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S.N.A.F.U. (8) Prelude? [S.N.A.F.U.]

 一台の黒いSUVがトンネル内を走行している。

 助手席に座る井上は後部座席に手を伸ばして黒いダッフルバッグを手に取った。そして、ジッパーを横に引いて鞄を開き、中に入っていた銃床の無いモスバーグM500を取り出した。

 運転席にいるJCTC第2課3班こと『田丸班』の武内卓は井上の装備を横目で確認したが、何も言わずに視線を前方へ戻した。

 井上の後ろの席で座っている浦木は収納された状態の特殊警棒を左右の手に持ち、その手は太腿の上に置かれていた。彼の着ている白いワイシャツは煤や埃で汚れ、所々に裂け目があった。

 散弾銃を持つ井上の襟付き紺色シャツは血で汚れており、腹部に大きな血の跡があった。彼は銃床のない散弾銃を180度回して装填口を上に向けると、ダッフルバッグから2つのゴム弾を取り出して滑らせるように装填した。流れるように井上は鞄からゴム弾を取り出して同じ動作を繰り返し、5発入れるとポンプを元の位置へ戻して銃を脚の間に置いた。

 前の座席で散弾銃の装填が行われていた時、浦木は静かに持っていた特殊警棒の先端を指で摘んで伸ばし、柄の底部にあるボタンを押して収納する動作確認を何度も繰り返し行なった。

 車内にいる3人が言葉を交わすことはなかった。重々しい空気が流れていたが、彼らはそれを不快に思うこともなく、車が目的地に到着するのを待っていた。

 彼らを乗せたSUVはトンネルを向け、目的地まで残り5キロと迫った。


























(ハヤオがクズなので、まだ完成してないです。

 それでも半分以上?はできてるので、今週末から少しずつ公開しようかと考えてます。はい。

 この話しで終わるか、終わらないか話してます。まぁ、私が最終回みたいな構成にするよう促しているのでね、、、

 しばらくこの神聖なブログが汚されると思いますので、アクセスは控えて下さい。

 それじゃ!)
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S.N.A.F.U. (6) 後編 [S.N.A.F.U.]

 壁に沿うようにして一列に並んで進む人々は前を歩く人の背中に手を置き、先頭にいる短機関銃を持つ男が左拳を上げると止まって息を潜めた。

 廊下には血溜まりの中で倒れる看護師や入院服姿の人、診察に来ていた人々の死体があり、中には重傷を負った人が彼らに助けを求めることもあった。その場合は急いで止血して、すぐに戻ってくることを伝えて先を急いだ。

 曲がり角に差し掛かると、先頭の井上が左拳を上げて後ろにいる人々に止まるよう合図を出し、短機関銃を構えた状態で上半身を少し右に傾けて曲がり角から身を乗り出した。これから進もうとしている道にはうつ伏せに倒れている入院服を着た女性と男性看護師がおり、死体の手前に非常階段の入り口があった。その廊下の先には超音波検査室があるだけで、人の気配は感じられなかった。

 安全を確認すると井上は角を曲がり、素早く反対側の壁へ移動すると下向きの半円を描くように銃口を移動させて後方と左右の確認を行う。そして、彼は左手で手招きして後続の人々に角を曲がるように合図を送った。その間、捜査官は前後左右に注意を払い、全員が角を曲がり終えるのを確認すると再び下向きの半円を描くように銃口を移動させて非常階段を目指した。

 井上の真後ろには岩田がおり、彼女は捜査官の着ている襟付きの半袖シャツの裾を掴もうとしたが、井上はいざという時の移動の際にケガをする恐れがあるから背中に手を置くように言った。この背中に手を置く行為は、離れずに行動するためである。

 一行は非常階段の入り口に近づいた。井上は入り口の手前で止まり、再び左拳を上げて止まれの合図を出すと上半身を少し左へ傾け、非常階段の踊り場と下に続く階段へ素早く銃口を向けた。そこに人影はなかったが、捜査官は1階へ続く階段に銃口を向けたまま踊り場へ進み、次に上階に続く階段へ銃を向けた。踊り場の安全を確保し、井上は人々を踊り場に集めた。

 「もう少しの辛抱だから頑張って下さい」井上は踊り場に集まった人々に笑顔を向けた。それでも人々の顔は緊張と恐怖で固まっており、捜査官の言葉を聞いてもまだ安心できていなかった。

 〝班長、早くSATを投入して下さいよぉ〜〟

 そう思いながら、井上は廊下の様子を再度確認し、さらに階段の安全を確保してから1階と2階の間にある踊り場まで移動した。その際に井上は手摺りの近くに立ち、全員の移動が終わるまでそこで階段の安全確認を行なった。

 病院の裏口が近いこともあっても人々の気持ちは昂り、この緊張状態が逃げ出したいスーツ姿の中年男性が突然階段を駆け下りた。彼に続いて3人の男女が裏口を目指して走り出した。

 「ま、待て!」井上が左手を伸ばして止めようとしたが、走り出した4人は1階の廊下に飛び出して右へ移動した。「クソッ!」

 身勝手な行動を取った4人の身を案じた捜査官は急いで階段を下り、階段の入り口に到達すると素早く廊下に銃口を向けて脅威の有無を確認した。異常なし。

 再び右へ視線を向けると、走って裏口に向かう4人の姿を確認した。病院の裏口まで約20メートルほどあるように見えた。井上は1階と2階の間にある踊り場で待機していた人々に近くに来るよう手招きし、走って逃げる4人の後ろ姿を見守った。

 〝クソッ!SATの突入とアイツらが鉢合わせしないようにしないと…〟井上はスマートフォンを取り出して半田へ電話をかけた。

 「井上か?」彼の上司はすぐに応えた。

 「SATの突入はいつですか?」

 「まだ警視庁の判断を待っている。」

 半田の言葉に井上は戸惑った。

 「短機関銃を持った奴らがまだ病院内で暴れてるんですよ?何を迷う必要があるんですか?」

 「俺からも突入するよう掛け合っているが、警視庁は決断を渋っているんだ。お前は大丈夫なのか?」部下の身を案じている半田が尋ねた。

 「オレは大丈夫で−」

 断続的な轟音が廊下に鳴り響き、裏口に向かって走っていたスーツ姿の中年男性が一瞬、宙に浮いて床に落ちた。彼の後ろを追っていた高齢の男性は驚いて動きが止め、その間に左腕と首に複数の銃弾を受けた。高齢の男性は見えない何かに押されたように、右へ弾き飛ばされて床に叩きつけられた。

これを目撃した後続の2人の内、若い男性は走る速度を上げて裏口を目指し、もう一人の中年女性は悲鳴を上げて引き返し始めた。

銃声を耳にすると、井上と共に行動していた人々が悲鳴を上げ、怯えた3人が上の階へ逃げようと走り出した。その後に続々と人が続き、残ったのは岩田と彼女の同僚、足の不自由な高齢男性、10代の若いカップル、そして、7歳くらいの少女であった。

 井上は引き返して逃げてくる女性を救おうとした時、裏口に近い十字路の左側から黒い服の二人組が姿を現れた。

 「伏せろッ!」

 井上が女性に向かって叫んだが、逃げることに必死な彼女の耳に捜査官の声は届いておらず、女性は背中に複数の銃弾を浴び、頭から床に落ちて息絶えた。

 一方、裏口に向かっていた若い男性は自動ドアを抜けて外に出ることに成功していた。日光を浴びた男性が外の空気を吸うと、頭部と背中に銃弾を浴びて地面に崩れ落ちた。この光景は近くの建物から中継を行なっていた複数のテレビ局のカメラに捉えられていた。

