるさ…」

 額に小さな切り傷を持つ守谷は廊下の突き当りにあるドアを開けて西野に入るように促した。部屋の中には男たちが輪を描くように並んでおり、ドアが開くと数人が西野たちを見た。

 「どうした?」ドアを開けて待っている守谷が心配そうに問いかけた。

 「何でもない。」そう言って西野は部屋の中に足を踏み入れた。

 部屋は狭い上に薄暗く、肌寒い場所であった。倉庫だろうと西野は思った。とても人が集まる場所ではない。

 「こっちだ。」輪を描いて並んでいる男の一人が西野に向かって言った。

 華奢な体型の西野は輪を描いている男たちを脇に寄せて輪の中に進む。恐怖が全身に走り、西野は体が震えていることに気付いた。輪の中心へ辿り着いた時、西野の中で広がっていた恐怖が消え始めた。彼の目の前には布袋を頭から被せられ、両手足を縛られて跪いている男がいる。

 「コイツは誰だ?」西野は誰ともなしに尋ねた。

 「ネズミだよ。」背後から声が聞こえてきた。西野が振り返ると守谷がいる。

 「ネズミ?」

 「そう。つい数時間前だよ。コイツの野郎…」守谷が跪いている男を指差す。「警察に俺たちの情報を流していやがった!!」

 これを聞いた西野は心臓が縮まるような感覚を得た。その後、彼の心臓は緊張によって激しく動き始めた。

 「お前も知っているはずだ…」額に小さな傷を持つ男が跪いている男の布袋を剥ぎ取った。彼は三浦の一件から西野にも疑いの目を向けていたので、敢えて鎌をかけてみたのだ。

 守谷のいう通り西野はその男を知っていた。顔中血だらけになってもいても、殴られて顔中が腫れ上がっていても潜入捜査官はその男が誰かすぐに分かった。今、この部屋にいる誰もよりも彼はその男のことを知っている。しかし、西野は一言も発しなかった。

 “あれほど電話を使うなと言っただろうが!!”変わり果てた男の姿を見た西野は苛立ちを覚えた。彼は携帯電話が原因で三浦の正体が暴かれたと思った。

 「皆で考えたんだ…ここはお前がやるべきだと…」西野の前に鉄パイプが差し出され、彼は目の前で跪いている同じ潜入捜査官を見ながらそれを手に取った。

 「助けて…」輪の中央で跪いているSAT隊員がか細い声で言う。

 「裏切りに者のくせに命乞いをするのか?」西野を部屋まで案内した守谷が鼻で笑った。「小林…できるだけ早く頼むよ。」男は西野の肩を軽く叩くと一歩下がった。

 しかし、西野にはできなかった。

 「小林…お前、この裏切り者に同情しているのか?コイツはクズだ!コイツは俺たちの変革の邪魔をしようとしたんだぞ!」額に傷を持つ男が西野の背中に向かって叫んだ。「やるんだ!これはこの国のためだ!やらなきゃ、俺たちがやられるんだ!」

 三人を囲むように並んでいる男たちが「殺せ」と叫び始める。

 “許してくれ!”

 西野は歯を食いしばると、鉄パイプを振り上げてそれを跪いている男に向けて振り下ろした。衝撃の強さに殴られた三浦は頭から床に落ち、西野は苦痛に呻く仲間を見ることしかできない。

 「まだ生きてるぞ…」守谷が西野に向けて言う。「死ぬまでやれよ。」

 恐怖に震える西野は横目で守谷を見た。右手に持つ鉄パイプが重く感じられた。

 “コイツを殺せば…”