 〝クソッタレ!〟

 井上は二人組の男に向けて銃撃を加えながら岩田の近くへ移動した。

 「上に逃げるんだッ!」捜査官は襷掛けしていたメッセンジャーバッグから短機関銃の予備弾倉を1つ取って言った。「それと−」

 まだ半田との通話が繋がっているスマートフォンを岩田に渡そうとした時、井上たちの足元に深緑色の手榴弾が転がってきた。捜査官は咄嗟にそれを蹴り飛ばし、手榴弾は壁にぶつかって、持ち主の近くへ向かって飛んだ。素早く井上は岩田に覆い被さって爆発に備えた。廊下から悲鳴のような声が聞こえたかと思うと、破裂音と爆風が井上の背中を襲った。

 「電話の人に状況を説明して欲しいんだ!」スマートフォンを看護師の岩田に渡して井上が叫んだ。「できるだけ奴らの気を引くから、安全な場所に隠れて!」捜査官は素早く短機関銃の弾倉を交換した。

 「井上さんは?」反対側の壁へ移動しようとした井上の腕を掴んで岩田が尋ねた。

 「ちょっとだけ時間稼ぎをするよ。すぐに合流するから!」捜査官は笑みを浮かべ、左腕を掴む彼女の手を優しく解いた。

 「一緒に逃げようよ!」岩田は再び井上の腕を掴んだ。

 「すぐに後を追うから。大丈夫だよ。」

 廊下から再び断続的な銃声が聞こえ、銃弾が非常階段付近の壁にめり込んだ。

 「すぐに追いつくからッ!」焦りを覚えた捜査官は女性看護師から素早く離れ、反対側の壁を移動すると壁から少し身を乗り出して短機関銃を発砲する2人の男に向けて銃撃を加えた。「早く行くんだッ!」まだ階段で立ち止まっている岩田とその後ろにいる人々に向けて叫んだ。

 今までに見たことのない井上の表情を見た岩田は下唇を噛んだ末、背後に控えていた人々と共に来た道を引き返し始めた。

 視界の隅でそれを確認した井上は再び壁から少し身を乗り出し、襲撃者たちに銃撃を加えた。彼は3、4発の銃弾を発射させるように人差し指で引き金を操作し、相手の前進を遅らせようとした。事実、二人の男は壁の凹みに身を隠して飛んでくる銃弾から逃げた。

 岩田たちが1階と2階の踊り場に辿り着いた時、捜査官は左腕に鈍い痛みを感じて腕を確認した。着ていた襟付き半袖シャツの左袖が引き裂かれ、一筋の太い赤い線が左上腕にあった。そこからは血液が溢れ、傷を認識すると井上は苦悶の表情を浮かべて片膝をついた。すると、何かが頭上の空気を切り裂き、先ほどまで彼がいた場所に複数の小さな穴が開いた。

 井上は先ほどまで銃弾を加えていた場所と反対側の通路に視線を向けた。そこで彼は短機関銃を構える新たな二人組の男がいた。

〝まだいるのね…〟捜査官は急いで奥へ隠れ、左脇に短機関銃を挟むと右手を鞄に伸ばした。

 「井上さんッ!」岩田が弾倉を交換しようとした井上に近づいてきた。

 「何してるの?早く逃げろって!」

 「でも…」女性看護師は捜査官の腕の傷を確認した。

 〝クソッ!〟装填する時間が惜しいと思った井上は、非常時のために入れていたもう一つの短機関銃を鞄から取り出した。

 「一緒に逃げよう。」そう言って捜査官は立ち上がって階段を目指した。


 

***






 新川は左側の通りから現れた濃紺色のTシャツ姿の男が浦木の背中に押し蹴りを浴びせ、振り返った男性捜査官に素早く左右の拳を叩き込むのを見た。反応が遅れたものの、彼女は右手に持っていた拳銃を男に向けた。

 その時、右側から物音が聞こえた。女性捜査官が顔を向けると乗用車のボンネットの上をスライドして近づいてくる黒い服の男を確認した。焦った新川は銃を向けようとしたが、その前に黒い服の男の蹴りが彼女の腹部を捉えた。あまりの衝撃に女性捜査官は後ろへ飛ばされ、後方にあった軽自動車に背中を打ちつけた。

 一方、浦木に奇襲をかけた男は素早く左手を伸ばして男性捜査官の持っていた拳銃の銃身を掴み、右拳を浦木の右手首に打ち込んで拳銃をもぎ取った。間を開けずに男は右裏拳を浦木の右側頭部に向けて放った。

 銃を奪われた浦木であったが、彼は相手の動きを確認すると左手で男の右腕を止めた。そして、右手を左手とクロスさせるように突き出し、右腕で相手の右腕を遠くへ押しやりながら左斜め前へ移動した。男性捜査官は相手の右横へ移動すると、素早く左掌底を男の右側頭部に浴びせた。

 反撃を受けたことに怒った男は右拳を水平に振り、それで浦木の頭部を殴ろうとした。だが、その大振りな動きを男性捜査官は身を屈めて回避し、姿勢を低くした勢いを利用して右拳を斜めに振り下ろして相手の右膝の内側に叩き込んだ。

 激痛に男は顔を歪め、体が少し右に傾く。その瞬間、浦木は立ち上がる反動を使って、突き上げるように左掌底を相手の顎下に入れた。男性捜査官は手を止めず、右拳を相手の胸に叩き込み、続けて左手を相手の右側頭部に添えると右にあった乗用車の車体に男の頭を叩きつけた。

 その頃、新川は黒い服の男に銃を持つ右手を抑えつけられ、顔を殴られた後に首を締められた。首を襲う激痛に彼女は苦しみながらも、左手を伸ばして親指で相手の右目を突いた。男は呻き声を上げて新川から離れ、苦しみから解放された女性捜査官は咳き込んだ。

 右目を赤くした男が反撃に出ようとした時、左膝横を蹴り飛ばされた。激痛に悲鳴を上げようとした口を開こうとした途端、左側頭部を固い物体で殴られて男は殴られた箇所を抑えて前屈みになり、その隙に新川は彼の背後へ移動して相手の右膝を蹴り飛ばして膝をつかせ、男の背中に銃口を向けた。

 「あ、ありがとうございます…」黒い服の男から目を離さずに新川が助けてくれた浦木に礼を言った。

 「大丈夫ですか?」浦木は右手に持った拳銃を胸の前で構え、左手を腰の近くに置いて周囲に視線を配っていた。

 「なんとか…」左手で痛む首に触れて女性捜査官が応えた。

 「この2人を拘束しましょう。他に仲間がいるかもしれませんので、気を抜かずに。」

 浦木が周囲を警戒している間に新川は黒い服の男に手錠をかけて拘束し、少し離れた場所で気絶しているもう一人の男に近づいた。手錠を浦木から借り、緊張しながら濃紺色のTシャツ姿の男を拘束した。その間も男性捜査官は周囲に視線を走らせ、不審な人物を探していた。

 「班長に連絡します。」新川が拳銃をホルスターに戻し、スマートフォンを取り出した。

 「お願いします。」鋭い視線を配らせながら浦木が言った。「それからこの二人の持ち物を確認してもらえますか?」

 「分かりました。」右耳にスマートフォンを当てながら、新川はしゃがんで気絶している男のジーンズのポケットを確認し始めた。ジーンズの前ポケットには何も入っていなかったが、後ろポケットの左にスマートフォン、右に財布が入っていた。それらをポケットから取り出した時、呼び出し音が消えて上司の声が聞こえてきた。

 「新川、状況は?」

 「病院へ移動中に手榴弾を持ったテロリストと遭遇して…浦木さんと拘束しました。」左手に持つ拘束した男の財布とスマートフォンを見つめて新川が報告した。

 「二人ともケガはないか?」

 「大丈夫です。拘束した男から財布とスマートフォンの回収ができたので、こちらのデータをそちらに送ります。その後、病院に向かいます。」

 「いや、お前たちはそこで待機しろ。他の場所でも手榴弾を使った攻撃が起こっている。状況次第では病院でなく、他の現場に行ってもらうことになるかもしれない。」できれば、半田は新川と浦木を病院に向かわせて井上たちを助け出して欲しかった。しかし、複数の場所で攻撃が発生しており、捜査官を特定の位置に集中させることで緊急時の対応が遅れることは避けたかった。

 「分かりました。それでは浦木さんとここで待機します。その間に入手したスマートフォンと財布の情報を送ります。」

 「頼む。そして、気をつけろよ。」

 「分かりました。」





***





 黒い布の上に並べられているナイフを見て金村は腕を組んだ。

 「そんなんで良いんかい?」化粧台の椅子に座る太った男が尋ねた。

 金村は両刃のナイフを右手で取ると、手首を左右に振ったり、回転させたりして手に馴染むかどうか確認した。

 「コイツは不器用でね…」無言の金村に代わって眉毛の太い、押尾という名の男が言った。

 太った男は背もたれに体を預け、ベッドの近くでナイフを選んでいる坊主頭の男を見つめた。

 彼らは都内のビジネスホテルの一室におり、金村を見つめている男は主に動物の密輸を行っているが、細々とその密輸ルートを使って途上国の武器を売る商売をしていた。

 〝まぁ、単価は低いが、稼ぎは稼ぎ…〟男はそう思っていた。

 金村は両刃のナイフを元の位置に戻し、別のナイフを片手に取った。それは柄の先端に穴のある鎌のようなナイフであり、握ってみると小指が柄の先端にある円に当たって持ちにくい形状だった。

 「その穴に指を入れるんだ。今のアンタの持ち方だと小指を入れ、逆手持ちなら人差し指を入れる。」太った男が部屋に流れていた沈黙を破った。

 「珍しい形だな…」押尾が金村の手にあるナイフを見て言った。

 坊主頭の金村は鎌のような形状のナイフにある穴に小指を入れ、手首を回して手に馴染むか確認したが、下唇を噛んでそれを布の上に戻した。

 「これとこれにする。」金村は最初に取った両刃のナイフと刃渡り5センチほどの柄がT字型になっているナイフを指差した。

 「ケースもいるか?」足元に置いていた鞄を持って太った男が立ち上がった。

 「あぁ…」金村は布の一番端に置いてある片刃の大きなナイフを見た。

 「ケースをつけて10万だな。」茶色の鞄にあるナイフの鞘を探しながら男が言った。

 「分かった。」金村は目をつけていた片刃のナイフを取り、鞄の中身に夢中になっていた男の顎を下から突き刺した。





***
 


 
 
 手榴弾が1階の踊り場に放り込まれた。

 その時、井上と岩田は1階と2階の間にある踊り場まで移動していたが、振り返った捜査官が深緑色の転がる球体を目にすると、前を歩いていた岩田の背中を押して上階へ続く階段で伏せさせ、井上は彼女の上に覆いかぶさった。直後、破裂音と爆風が二人を襲い、男性捜査官の下で丸くなっていた岩田が悲鳴を上げた。

 爆発音を耳にした襲撃者4人は素早く1階の踊り場へ移動し、上階に向けて一斉に発砲を開始した。耳朶を震わせるような轟音が室内に響き、大量の薬莢が落ちて床に散らばった。

 「急いで!」起き上がると井上は女性看護師の背中を押し、階段の手すりから身を乗り出して応射しようとした。しかし、あまりにも弾幕が厚く、彼は動けなかった。

 その間に岩田は2階へ移動し、振り返って井上の姿を確認しようとしたが、そこに男性捜査官の姿がなかったのでパニックに陥った。

 少し弾幕が薄くなるのを期待していたが、その瞬間はなかなか訪れなかった。

 〝適当に発砲して逃げるか?〟

 そのまま逃げる選択肢もあったが、既に上階へ逃げた人々の状況が分からず、それに足の不自由な人もいたため、下手に逃げて犠牲者が出るのは食い止めたかった。ゆえに井上はできる限り、この場で襲撃者たちを食い止めようと考えていた。

 井上が階段の手摺りに背を預けて相手の様子を伺っていた頃、襲撃者たちは彼が逃げたと思って二人が発砲しながら階段を上がり始めた。残りの二人は踊り場で待機し、再装填しようと鞄に手を伸ばした。

 再装填を試みていた二人の足元に丸い円柱状の物体が転がってきた。それは出口に近い男の右足に当たって止まり、ふと足元へ視線を向けた瞬間、爆音と閃光が室内を満たした。これに4人は混乱した。彼らは視力と聴力の両方を失い、階段を上がっていた一人は足を踏み外して転んでしまった。

 閃光手榴弾が爆発すると、二名のSAT隊員が壁から身を乗り出して踊り場にいた二人の片脚を撃ち、素早く踊り場に進入して一人が上階へ続く階段へMP5短機関銃の銃口を向けた。彼は階段が落ちてくる一人の男を見つけ、その男に注意を向けた。しかし、1階と2階の間にある踊り場付近にいる別の男を発見すると、素早く銃口を動かして引き金を絞った。

 放たれた銃弾は視力と聴力を奪われて前傾姿勢になっていた男の右太腿裏に命中し、男は仰向けに倒れて踊り場に着地した。

 一方、もう一人のSAT隊員が後続の仲間と共に、脚を撃たれた二人の襲撃者を床に押し倒し、短機関銃を取り上げて拘束した。すると、階段から短機関銃を右手に持つ一人の男が滑り落ちてきた。一人のSAT隊員が壁に沿って階段を上がっている仲間を援護するために階段の上へ銃口を向け、もう一人が落ちてきた男を拘束した。

 踊り場に崩れ落ちた男の視力は戻りつつあった。そして、視界が明るくなると右手を伸ばして短機関銃の引き金に指をかけた。だが、その直後に右腕に激痛が走り、男は短機関銃を落とした。

 階段を登っていたSAT隊員は後ろにいる仲間が発砲したと思ったが、階段を登り切った時に発砲した人物が別にいたことを知った。

 「井上さんですか?」SAT隊員が上階へ銃口を向け、壁に背を預けて座っている男に尋ねた。その隣には若い女性看護師の姿があった。

 「ちょっと遅すぎるんじゃない?」井上が右手に持っていた短機関銃を右太腿の上に置いた。

 「色々とありまして…すぐに救護班を呼びますので、ここでお待ち下さい。」

 「了解…」

 井上の言葉を聞くとSAT隊員は階段を上がり、その後を3人の隊員が続いた。





***




 JCTCの局長である本郷光太郎が、第1課課長の一文字武志から渡されたスマートフォンを机の上に置いた。

 「これ以上事態を悪化させる必要はないでしょう…」本郷は自分の前に立つ3人の男を見て言った。「他にSATの突入を遅らせている場所があれば、すぐ行動するように伝えなさい。警視庁から文句が来たら、私の指示だと言って後日詳細を話すと言っておくと良い。」

 そう言って本郷は大会議室を後にした。彼は突然会議室に現れ、井上がいる病院で指揮しているSATに連絡するように言い、回線が繋がるなり突入命令を出した。電話の相手は混乱していたが、本郷が「責任は自分が取る」と言って電話を切った。