 「どうした?ここを、もう一回だ…」守谷が倒れている三浦の後頭部を指差す。

 「俺には…できな―」

 西野が口を開くと三浦の体がビクンと動いて顔を西野に向けた。

 「や…やれよ…」SAT隊員が消え入りそうな声で言った。

 “何を…何をバカなことを…”と西野は思った。

 「ってことだ。小林、早くやれ!」痺れを切らした守谷が怒鳴る。

 この時、吐き気が込み上げて潜入捜査官が咳き込み、鉄パイプを床に落とした。喉まで出かかっている異物に我慢できず、西野は急いでその場を後にしてトイレへ走った。

 「情けない。まぁ、殴ったってことは…『白』かもな…」

 そう呟きながら守谷は、ジーンズの後ろポケットに突っ込んでいた小さく畳んでいた黒いパラシュート・コードを取り出した。長さは1メートル30センチ程だった。

 額に切り傷を持つ守谷が三浦の髪を掴んで引き起こし、SAT隊員の顔を覗き込んだ。

 「どうなってる?」三須が守谷の横に並んだ。

 「コイツはかなり頑固だ。でも、俺たちの居場所を掴んでるっていうのは嘘だな。」

 「それで小林は?」

 「この野郎を殴ったら、気持ち悪くなってトイレに走ってたぜ。」

 三須は薄ら笑いを浮かべている守谷から視線を倒れている三浦に移す。

 「小林の様子を見に行く。お前はコイツを始末しろ。」

 「あいよ。」守谷がパラシュート・コードを伸ばし、それを三浦の首に巻き付ける。

 「それから…」部屋を出ようとしていた三須が振り返った。「決行日が変更になった。」

 「いつだ?」

 「明日の夜だ。」

 「わかった…」

 三須が去るのを見ると、守谷は三浦に笑みを向けた。「何か言い残すことは?」

 「必ず…必ず…お前たちをぶっ殺してやるッ!」血の混ざった唾を吐きながらSAT隊員が憎悪をこめて言った。

 「それは残念だ…」

 守谷は三浦の背中を右足で押しながら、SAT隊員の首に巻き付けられた縄を強く後ろへ引いた。頸部が圧迫されて呼吸ができなくなった三浦はもがいた。

 しかし、両手足を縛れているため、全く抵抗になっていなかった。次第に彼の体から力が抜け、視界に靄がかかってきた。三浦は自分の無力さに苛立ちを覚えた。無力であったから、恋人も失い、テロ攻撃も防げないと思っている。

 その時、彼の前に高橋恭子が現れた。彼女は何も言わずに優しく微笑んでいる。突然の幻にも三浦は驚かなかった。意識が薄れつつあったので、彼女の姿を見ると何故か三浦は穏やかな気持ちになれた。

 “恭子…”

 そして、完全な闇が訪れ、三浦大樹は息絶えた。















 <ご愛読ありがとうございました。ハヤオ・エンデバーの新作にご期待ください!>
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返報 13-4 [返報]

13-4



 ボート置き場に男の悲鳴が響き渡った。

 パオロは想像を絶する激痛に悲鳴を上げ、眼球を潰した男の手首を掴んで抵抗を試みた。しかし、三須は親指を奥深くパオロの眼窩に突っ込み、途中で悲鳴を煩わしく思ったのか、右拳をフィリピン人の喉に叩き込んで喉仏を潰した。喉を潰されたパオロはパンクしたタイヤのように空気の漏れ出る音しか出せなくなった。

 一方、目の前で2つの残虐行為を目撃したフィリピン人は顔を引きつらせ、自分も同じ目に遭うと思った彼は意識が遠退くのを感じた。守谷も武田も三須の行動には驚き、多少は動揺してしまった。
 
 「こんなもんか…」そう言うと、三須は血で汚れた手を瀕死に陥っているパオロの服で拭う。「あとは…」まだ手に付着する血に不快感を持つ三須が残りのフィリピン人を見た。

 外国人は体をビクンと動かして驚き、首を何度も横に振った。助けを求めたのだ。その時、彼の頭に強い衝撃が訪れた。背後にいた守谷が助けを求めたフィリピン人を殴り、殴られた外国人は地面に崩れ落ちた。

 「あとは頼むよ。終電に乗り遅れる…」そう言い残して三須はボート置き場から出て行く。

 「りょーかい!」仲間の方を見ずに守谷が先ほど殴りつけたフィリピン人の後頭部を再び強く殴って返事した。








 最初はゆっくりと静かに移動し、ある程度まで距離が開くと西野と三浦は全速力でボート置き場から離れた。

 単眼鏡越しに見た残虐行為に二人の潜入捜査官は恐怖で震え上がっていた。簡単な潜入捜査だと思っていた分、三須たちが見せた残忍さは想像を絶するものであった。

 “捕まれば殺される…”

 この考えが二人の思考を支配し、尾行の有無も確認せずに駅の手前まで走って移動してしまった。慌てて西野と三浦は周囲に目を配り、安全を確認すると安堵してその場にしゃがみ込んだ。

 “情けねぇ…”そう西野は思った。彼は捕まえるべきテロリストの残虐行為を目にして恐怖し、最後まで監視せずに逃げ出してしまった自分に嫌悪感を憶えた。“このままじゃ、奴らを止められない…”

 「ちょっと…」三浦が素早く立ち上がって西野の肩を引いた。

 何事かと西野が三浦の顔を見上げる。潜入中のSAT隊員は駅の方に顔を向けており、西野も同じ方向を見るとそこには駅に近づく三須の姿があった。西野は急いで立ち上がって三浦と同じように壁の窪みに身を寄せた。

 「見られたか?」西野が尋ねる。

 「いや、気付いた様子はなかったですよ…」

 距離はあったが、三浦は携帯電話を取り出して三須の姿をカメラに収めた。

 「ちょっといいか?」と西野。

 「はい?」

 「アンタが例の潜入捜査官なんだろ?」自分同様、顔に恐怖を浮かべる三浦を見て西野は思い切って尋ねた。

 三浦は少し考えた。“この人がおそらく『例の捜査官』だと思う。けど、身元を明かすべきか?”