 局長の後ろ姿を見送る第1課から3課の課長たちは呆気に取られていたが、すぐに気を取り直して部下たちの方を見た。

 「突入待機をしているSATと連絡を取ってくれ!」第1課の一文字が叫んだ。

 分析官たちは急いで現場で突入の合図を待っているSAT隊員の隊長へ連絡し、回線が繋がるとそれを課長たちの電話に回した。

 右手に持っていた半田のスマートフォンが震え、彼は急いで電話に出た。

 「半田だ。」

 「井上です。」

 部下の声を聞くと半田の胸に纏わりついていた不快感が消え去った。数分前に井上と電話で話していたが、その途中で爆発音が聞こえて通話が終了していたのだ。半田は井上が重傷を負ったと思い、心配していた。

 「大丈夫か?」

 「左腕をちょっとケガしましたけど、生きてますよ。でも、SATの突入が少し早かったら、ケガしなくてすんだかもしれませんが…」

 「文句なら後で聞いてやる。まだ他の病院でも同様の事件が発生していて、SATが突入を始めたばかりだ。それに病院の付近で手榴弾を使った攻撃も起こっている。」

 「かなりヤバそうですね…」左腕の手当てを受けていた井上は、他の場所でも同様の事件が起きていることを知って驚いた。

 「浦木と新川が手榴弾を持った二人組と交戦し、拘束したとの報告があった。お陰で連中の正体が分かってきた。」半田は近くにあった机に左手を置き、作業している柄沢のPCモニターを覗きんだ。

 「この攻撃を仕掛けてる連中は何者なんですか?」と井上。

 「お前もよく知ってる組織だ。」

 「オレも?」

 「あぁ…数ヶ月前に俺たちが捜査した左翼組織だ。」
 




* * *




 草加亮の導き出した答えは「革命」であった。

 貧困という日本だけでなく、多くの国々が抱える問題を解決するためには自分たちのような貧しい人々が行動を起こし、中央政府を倒す必要がある。

 今まで母からの承認を得ることを目的として生きていた彼に新しい目的が生まれ、それは草加に活力を与えた。貧困問題を解決するために強力な敵と戦うことを考える度に、彼の胸は熱くなって使命感に燃えた。

 〝多くの人々は国の言うことしか聞かない操り人形だ。このままではダメなんだ。誰かが立ち上がらないと!〟

 腐敗した政府との戦うことこそ自分の使命だと思った草加は大学の勉強を疎かにして、貧困に関するセミナーに参加したり、インターネットの掲示板で意見交換を行うようになった。インターネット、特にソーシャル・ネットワーク・サービス(SNS)は彼と同じ意見を持つ人々と出会う機会を与えてくれた。草加はSNSで知り合った人々と様々な情報を交換し、自分たちの運動を多くの人に知ってもらい、大衆を食い物にしている中央政府を打倒しようと考えていた。

 SNSで情報交換をしていたある日、草加は時の内閣が国会に提出した法案に反対する学生団体の存在を知った。その団体は『テイク・アクション』と名乗っており、多くの若者に「行動を起こそう」と訴えていた。彼らの理念に同調した草加は積極的に『テイク・アクション』の活動に参加するようになり、気付いた時には貧困問題に詳しい人物として団体の中でも一目置かれるようになっていた。

 彼の熱心な姿勢から『テイク・アクション』は草加を貧困問題を担当するサブ・リーダーとした。『テイク・アクション』にリーダーは存在せず、サブ・リーダーしかいない。これは中央政府が進める一極集中主義への批判、そして、強いリーダーの存在が腐敗に繋がると思っていたからであった。

 『テイク・アクション』はメディアに取り上げられ、その知名度は一気に上がり、一部の学者や野党の政治家までも彼らのデモ活動に参加するようになった。大衆の注目を浴びて、草加は目指していた「革命」は近いと思い、デモ行動中に歓喜して涙を流した。

 メディアに取り上げるられることで、デモに参加している人々は支持を得られると思っていたが、大衆からの視線は冷ややかであった。それでも『テイク・アクション』と彼らを応援する人々は気にせず活動を続け、国会で審議されている法案を廃棄に追い込もうとした。

 しかし、その法案は可決した。草加はこれに猛反発し、反対のデモ行動を起こすべきだと仲間に訴えた。

 「もう無理でしょ。通っちゃったし…」仲間の一人が言った。

 「そうですよ。また頑張りましょうよ、草加さん!」別の仲間が笑みを浮かべてビールを飲んだ。

 〝何を言ってるんだ…?〟

 草加は混乱した。彼と一緒に活動していた人々は同じ志を持っていたのに、法案が可決した途端にまるで何もなかったかのように振る舞っている。

 〝コイツらも他の連中と変わらない。コイツらも政府に洗脳されているんだ。僕だけだ…僕だけが政府の思い通りにならない『特別な存在』なんだ…〟

 『テイク・アクション』に失望したのは草加だけではなかった。彼と同じような不信感を抱くメンバーも中にはいた。

 「新しい組織を作ろう…」草加は『テイク・アクション』の活動方針に不満を持っているメンバー数人を集めて言った。

 集められた数人は彼の言葉を聞くと胸を躍らせ、草加の次の言葉を待った。

 「『テイク・アクション』は死んだ…いや、あの組織は元々、国に洗脳された連中が作り出した傀儡だったんだ。僕たちのいるべき場所ではなかった…これからが本当の戦いだ。」草加がメンバーの顔を見回した。「今日から『紅蓮』と名乗ろう…」数日前から考えていた組織の名前を言った。

 その名前を聞いた数人のメンバーは鳥肌を立てた。

 「僕たちの胸の内にある火は大きくなり、炎となった。この炎は人々の心に影響を与え、さらに大きな炎になる。そして、その炎はこの国を大きく変えるんだ。」
 



* * *




 ドアを開けた時、その男は窓の外に広がる景色を見ていた。

 押尾と金村が部屋に入ってきても、男は振り向かず、代わりにドアの横にいた別の男が反応して拳銃を押尾の左側頭部に押しつけた。

「俺だよ。押尾だ…」眉毛の太い男が拳銃を向ける男へ視線を向けた。「銃を下ろせよ、梶原。」

押尾とその後ろにいる金村を確認すると、浅黒い肌をした長身の男が銃を下ろしてそれをベルトに挟めた。

 二人が梶原という名の男に気を取られている間、外の景色を眺めていた男が振り返った。その男は白い襟付きの半袖シャツとベージュのスラックス姿であり、押尾と金村を見つけると部屋の隅にあった椅子を指差して座るように促した。

 「遅くなってすみません。」押尾がパイプ椅子に腰掛けた。「金村の尾行や買い物がありまして…」

 「大丈夫ですよ。」男が窓の近くに置いていたオフィス椅子に腰掛けた。

 突然、金村が椅子から立ち上がり、男の方を向いて土下座をした。急に彼が動いたため、ドアの横にいた梶原が銃把に手をかけ、驚いた押尾も足首に巻きつけていたナイフに手を伸ばした。

 「すみませんでしたッ!」部屋に響くくらいの大きな声で金村が叫んだ。

 「頭を上げてください」男は優しく坊主頭の男に話しかけた。「あなたの責任ではない。あれは久野さんの責任です。」

 金村は頭を上げて椅子に座る男の顔を仰ぎ見た。

 「私たちにはやらなければならないことがある。そうでしょう?」

 「はい…」そう言って金村は頷いた。

 「既に仲間たちが動いている。」男が押尾を見た。「何も問題はないですよね?」

 「はい。ありません。」眉毛の太い男が頷く。

 「それではステージ2に入りましょう。」男は床を軽く蹴って椅子を窓の方へ回転させた。

 〝革命の始まりだ…〟窓の外に広がる景色を見ながら草加亮は口元を緩めた。






(続く…事はないかもしれない!)

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S.N.A.F.U. (6) 前編 [S.N.A.F.U.]

 「ダメです。」

 何かをねだる度に草加亮の母親はそう言って息子を黙らせた。

 少年にとって親は絶対的な存在であった。特に母親の影響は大きく、草加亮にとって彼女の言葉には決して逆らうことができなかった。

 小さい頃からテレビ番組の視聴は「暴力的になる」という理由で禁止され、同じ年の子供の間で流行っていたアニメ番組の話しに付いて行けず、同級生から奇異の目で見られることがあった。また、友人たちが新しいゲーム機で遊び始め、亮も母親にゲーム機が欲しいと頼んだが、彼の両親は「ゲームには不適切な表現が多い」と言って拒否した。

 不満はあったが、絶対的な存在である親に逆らおうと考えたことは一切なかった。親への愛もあったが、それ以上に嫌われたくないという気持ちが大きかった。多くの同級生と違う家庭環境だったので、友達の数も減り、気付けば学校で話す相手はいなくなっていた。同級生に話しかけようにも、彼の同級生たちは草加亮とその家族は変わっていると思われており、距離を開けるようになった。ゆえに少年であった草加亮は両親だけには嫌われたくないと思うようになり、両親を喜ばせようと努力した。

 中学生になってもこの状況は変わらず、高校に入学すると両親が離婚して草加亮は母親と共に家を出て小さなアパートで暮らすようになった。父親に捨てられたと思った草加亮はショックを受け、母親には絶対に嫌われないようにと細心の注意を払って接した。

 母親との暮らしは楽ではなかった。経済的に生活が苦しかったので、草加亮はアルバイトすることを母親に告げた。喜ばれると思ったが、母親は「余計な心配はしなくてもいい」と言って息子を突き放した。母親の言うことは絶対であったが、草加亮は内緒でアルバイトをして母親の財布に自分の給与の半分を入れていた。残りは大学進学のために貯金し、いずれは母親に負担を与えずに公立の大学へ行こうと考えた。

 家計を助けることはできたが、学力は低下した。それまでは十分に給付型の奨学金を受ける資格を持っていたが、学業とアルバイトの両立ができなかった草加亮の学力は下がり、貸与型の奨学金を応募するしかなかった。そのことを母親に告げると、彼女は顔を真っ赤にして息子の顔を何度も平手で打ち、手が痛くなると床に崩れ落ちて大きな声を上げて泣き始めた。

 草加亮にとって両頬に残る鈍い痛みよりも、泣き崩れる母親を見下ろす方が苦痛であった。

 「ごめんなさい、お母さん…」












『S.N.A.F.U.』








 CU。

 それは壁に大きく血で書かれていた。科学捜査係が忙しなく背後を歩き回る中、警視庁捜査第一課殺人犯捜査第4係の佐々木直哉は壁に書かれた文字を見つめ、その意味を考えていた。

 現場は東京都内にあるビジネスホテルの一室であり、その部屋に宿泊していた男性の名前は『久野雅人』であった。この部屋で見つかった男性の遺体の口には靴下が押し込められ、両手足はビニールの紐で縛られてベッドの上に寝かされていた。顔は赤く腫れ上がり、所々皮膚の割れた箇所があった。衣服は身に着けておらず、体中に真新しい複数の痣を確認することができた。また、彼の腹部には大きく十字に切り裂かれた傷跡があり、傷口はホッチキスの針で荒く閉じられていた。

 男性の身元は、現場に残されていた自動車免許証からこの部屋に滞在している久野雅人だと推定された。部屋に荒らされた形跡はなく、血痕はベッドとバスルームにしかなかったので、バスルームで殺害された可能性が高いと考えられた。

 この男性客を対応したフロントの女性スタッフによると、久野雅人に変わった様子は見られず、男性が部屋に入った後も何の問い合わせもなく、来客もなかったと述べていた。

 「暴力団絡みか?」同僚の刑事が佐々木の隣に並んだ。

 「分からん。」壁に書かれた文字からベッドの遺体に視線を移して佐々木は言った。「暴力団にしては派手な気もする。」

 「見せしめに殺したのかもしれない。」佐々木の横に並ぶ狩野俊雄も遺体を見た。

 「そうかもしれないが…」

 遺体の腹部にある傷跡を見つめていると佐々木は異変に気づいた。最初は気のせいだと思ったが、それは再び赤く腫れ上がった傷跡の近くで動いた。目を凝らし、ベッドに横たわる遺体に近いづいて動く何かを確認した。その直後、部屋にいた捜査員全員は死体の中に隠されていた爆弾の衝撃で吹き飛ばされた。
 


***



 クリアフォルダを片手に井上大輔は病院の廊下を歩いていた。

 廊下には早足でヒールの音を響かせながら数メートル前方を歩くスーツ姿の女性、井上の方に向かって歩いてくる男性看護師に付き添われた高齢の男性、そして、松葉杖をついて歩く9歳くらいの少年がいた。少年は疲れたのか一度立ち止まり、その時に井上と目が合った。

 紺色の襟付き半袖シャツに色褪せたジーンズ姿の井上は少年に笑顔を向けた。

 「頑張れ!綺麗な看護師さんたちのいるトコまでもう少しだぞ。」右拳を一休みしている少年に見せて井上がイタズラな笑みを浮かべた。

少年は頬を赤く染め、再び松葉杖をついて歩き始めた。

 一生懸命に前へ進む小さな背中をしばらく見つめた後、井上は前を見て歩き出そうとした。すると、見慣れた顔の女性看護師を見つけた。彼はこみ上げてくる笑みを抑え、口元をヒクヒクと動かしながら彼女に近づいた。

 井上に気がつくと女性看護師は口元を緩め、それを確認すると捜査官は我慢していた感情を解放した。

 「マルちゃんのダイエットは継続中ですか?」女性看護師が最初に口を開いた。

 「食事制限はしているんですけどね、リンくんのおウチに行くと美味しい物が食べれるようでね…」

 「私のせい?」

 「いや、ぽっちゃりになったのはオレのせいかな?」

 二人は共に微笑んだ。この女性看護師は、井上の飼い猫である猫座衛門と仲の良い猫の飼い主であり、猫たちの交流が二人を結びつけた。名前は岩田麻美といい、偶然にも彼女は野間秀俊の交戦後に井上が搬送された病院に勤務していた。だが、彼女は井上の身に起こった詳細を知らなかった。井上も詳しくは話さず、帰宅中に事故に巻き込まれて腕と脚をケガしたとしか言っていない。それに彼は彼女に「警察官だけど、やってるのは書類整理」と嘘をついている。

 「岩田さん!」井上の背後から声が聞こえてきた。振り返ると、別の女性看護師がいた。

 「ゴメン。仕事が終わったら連絡するね。」岩田は右手を小さく振って井上の横を通り過ぎた。

 「オッケー」捜査官も手を振り返し、彼女が同僚と合流するのを見ると下の階にある会計へと歩を進めた。

 井上はメインエントランスの自動ドアと総合窓口、その近くに並ぶソファーを見下ろせる道を歩いていた。ふと自動ドアへ視線を向けた時、彼は黒い服を着た4人組の男が二列に並んで自動ドアを抜けるのを見た。男たちは二手に分かれ、1組は会計カウンターへ、そして、もう1組は井上の目指しているエスカレータへ向かった。