 「もし、そうならどうします?」

 「協力を求める。」西野は三浦の双眸を見つめ、相手の真意を探ろうした。

 「違えば、逮捕ですか?」

 尋ねられた西野は頭を小さく縦に振った。

 “もし、本物の潜入捜査官なら、この人は真面目すぎる…”SAT隊員は答えに困って視線を再び駅へ向ける。

 「そうですよ…あなたと同じ潜入捜査官です。」

 三浦は正直に答えたが、これが正しいのかどうか分からなかった。

 「そうか…」西野の口角が少し上がった。

 “やっと仲間に会えた…”元制服警官はそう思っていた。

 「どうです?連絡先でも交換しませんか?」三浦は念のために西野の連絡先を交換し、本物の潜入捜査官であるか確認したかった。

 「いや、それはやめておこう。俺と君のためにも…俺たちの繋がりが見つかれば後々厄介だ。電話を使うのは命取りになるかもしれないだろ?」

 「そうですね…」潜入中のSAT隊員は心の中で西野の用心深さに感心すると同時に先手を打たれた様な不快感を抱いた。

 “この人が『潜入捜査官を演じているテロリスト』だったら、俺は終わりだ…”

 「じゃ、せめてお名前だけでも教えてもらえませんか?」

 「俺は西野―いや、小林健だ。」

 気を許したせいで西野は思わず本名を口にしてしまった。これは三浦にとって思わぬ収穫であり、すぐにでも連絡役の山中に確認しようと思った。

 「僕は高橋直人です。帰りは電車ですか?」

 「そ、そうだ。」本名を口にしたことを今になって西野は後悔していた。

 「じゃ、それぞれ少し時間を置いてから駅に行きますか…『小林さん』は三須って人に顔が知られてるから、僕から先に駅へ向かいます。それでは…」

 そう言って、三浦は西野の前から歩き去った。彼は小林と名乗った潜入捜査官の視界から外れると同時に携帯電話を取り出して連絡役に電話した。もし、西野がテロリストならこの場で捕まえようと思った。もっともな理由を付けて先に駅へ向かったのは、西野を待ち伏せして仕留めるためであり、彼を気遣った訳ではなかった。

 「どうした?」山中が電話に出た。

 「『例の潜入捜査官』らしき人物と遭遇しました。その人物の名前を教えてもらえませんか?」三浦は焦っていたので早口で言った。

 「会ったのか?アイツに?」明らかに連絡役は驚いていた。

 「そうです。その人の偽名は小林健ですか?」

 しばらく沈黙が続き、ようやく「そうだ」と山中が答えた。

 「その人は眼鏡をかけた華奢な体型の人ですか?」名前だけの確認で納得できなかった三浦は確証を得るために再び連絡役に尋ねた。

 「そうだ。」

 「本名は西野ですか?」

 「そこまで聞いたのか?」連絡役は驚きを隠せなかった。

 「向こうがうっかり漏らしたんです。西野という男なんですか?」

 「ったく…そうだよ。」

 これを聞いてようやく三浦は安堵した。

 「ありがとうございます。詳細は明日報告します。」

 「って、おい!」

 山中にはまだ聞きたいことがあったが、三浦は一方的に通話を終了させて電車に乗り込んだ。








 6人一部屋の病室に簡易酸素マスクを付けてベッドに横たわる菊地家の娘がいた。

 彼女は事件発生時、化学物質が散布された車両から4つ離れた車両内におり、誰かが「毒ガスだぁー!!」と叫ぶのを聞いて周りの人々に押されるようにして停車駅で降りた。出口に向かう際に菊池詩織は倒れて嘔吐する人や呼吸困難に陥って四つん這いになる人、全身を痙攣させて苦しむ人を目撃した。あまりの恐怖に彼女は逃げる人々の背中を必死に追った。

 外に出るとタクシーを拾って、通っている短期大学へ急いだ。駅からほんの数分先にある学校だったが、胸が苦しかったので彼女はタクシーを使う事にした。目的地に着くと、菊池詩織は精算を済ませてタクシーを降りた。その時、ちょうど自転車で登校してきた友人の山沢典子に出会って一緒に校舎へ入ろうすると、詩織は意識を失って崩れ落ちた。

 「詩織…」母の清子が意識不明の娘の手を取って呼びかける。「どうして、こんなことに…」
 
 娘の姿を見て菊池信弘は胸が苦しくなった。それは息子の優介も同じであった。

 ふと優介の視界に若い女性看護師の姿が入り、彼は小走りでその看護師に近づく。

 「すみません。担当の先生とお話しがしたいんですが…」

 すると、看護師は困った顔を浮かべた。「すみませんが、今は無理です。後ほど、状況が落ち着いたら先生に聞いてみます。」

 「わ、わかりました…」

 菊地一家は娘の状態がよく分からなかった。娘の友人も詳しくは知らず、途中でアルバイトがあると言って帰って行った。彼らにできることはただ待つことであった。

 テーブルに乗せていた携帯電話が震えた。妻とテレビを見ていた菊地はこの音で何度も思い出す『あの光景』から目覚めた。

 「もしもし?」菊池信弘が電話に応える。

 「三須です。会ってお話ししたいことがあります。都合の良い日はありますか?」

 「明後日の15時はどうだろう?」

 「分かりました。」








 西野と三浦は殺された3人のフィリピン人に関する報道を探したが、全く見つからなかった。二人の連絡役も調査を始め、現場に出向いて捜査するも証拠の発見には至らなかった。ゆえに三浦の連絡役である山中は精密な調査を行うため、公安部に補充要員と機器を要請した。

 その頃、西野は三須に呼び出された。突然のことに潜入捜査官は驚くと同時に命の危機を感じた。彼はあの夜に起こったことを今でも鮮明に憶えており、失敗すれば自分もあのように殺されるかもしれないと思っている。

 学内のカフェテリアで三須は笑みを浮かべて西野を待っていた。その笑みはボート置き場でパオロの眼球を潰す直前に見せた表情に似ており、潜入捜査官は恐怖に顔を強張らせた。

 “駅で見られてたのか?”

 西野は周囲に視線を配り、自分を監視する人物の有無を確認した。しかし、人数が多すぎて判別できない。この状況は西野にとって良いとも悪いとも言えない状況であった。

 良い点があるとすれば、三須がここで西野を襲う可能性が低いということ。もし、別の場所で西野を始末しようとすれば、移動中に反撃の機会ができる。悪い点は、この場に三須の協力者がいても、彼または彼女たちの正体が分からないこと。相手に正体が知られているのに、自分が何も知らないのは非常に不利な状況である。

 「気分が悪いのかい?」三須が強張った西野の表情を見て尋ねた。

 「いや、大丈夫ですよ…」椅子に腰掛けて潜入捜査官が言う。「今日はどうしたんですか?」

 問い掛けられた三須は一度視線をテーブルに落とし、数秒間の沈黙の後に再び西野の目を見た。この沈黙は西野にとって居心地が悪く、目の前に座る男が昨夜のことを話すのではないかと思って怯えていた。

 「色々と考えたんだ…」大学院生が口を開いた。「昨日からずっとね…」

 “やるしかないか…”次第に高鳴る心臓が西野の冷静さを奪いつつあった。

 「小林くんは菊池信弘先生の講義を受けてるかい?」笑顔を浮かべたまま三須が尋ねた。

 簡単な問い掛けであったが、西野は固まってしまった。想像していた内容と異なっていたからである。

 「いえ…確か、後期の…講義だった…気がします。」あまりの緊張に言葉を詰まらせながら潜入捜査官が言った。

 「そうか…じゃ、先生の本を読んだことは?」

 西野は首を横に振って「ないです」と答えた。

 「そっか…菊池先生は『岐路に立つ』という本を最近書かれてね。その本の中で先生は日本の現状について警鐘を鳴らし、このままでは国の在り方が変わると警告してるんだ。」三須は西野の様子を見ながら話しを進めた。「実は菊池先生がある運動を起こそうとしているんだ。この国に住む全ての人々の目を覚まさせる様な大きなことを…」

 “コイツは俺を『仲間』にしようとしてる?”西野は大学院生の話しを聞きながら思った。

 「本当に大規模な物になる予定でね。できれば、君にも参加して欲しんだ。もちろん、無理強いはしないよ。」

 こう言いながらも、三須は絶対に西野が仲間になるという自信を思っていた。ゆえに彼は二人のテーブルから離れたカウンター席に守谷と小熊を置き、西野を観察させている。

 「それは…なんというか…ヤバい運動なんですか?」と西野。

 「捉え方によると思う。でも、小林くん…君にとって、これは『ヤバい運動』ではないと思うよ。他の人たちはそう思うかもしれない。しかし、歴史が証明するように、偉大な変革の始まりは常に『異常なこと』だと思われるが、後にそれが世界を大きく変えるんだ。異端と思われるのは、人々が『今の尺度』で見てるからさ。後世の世代は、僕らの運動を称賛する。絶対に…」

 「何で俺なんですか?」西野は率直に尋ねた。

 潜入しなければならないことは分かっているが、西野は三須が自分を選んだ理由を純粋に知りたかった。

 小さく左に首を傾げて三須はこう言った。「君は僕に似てるんだ…それが理由かな…」

 “似てる…?”西野は驚くと同時に恐怖した。

 「どうする?君の意思だけでも聞きたい。」

 テーブルを見つめて西野は考えた。“似てるはずがない…そんなわけないッ!!”