 歩調を緩めずに井上は男たちの動きを注視した。会計カウンターへ向かった二人組の姿は見えなくなったが、エスカレーターに向かう二人組の姿は確認できた。男たちは服と同じ色のメッセンジャーバッグを持っており、エスカレーターに乗ると鞄の中に右手を入れた。その直後、間断のない轟音が井上の真下から聞こえ、その音は壁と天井に反響してその場に鳴り響いた。

 その音が銃声だと気づくと捜査官は反射的にしゃがみ込み、素早く右手を腰へ伸ばした。しかし、彼の手が求めていた物を掴むことはなかった。

 〝そうだ…休暇だから銃なんて持ってねぇ!〟

 当初、銃声は井上の真下から聞こえてくるだけであったが、エスカレーターを使って2階に上がってきた別の二人組も発砲を始め、けたたましい銃声がフロア全体に響いた。新たな銃声と共に耳朶を震わせるような悲鳴と怒号が井上の耳に飛び込んできた。彼は発砲している男たちの位置を確認するために頭を上げ、その際に短機関銃を発砲しながら歩いている男と目が合った。

 〝ヤッベ!〟

 井上と目の合った男は短機関銃の銃口を捜査官に向け、複数の銃弾が井上の頭上をかすめて壁に命中した。

 心拍数が急激に上昇したが、井上の判断能力は鈍っていなかった。彼は敢えて姿勢を低くせず、相手の注意を引くために来た道を走って引き返し始めた。案の定、井上に狙いをつけていた男は彼に向けて発砲し、その隣にいた彼の仲間も走って逃げる捜査官を見つけると井上に向けて銃撃を加えた。

 銃弾は井上の後を追うように壁やガラス張りの柵に命中し、逃げる相手を仕留められない二人の男は一度発砲を止めて再装填をしながら捜査官の後を追った。

 必死に逃げている井上は曲がり角に直面すると、右足から滑り込んで壁の陰に飛び込んだ。急いで壁に背をついて立ち上がろうとした時、隣から小さな悲鳴が聞こえて捜査官は素早くそちらへ顔を向けた。そこには4歳くらいに見える孫娘を抱えて座り込んでいる高齢の女性がいた。

 「大丈夫ですよ」額に薄らと汗を浮かべる井上が怯える二人に笑顔を向けた。ふと彼の視線の端に高齢の女性が使っていたと思われる杖が目に入った。「お借りしてもいいですか?」杖を指差して井上が尋ねた。

 高齢の女性は小さく頷き、井上は「ありがとうございます」と言って杖を取ると立ち上がった。壁の角に立った井上は顔を半分出して廊下の様子を窺い、駆けてくる二人の男を確認した。先頭に井上と目の合った男、その後を少し遅れてもう一人の男がいる。

 〝やるしかないな…〟高齢の女性と小さな子供のことを考えると、井上はここで二人の男と対峙するかないと考えた。彼はTの字になっている杖の持ち手を右手で掴み、左手は杖の先端から少し上の部分を掴んだ。

 床を通じて男たちが近づいてくるのを井上は足に感じていた。そして、接近してくる相手の影を曲がり角から確認するや否や、彼は上半身を出して杖を突き出した。

 腹部に向けて突き出された杖であったが、それは先頭を走っていた男の股間に命中し、攻撃を受けた男は目を見開くと同時に口を大きく開けて声にならない悲鳴を上げた。形容し難い痛みに男は両膝を内側に向けて前屈みになった。

 井上は素早く男の右横を通り抜け、少し遅れて走っていた男に近づいた。

 捜査官の姿に気付くと、男は短機関銃の銃口を向けて引き金を絞った。銃弾が発射される直前に井上は相手の短機関銃を左手で掴んで押し退け、その際に短機関銃から銃弾が発射されて捜査官の手の中で跳ね上がった。銃弾は両手で股間を抑えてしゃがみ込んでいる男の頭上を通過し、廊下の突き当たりにある壁に命中した。

 捜査官は銃弾が発射されても短機関銃から手を離さず、右掌底を男の鼻頭に叩き込んだ。相手が怯むや否や、彼は右手を一度引き、下から包み込むようにして短機関銃を掴むと銃を反時計回りに回転させた。

 今まで外を向いていた銃口が自分に向けられ、男の目は短機関銃に釘付けとなった。その隙を突いて井上は右膝蹴りを相手の股間に入れ、その勢いを利用して短機関銃をもぎ取った。

 素早く井上は短機関銃の遊底を引き、周囲に銃口を向けて安全確認を行った。遊底を引いた際、薬室にあった銃弾が排出され、大きな音を立てて床に落ちた。彼の足元には悶絶している二人の男がいるだけで、近くに脅威はなかった。しかし、捜査官は遠くから聞こえる銃声を聞いて危機感を抱いていた。

 〝4人じゃない…もっといるな…〟

 井上は黒い服を着た2人の男からチェコスロバキア製のVzに似た短機関銃とメッセンジャーバッグを取り上げ、男たちが着ていた長袖シャツを利用して両手を後ろで縛り上げた。鞄の中には短機関銃の予備弾倉の他に手榴弾2つが入っていた。

 〝なかなか良いモノ持ってんじゃん…〟

 捜査官は全ての武器を一つの鞄にまとめ、それを右肩からたすき掛けした。右手に短機関銃を持って、井上は曲がり角の先で孫娘を抱えている老婆に近づいた。

 彼の姿を見た老婆は悲鳴を上げて孫娘を抱きしめた。

 「大丈夫です」井上は銃を左脇に挟めて両手を上げた。「アイツらの仲間がまだいると思うので、お孫さんと隠れて下さい。」

 「ど、何処に?」目の前に立つ男性捜査官に疑いの目を向けながらも老婆が尋ねた。

 「この少し先に面談室があります。私がそこまで案内します。歩けますか?」井上が右手を老婆に差し伸べた。



***




 「一体どうなってんだ?」JCTC第2課の課長の風見卓が誰となく尋ねた。

 「それが分かれば苦労しませんよ…」第3課課長の袴田照雄が応えた。

 二人の前では部下たちが忙しなく電話で話し、パソコンの画面を睨みながら作業を行なっている。彼らはJCTC本部の5階にある大会議室で合同捜査本部を開き、2時間前に起きた事件の情報収集を行なっている。

 今から2時間前、JR京浜東北線の大森駅に近いビジネスホテルの6階で爆発が発生した。この爆発によって、部屋にいた6名の捜査員が死亡し、その内の2名は爆風で吹き飛ばされた後、部屋の窓を突き破って外に放り出された。6階から落ちた遺体は原形を留めていなかった。

 廊下でホテル従業員に聞き込みを行なっていた捜査員たちも、爆発の衝撃を感じており、ドアの近くにいた捜査員たちは爆風を浴びて壁に叩きつけられていた。

 その報せを受けるとJCTCは素早く情報収集を開始した。そして、錯綜する情報から手がかりを掴もうとしていた最中、品川区、港区、目黒区にある3つの病院で銃撃事件が発生した。