 「小林くん?」と三須。

 西野が視線を大学院生に戻す。

 「返事を聞かせてくれないか?」

 「参加したいです。」








 「それで?」

 西野が去った後で守谷と小熊が三須の前に腰掛けて守谷が訊いた。

 「参加すると言ってくれたよ。彼は僕たちと同じ志を持っているからね…」三須は先ほどまで浮かべていた笑みを消して言った。「君らの方はどうなんだ?」

 「私の方は2人リクルートできた。」小熊が口を開きかけていた守谷を遮って言う。彼女は長い黒髪を束ねて左肩から垂らしており、薄化粧であまり目立たないようにしている。

 「また色目を使ったのか?」話しを遮られた守谷が茶化した。彼はあまり小熊が好きではない。

 彼女は鋭い視線を隣に座る男に向け、挑発を受けた守谷が睨み返す。それを見た三須は咳払いをして注意を集めようとするも、二人は聞く耳を持っていなかった。

 “ピリピリしてるな…”

 「仲間内で争う暇はない。それ以上するなら、“屠殺場”でやってくれ…」静かに三須が睨み合う二人の仲間に言った。

 守谷が視線だけ三須に向け「“屠殺場”か…」と呟いた。

 「そこまでする気はないわ。」小熊が向かい側に座る三須の方を向く。

 「なら、もうやめるんだ。それで守谷の方はどうなんだ?」大学院生が尋ねた。

 尋ねられた男は胸ポケットからスマートフォンを取り出し、何度か画面に触れるとそれをテーブルの上に置いた。三須と小熊がそれに目を向け、画面に映る男の写真を確認した。

 「彼は?」と小熊。

 「剛田が連れてきた男だ。名前は『高橋 直人』。」守谷が情報を付け足した。「見込みがあると思い、武田に尾行させてる。」

 「引き入れる予定なのか?」三須が訊いた。

 「あぁ…その予定だ。」テーブルに置いた携帯電話に守谷が手を伸ばす。「まぁ、それはコイツ次第だが…」そう言って、彼は画面に表示されていた三浦の写真を削除して胸ポケットに携帯電話を戻した。








 尾行の存在には気付いていたが、三浦はそれを振り切ろうとはしなかった。その理由は、尾行者が三須や守谷と行動を共にしている武田衛であったからである。加えて、もし武田を振り切ろうとすれば怪しまれると三浦は思った。

 “昨日の件か?それとも別件?”

 潜入中のSAT隊員が自宅アパートの敷地内に入ろうとした時、塀の内側から誰かが飛び出してきた。三浦は素早く対応しようとしたが、相手の正体を知って驚愕した。

 「だぁーいちゃん」高橋恭子が三浦に抱きついた。

 突然のことにSAT隊員は言葉を失い、これが夢であることを祈った。

 「驚いた?」恋人の顔を見上げながら高橋恭子が言う。

 「どうやって?」やっと三浦が言葉を発した。「何でここに?」

 「iCouldを使って来たの。研修先が京都なんて羨ましいなぁ~」

 “私用の携帯をアパートに置いてたから、それを追ってここに?”SAT隊員は自身の安全管理の乏しさと恋人の軽率な行動に苛立ちを覚えた。

 その時、三浦は自分を尾行していた武田の存在を思い出して周囲を見渡した。人影はない。彼は急いで交際相手を塀の内側へ連れて行き、再び周辺に武田または自分を監視する人物がいないか探した。

 「大ちゃん、どうしたの?」と高橋。

 「ホテルとか、新幹線の予約は?」

 「してないよ。大ちゃんの所に泊まる予定だったし…」

 “クソッ!クソッ!!”