 「JCTCはこんな時のために作られたのです。」第1課課長の一文字武志が口を開いた。彼は風見と袴田の間に座っている。「しっかりと役割を果たそうではありませんか…」

  彼ら3人から少し離れた場所で半田弘毅は部下の井上へ連絡を試みていたが、部下が電話に出ることはなかった。

 「出ないんですか?」半田の隣にいた浦木淳が尋ねた。

 「あぁ…」井上が電話に出ないことに苛立ちながら半田が答え、彼は再び井上の番号にかけた。

 「班長!」半田の前にある机で作業している分析官の増井仁美が大会議室を飛び回っている大声に掻き消されないように叫んだ。

 「どうした?」電話を一度切り上げると半田は片手を机について、分析官のノートパソコンの画面を覗き込んだ。

 「井上さんから電話です。班長の電話に転送しましょうか?」

 「頼む。」

 上司の返事を聞くや否や増井は井上からの電話を半田のスマートフォンに転送した。

 「井上、すぐ本部に来い!」半田が開口一番言った。

 「行けたら、行きたいんですけど…」受信口から井上の抑えた声が聞こえてきた。

 「ふざけてる暇がない。すぐに来い!」

 「班長、行きたいんですけど…今いる病院が襲撃されてまして…」

 半田は虚を突かれて言葉を失った。この通話を聞いていた増井も驚いていた。

 「班長、聞こえてます?」

 井上の声を聞いて半田は我に返った。

 「増井、井上との電話を会議室のスピーカーに繋げ。」

 指示を受けると女性分析官は止まっていた手を素早く動かし、会議室のスピーカーとの接続を行った。

 「井上、状況を教えてくれ。」

 「黒い服を着た4人組の男が病院の正面玄関が侵入し、その後1階と2階へ分かれて短機関銃の発砲を始めました。しかし、銃声の数からして、裏口からも侵入しているかもしれません。」

 井上の声が会議室に響くと作業していた捜査員たちは手を止め、スピーカーから聞こえてくる声に耳を傾けた。

 「民間人の安全を優先し、2階に進んできた二人と交戦し、拘束しました。装備は短機関銃と手榴弾2つです。」

 「拘束した男たちの顔写真を撮って、こっちに送ってくれ。」第2課第4班の班長である後藤田文博がマイクを使って井上に言った。

 「現在移動中なので無理です。」

 「無事なのか?」半田は部下の身を案じた。

 「俺は大丈夫です。でも、病院にはまだ多くの人が-」

 「それよりも情報収集だ。」後藤田が井上を遮った。「ソイツらの身元を確認する必要がある。」

 「ちょっと電波が悪いみたいなので、かけ直します。」

 その後、スピーカーから微かに聞こえていた雑音がなくなり、それは通話が終了したことを告げていた。

 「もう一度、電話をかけろ!」後藤田が増井に向かって怒鳴った。

 「分かりました。」女性分析官は後藤田の声に怯えたが、すぐにリダイヤルした。

 呼び出し音が数回鳴ったが、井上が電話に出ることはなかった。

 「クソッ!」後藤田が悪態ついた。「半田さん、彼はあなたの部下ですよね?一体どうなってるんですか?」

 「何か事情があるのかもしれません。引き続き井上との接触を試みます。」そう言うと半田は後ろにいた浦木と新川真衣の方へ振り返った。「装備を整えろ。その間に井上のいる病院を特定する。おそらく徳英病院だと思うが、念のために調べる。」半田は井上が負傷した後に通い続けている病院を知っていた。

 「了解。」浦木と新川は急いで大会議室を後にした。

 「増井と柄沢は井上のいる病院を特定し、現場近くにいる捜査員に井上からの情報を提供してくれ。」

 「半田くん…」大会議室のスクリーンにいる第2課の課長、袴田が部下に近づいた。「井上という男は大丈夫なのかね?」

 「彼は優秀な捜査官です。おそらく連絡できない状況にあるのでしょう。またすぐに連絡が来ると思います。」

 「ならいいが…」半田の応えを聞いても袴田は納得できなかったが、今は信じることしかできないと思い、自分のいた席へ戻った。



***



 ルームミラーで近づいてくる坊主頭の男を確認すると、眉毛の太い男は車のエンジンをかけた。再びルームミラーを見た時、坊主頭の男が助手席のドアを開けて乗り込んできた。

 「あまり変わらないな…」眉毛の太い男が助手席に座る男の横顔を見て言った。

 「いいから出せ。」坊主頭の男が運転席にいる男を睨みつけた。

 それを聞いた男は呆れながらギアをDに入れて車を走らせた。

 「尾行は?」運転席にいる眉毛の太い男が尋ねた。

 「ある程度は巻いた。今朝の件で俺への警戒は薄くなってるようだ。」

 助手席に座る坊主頭の男の名は金村浩一と言い、2ヶ月前に起きた新幹線爆破事件の主犯であった津上翔一を始末するように命じられていた。しかし、津上とその交際相手を追いつめたところで、浦木と交戦して逮捕された。

 逮捕後、JCTCの取り調べを受け、その後に久野雅人の部下二人を殺害した罪で起訴されるところであった。だが、検察は金村の殺意を証明する証拠が無いと判断した。検察によると、金村は初犯であるが、殺害された二人には傷害と強盗の前科があったので、金村の正当防衛の可能性を示唆した。また、津上とその交際相手は被害男性たちと関わりのある左翼組織として繋がりがあるため、検察は二人の証言に信憑性がないとした。これによって金村は不起訴となった。

 いくら不起訴になっても警視庁公安部とJCTCは彼の監視を続け、金村もそれには気づいていた。ゆえに仲間と接触することを避け、時が来るのを辛抱強く待ち続けた。全ては尊敬する男のため、そして、自分を捕らえた男へ復讐するためであった。

 金村は今朝の爆破事件をニュースで見て今日がその時だと思い、着替えを済ませると緊急合流先に指定されていた場所へ向かった。期待していた通り、仲間はその場所で待っていた。

 「スマホとか捨てたか?」眉毛の太い男が再び尋ねた。

 「途中で捨てた。お前は?」

 「もちろん捨てたさ。連絡用をこれから取りに行く。だから、この車は途中で捨てる。」

 「分かった…」金村は外の景色を見た。通りを歩く人々を見て彼は失望していた。

 〝今も銃撃事件が起きているのに…コイツらは何も起きてないかのように、いつも通りの生活を送っている。〟

 「辛気臭い顔するな。草加さんは今日のために準備した。今日は始まりの日だ。今日を境にこの国は大きく変わる…」



***



 その音を耳にした時、岩田麻美は同僚の女性看護師と歩いていた。

 断続的な轟音と共に悲鳴と怒号が遠くから聞こえ、通路を歩く人々と受診を待つ人々が動きを止めて音の方へ顔を向けた。

 甲高い悲鳴と怒鳴り声、そして、それを掻き消す花火のような破裂音は次第に大きくなった。今まで遠くから聞こえてきた音が近づいてくると、人々は不安を抱き、一部の人々は立ち上がって様子を見に行こうとした。その時、鬼気迫る表情を浮かべて駆けてくる数人の男女を目撃し、彼らは「逃げろー!」と叫んだ。

 状況を理解できない人々は走り去る人々の姿を見守ることしかできず、それは岩田とその同僚も同じであった。

 「どうしたんでしょうか?」岩田が隣にいる同僚に尋ねる。

 「分からないけど、患者さんたちを避難させましょう。」

 轟音は近くまで迫っていた。看護師たちは廊下にいる人々に避難するように呼びかけ、人々は渋々立ち上がり、断続的に聞こえてくる音の方へ何度も顔を向けた。

 ロビーから駆けて来ている人々は、ゆっくりと避難を始めた人たちを押し除けるように進んだ。

 「何が起きてんだよ?」受診を待っていた一人の男性が興味本位で音のする方へ歩き出した。

 彼が曲がり角へ差し掛かった時、短機関銃を持つ2人の男に遭遇した。男性は急いで引き返そうとしたが、短機関銃を持つ男たちは男性の背中に銃弾を浴びせた。複数の銃弾を背中に受けた男性は、口から血を吐きながら勢い良く床に叩きつけられた。

 短機関銃を持つ黒い服を着た二人の男が避難する人々を確認すると同時に、看護師に誘導されている人々も彼らの存在に気づいた。一瞬にして混乱が生まれ、人々は我先にと目の前を歩く人々を押し除けて走り出そうとした。