 「ねぇ、大丈夫?何かあったの?」

 “大アリだ。クソッ!尾行を巻くべきだった。見られたかもしれない。いや、もしかしたら俺が家に入るのを見て帰―”

 「もしかして大ちゃん、怒ってる?勝手に来たから…」三浦の表情を見て高橋恭子は心配になってきた。

 「いや、ちょっと忙しくてね…」

 “冷静になれ…”

 「こっちに来て。」SAT隊員が交際相手の手を引いて自分の部屋へ向かう。

 部屋に入るなり、三浦は土足で家に上がって隠していた私用の携帯電話を取り出した。

 「何か変だよ、大ちゃん…」恋人の異変にたじろぎながら高橋が言う。

 “恭子だけでも逃がそう…”

 「大丈夫。大丈夫だから…」交際相手を抱き寄せて三浦がやさしく言った。「これから駅に行く。東京に帰ろう。」

 「大ちゃん、怒ってる?」三浦の両腕の中で彼女は安心感を得ていたが、心配になって尋ねた。

 「怒ってないよ。ただ、恭子のことが心配なんだ…」








 胸ポケットの携帯電話が震え、守谷が画面を確認する。三浦を尾行していた武田からメールが届いていた。メールには向かい合う三浦大樹と高橋恭子の写真が添付されており、写真の下に文章が添えられていた。

 「この女は高橋の交際相手だと思われます。しかし、女は彼を『大ちゃん』と呼んでました。女も監視しますか?

 “これは、これは…”

 守谷は思わぬ収穫に喜んだ。そして、次のように返信した。

 「その二人から目を離すな。

 「いいかな?」三須がスマートフォンに目を奪われている守谷に問い掛けた。

 「あぁ…」

 「じゃ、自己紹介を頼むよ。」三須が隣に座る西野に促した。

 潜入捜査官の前には守谷と小熊が座っている。西野が三須たちの考えている計画に参加する事を決めたので、大学院生は西野を信頼する仲間に紹介する事に決めたのだ。

 「小林健です。よろしくお願いします。」西野が一礼して言った。

 「小熊です。よろしく。」

 「守谷だ。」

 「一応…」それぞれの名前を言い終えた所で三須が話し始めた。「彼らと僕がメインで運動を指揮してる。それだけは知ってもらいたかった。」

 「それで俺は何をすれば?」

 「時が来たら教えてるさ…」と守谷。「時が来ればな…」








 深夜の菊池家で悲鳴が木霊し、老夫婦は飛び上がって娘の寝室へ急いだ。

 あの事件から2年の月日が経過した。菊池詩織は化学物質の影響をあまり受けておらず、意識を失ったのは微量の物質を吸引したことによる眩暈が原因だと診断された。病院には5ヶ月ほど入院し、その後、彼女は退院できるまでに回復した。

 しかし、後遺症はまだ残っていた。目のかすみ、体のだるさ、微熱、そして、心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状が見られ、菊池詩織は夜になると事件発生に見た光景を思い出してパニックに陥ることがあった。ゆえに老夫婦は娘を京都へ連れて帰り、彼女がパニックに陥って悲鳴を上げる度に菊池夫妻は娘を抱き寄せて宥めた。

 「大丈夫。大丈夫だから…」

 しかし、菊池詩織の状況は一向に回復せず、次第に菊池夫妻の精神も蝕み始めた。これに加えて菊池家の経済状況も圧迫されつつあった。事件後の補償はスズメの涙程度であり、ほとんどの医療費は自己負担だった。先の見えない状況に菊池信弘と妻の清子は精神的に参って体重を落として行き、睡眠も満足に取れていなかった。
 
 ある日、寝不足に悩まされていた清子は少し休もうとソファーで横になった。先程までパニックに陥っていた娘を寝かせたばかりだったので、彼女は疲れ切っていた。もう10分もすれば、夫の信弘が帰って来るのでそれまでの間だけでも眠ろうとしたのだ。

 「帰ったよ。」

 玄関から聞こえてきた夫の声を聞いて清子が起き上がって信弘を出迎えた。

 「お帰りなさい。」

 「詩織の様子を?」

 「さっき眠ったところよ。」

 「そうか…」信弘が清子の肩に手を乗せる。「少しは休んだかい?」

 「えぇ…」

 「晩御飯は出前にしよう。君は少し横になった方が良い。詩織に何かあれば、私がなんとかするよ。」

 「ありがと。」

 菊池信弘は娘の様子を見に2階の寝室へ向かい、妻の清子はリビングのソファーへ戻った。階段を上がり切ると、信弘は娘の寝室のドアが開いていることに気付いた。

 “変だな…”

 不思議に思いながら寝室の中を見ると、彼の心拍数が急激に上がった。部屋に愛娘がいないのだ。








 尾行を巻くために三浦は4回タクシーを乗り換えた。乗り換える前は何度も人が大勢集まる場所に入り、別の出口を使って出ると違うタクシーを拾う。これを繰り返し、怪しい人物の有無を確認した。また、移動の最中に潜入捜査中に使っていた携帯電話を歩行中の男性のポケットに滑り込ませた。電話のGPSで追われることを警戒しての事であり、時間稼ぎにはなるだろう、と三浦は思った。

 何度も背後を気にする恋人の様子を心配そうに見守る高橋恭子は何も言わずに三浦の左手を握る。質問したい事だらけであったが、彼女は敢えて口を開かなかった。

 「疲れてない?」少し歩くペースを落として三浦が高橋に尋ねる。

 「少し…」

 「もうすぐだから我慢して。」

 尾行を巻いたと確信を得た三浦は京都駅へ急ぎ、できるだけ早く恋人を安全な場所に逃がそうとした。

 “ここまで来れば、もう―”

 高橋恭子の手を引きながら駅構内に入った瞬間、三浦は周囲に目を配る剛田の姿を見つけた。

 “アイツら…”

 SAT隊員は素早く踵返して駅を後にする。

 「どうしたの?」と高橋。

 「ちょっと予定を変えよう。」

 そう言うと、三浦は私用のスマートフォンを取り出して連絡役の山中に電話した。

 「どうした?」山中はすぐ電話に出た。

 「今すぐ会えませんか?」客待ちをしていたタクシーに交際相手と共に乗り込んで三浦が言った。

 「何かあったのか?」

 「いつもの場所で会えますか?」連絡役の質問を無視して潜入中のSAT隊員が尋ねた。

 「可能だが…」

 「すぐに来てください!」

 三浦は一方的に電話を切って、タクシーの運転手に駅から少し離れたレストランへ行くように言う。

 「大ちゃん…」高橋恭子が三浦の手を握る。「ゴメンね…」

 「何で?どうしたの?」

 「私のせい?私が来たから…」

 「恭子は悪くないよ。悪いのは俺の方さ。だから、心配しないで…」三浦が恋人の手をやさしく握り返す。

 今度は3回タクシーを乗り換えて尾行の確認をし、連絡場所として使っている運送会社から40メートル離れた場所でタクシーから降りた。

 「どこに行くの?」高橋恭子が尋ねた。

 「上司の所だよ。安全に逃げるには助けが必要かもしれない…」

 「逃げる?どういうこと?」

 「後で説明するから…」

 “西野って人もいる。俺はもう降りるしかない…”

 運送会社まであと10メートルに迫り、三浦は山中が車で来ていることを祈った。そして、5メートルと迫った時、三浦は運送会社の門に立つ男の姿を見た。

 “嘘だろ…”

 門の前に立つ男は守谷であった。三浦はその場で立ち止まり、それに釣られて高橋恭子も立ち止まる。

 「走るよ…」

 そう言って、SAT隊員が来た道へ戻ろうと高橋の手を引く。そして、後ろを振り向いた時、三浦は12メートルほど離れた場所で仁王立ちして二人を待ち受ける武田衛を見つけた。

 徒ならぬ状況に高橋恭子は怯えて交際相手の左腕にしがみ付き、三浦の顔を見上げる。彼は額に大量の汗を浮かべ、歯を食いしばっていた。

 「大ちゃん…?」

 恋人からの問い掛けは三浦の耳に届いていなかった。彼はこの場から逃げ出すことしか考えていない。高鳴る鼓動を感じながら三浦は守谷と武田との距離をもう一度確認する。襲撃者たちはゆっくりと三浦たちに迫っていた。運の悪い事に彼らのいる道は一本道で両端は高い塀がある。飛び越えられないこともないが、高橋がヒール靴を履いているので素早く移動するのは難しく、着地の際に足首を捻れば捕まる可能性が高まる。

 SAT隊員は左腕にしがみ付く交際相手を見た。この時、彼女と目が合って胸が締め付けられそうになった。

 「ごめん。」三浦が言った。そして、彼は右手を彼女の頬に添えた。「恭子に会えて本当に良かった…」

 「どうしたの?」高橋自身も分からなかったが、胸が苦しくなり、涙が込み上げて来た。

 「ちゃんと声にして言ったことなかったけど…愛してるよ。」

 「今日の大ちゃん…変だよ…」

 「そうかな?でも、言いたかったんだ…」

 守谷と武田が7メートルに迫る。

 「ちょっと走るよ。走り出したら、僕から少し離れるんだ。」落ち着いた口調で三浦が恋人に言った。「もし…僕に何か起きても走り続けるんだ。いいね?」

 「どういうこと?あの人たちは誰?」

 「ちょっとした知り合いだよ。いいかい?走るよ…」

 戸惑いながらも高橋恭子が頷いた。それを見て三浦は彼女に微笑みかけ、再び襲撃者たちとの距離を確認する。残り約5メートル。

 (どんな陣形にも弱点はある。そこを見極め、全力で突け。)

 SAT隊員の頭に中島の声が甦ってきた。

 “ここで終わりみたいっす、先輩…”

 三浦は恋人の手を引いて走り出した。彼らの向かう方向には武田衛がいる。潜入中のSATは守谷よりも武田の方が弱いと見た。本能的に彼は守谷の威圧感と自信に脅威を感じ、それに劣る武田衛が『陣形の弱点』と判断したのだ。

 標的が動き出すと守谷が後を追って走り、武田は身構えて三浦を迎え撃とうとした。

 恋人の手を引いて走る三浦と武田の距離が2メートルに迫り、武田衛はSAT隊員の動きを止めようと前押し蹴りの構えを取る。それを見て三浦は瞬時に高橋から手を離し、武田が蹴りを出す直前に敵の右斜め前へ踏み出す。そして、武田の右押し蹴りが放たれると同時に三浦は右ストレートを襲撃者の右頬に叩き込み、続いて左のローキックを武田の左膝裏に入れた。

 三浦が攻撃する間、高橋恭子は走り続けた。そう恋人が言ったからだ。

 攻撃を受けてバランスを崩した武田衛は体勢を立て直そうとするも、その前に三浦に背中を押されて近づいてくる守谷と衝突しそうになった。守谷は仲間を支えようとはせず、逆に左へ退かせて逃げるSAT隊員とその交際相手の後を追う。

 逃げる二人であったが、高橋のヒール靴がその邪魔をした。長時間の徒歩も加わり、彼女は疲れていた。彼らと守谷の距離は縮まり、交差点に達する前に捕まりそうであった。

 “やっぱりダメか…”

 三浦は立ち止まって守谷に向き合った。襲撃者は走ってきた勢いを使ってSAT隊員に殴り掛かってきた。

 「大ちゃん!」それに気づいた高橋恭子が立ち止まって叫んだ。

 SAT隊員は守谷がリズミカルに繰り出してきた左右の拳を後退しながら弾き飛ばし、左拳を相手の顔面目がけて突き出した。しかし、守谷は頭を横に傾けて回避し、左フックを三浦の腹部に入れる。手応えを感じた男はSAT隊員を追い込もうと素早く次の攻撃に出た。まずは右アッパーで三浦の顎を捕えようと放つ。だが、危険を察知してSAT隊員が後退したので、軽く顎に触れるだけで済んだ。次に守谷は左ストレートを出し、すぐにでも右拳を繰り出す準備を取る。

 一方、突き飛ばされて転んだ武田衛は三浦と守谷の戦いに目を奪われた。しかし、彼は同じくその戦いを見守る高橋恭子の存在を見つけて本来の目的を思い出した。武田は素早く立ち上がると高橋の所へ走った。

 守谷の左ストレートが来ると同時に三浦は相手の左斜め横へ移動し、守谷が付き出した左腕の下を通して右掌底を敵の下顎に叩き込んだ。そして、SAT隊員は左肘を相手の側頭部へ向けて振り下ろした。この時の唯一の誤算は守谷が体の向きを変え、繰り出した左肘が相手の額をかすめたことであった。狙い通り命中していれば、逃げる時間が稼げたかもしれなかった。肘が守谷の額をかすめたことによって、彼の額に小さな切り傷ができた。これが引き金となって守谷の攻撃の勢いが増した。

 右フックが三浦の左側頭部に向かって繰り出され、彼が急いで防御するもその際に使用した左腕に強い痺れが訪れた。守谷が次の攻撃を繰り出そうとした時、武田衛が二人の横を走り抜け、三浦は恋人が上手く逃げ切れたのか気になって敵から目を逸らしてしまった。

 “バカめ…”

 守谷は絶好のチャンスを逃さず、左肘を三浦の側頭部に勢い良く叩き込んだ。この攻撃を受ける直前、SAT隊員は数メートル離れた場所で震えながらこちらを見つめる高橋恭子を見た。

 「逃げ―」

 守谷の肘が三浦の言葉を遮り、その衝撃の強さにSAT隊員は膝から地面に崩れ落ちた。急いで立ち上がろうとするも、守谷が右ローキックを三浦の顔面に叩き込む。その激痛と衝撃から三浦は背中から倒れ、この際に高橋恭子の悲鳴を聞いた。

 “きょ、恭子…”

 立ち上がれと体に命令を出すも、SAT隊員の体は思うように動かない。

 「残念でした…」そう言って、守谷は三浦の頭を蹴り飛ばした。

 意識が薄れる中、三浦は必死に霞む視界を鮮明にしようと努力した。高橋恭子が助けを求めて恋人の名を呼んでいても、視界の靄は広がり、体に力は入らない。

 “助けに…行くから…”

 しかし、三浦の努力は虚しく闇が彼の視界を包み込んだ。

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