 短機関銃を持つ二人は互いに顔を見合わせると、鞄から手榴弾を取り出してそれを混乱に陥っている人々に向けて放り投げた。深緑色の球体は小さな弧を描いて宙を舞い、避難している人々の群れの最後尾に落ちた。

 カンッという音と共に手榴弾が床に落ちると、それは爆音を生むと同時に破片を周囲に拡散させた。破片は避難していた人々の頭、脇腹、背中、脚に突き刺さり、小さな破片を浴びることはなくても、多くの人々は爆風を浴びて互いに覆いかぶさるように崩れ落ちた。

 爆風によって岩田麻美も床に押し倒され、その衝撃によって耳鳴りがして意識が朦朧とした。顔を上げると短機関銃を持つ二人組の男が発砲しながら近づいてくるのが見えた。

 〝逃げなきゃ!〟頭の中でそう思っていても体が動かない。

 短機関銃から発射される複数の弾丸が、岩田から2メートルほど先に倒れている人々の背中と胸に命中して血飛沫と肉片が飛び散った。

 〝逃げなきゃ!〟

 起き上がろうとした時、真後ろから耳朶を震わせる女性の悲鳴が聞こえ、慌てて振り返った。そこには立ち上がって逃げようとしていた中年女性がおり、彼女は背中に複数の銃弾を浴びて糸の切れた操り人形のように倒れた。

 女性が銃弾を受けた際に岩田は女性の血を浴び、着ていた白い服が赤黒く染まった。彼女の心臓は今までにないほど高鳴り、喉が乾き、目から涙がこぼれ、そして、吐き気を覚えた。

 〝殺される…〟死への恐怖が彼女の思考を支配し、岩田は身を丸めることしかできなかった。

 短機関銃を持った二人の男は岩田のいる場所へ銃撃を加える前に、短機関銃から空になった弾倉を抜いて新しい弾倉を手に取った。

 右にいた男が再装填を終えた時、右膝裏に衝撃を受けて思わず片膝を強く床に打ち付けしまった。激痛に顔を歪めるも男は振り返って後方を確認しようした。その時、真後ろから花の破裂するような音が消え、隣にいた仲間が呻き声を上げて床に崩れ落ちた。驚いた男は振り返る前に仲間へ視線を向け、その際に左側頭部を殴られた。

 殴られた衝撃が強かったために男の頭は右へ動き、その隙を狙って井上は右斜め上から短機関銃を振り下ろして銃底で男の首筋を殴った。殴られた男は頭をガクンと落として床に落ちた。

 次に井上は流れるような動きで短機関銃に装填されている弾倉を左手で掴むと、撃たれた脚を抑えて倒れているもう一人へ銃口を向けた。男は歯を食いしばって呻いており、持っていた短機関銃から手は離れていた。だが、安全のため捜査官は男の額を蹴り飛ばし、蹴りを受けた男の意識は飛んで白目を向いて動かなくなった。

 井上は素早く銃口を周囲に向けて安全を確認すると、制圧した男たちから武器を取り上げて鞄に押し込んだ。彼は男たちの着ていた服を利用して相手の手を縛り、廊下の隅に移動させた。その後、周囲を見渡して捜査官は下唇を噛んだ。

 〝もっとペースを上げないと…〟遠くから聞こえてくる銃声を耳にして井上は思った。

 廊下には銃撃と手榴弾で負傷した人の呻き声と子供たちの泣き声が響き、捜査官は負傷している人々の様子を見ようと倒れている数人の男女と座り込んでいる人々の方へ急いだ。その時、彼は座り込んでいる人の中に岩田麻美を見つけ、我を忘れて彼女に近づいた。彼が顔と胸に血飛沫を浴びている女性看護師に近づくと、周りにいた人々は短機関銃を持つ捜査官を見て体を強張らせた。

 「大丈夫?」短機関銃を右手に持ったまま、井上は岩田の前で片膝をついた。

 彼の姿を見ると女性看護師は顔をくしゃくしゃにして捜査官に抱き付き、井上は戸惑いながらも左手を彼女の背中に回した。

 「まだ銃声が聞こえる。ここから逃げなきゃダメだ。」井上が自分の胸に顔を押し付けて泣いている岩田に言った。

 「どうなってるんだ?」井上の後ろにいた高齢の男性が尋ねた。

 「状況はまだ分かりません。」男性の方を見て捜査官は応えた。「まだ銃を持った男がいる可能性がありますので、気をつけて避難して下さい。先を急ぐので−」そう言って井上は立ち上がろうとした。

 「何処に行くの!」目を真っ赤にして泣いている岩田が顔を上げて声を大にした。「殺されちゃうよ!」

 井上は彼女を落ち着かせようと笑顔を作った。「大丈夫だよ。」

 「何処に避難すればいいの?」中年の女性が尋ねてきた。

 「何処かの部屋に鍵をかけて閉じ籠ることもできますが…」捜査官は廊下にいる人の数を確認した。出血が酷く、移動することが困難な人が4人ほどいた。

 〝12人か…〟

 「1階の裏口に守衛の部屋があったよね?監視カメラの映像を確認するような部屋。」井上が鼻水をすすっている岩田に尋ねた。

 女性看護師は涙を拭って小さく頷いた。

 「移動できる方を優先して裏口まで移動します。」井上は立ち上がり、改めて廊下にいる人々を確認した。「残りの方は応急手当をし、後ほど助けに来ます。」

 「全員で逃げるべきだろ!」脚から流れる血を止めようとしている若い男性の隣にいた高齢の男性が怒鳴った。「重傷者を見捨てるのか!?」

 「下手に動かすと、移動中に傷が広がることもあるので−」

 「そんなのやってみないと分からないだろうがッ!」井上が説明を加えようとしたが、高齢の男性は彼を遮った。

 「早く逃げないと連中が来るよッ!」中年の女性が井上に制圧された二人の男を指差して叫んだ。

 「まずは避難できる方を優先します。」肩に手榴弾の破片を受けていた岩田の同僚が額に大粒の汗を浮かべながら言った。「その後、私たちが重傷者の方々の手当てを行います。」

 井上は岩田の同僚である女性看護師を見て小さく頷いた。

 「すぐに移動します。皆さん、準備をして下さい。」そう言うと井上は短機関銃の弾倉を入れ替えた。弾倉に十分銃弾が残っていたが、遭遇戦に備えて新しい弾倉に替えた。

 裏口まで人々を避難させることも最優先課題であるが、井上は警備室にある監視カメラの映像を見て短機関銃を発砲している男たちの正確な位置を掴みたいと思っていた。

 〝そろそろSATの展開もできてると思うんだよなぁ〜。班長にお願いして突入してもらうか?〟



***



 車で移動していた井上と新川であったが、病院の5キロメートル手前から交通規制が入っており、二人を乗せた車は渋滞に巻き込まれて身動きができない状況にあった。この道路は高層ビルに挟まれており、常に車と人通りの多い場所であった。

 渋滞は4キロメートル以上続いており、車に乗る人々は苛々しながらスマートフォンで通話したり、携帯端末の画面を睨んだりしていた。クラクションを鳴らす者もいたが、その数は少なく、多くの人々は前の車が進むのを今かいまかと待っている。

 歩道も多くの人で埋め尽くされ、その中にはスマートフォンを片手に病院で起こっている事件の様子を見に行こうとする野次馬もいて、先を急いでいる通行人の邪魔をしていた。

 「車を置いて徒歩で移動しましょうか?」浦木がシートベルトを外して助手席にいる新川に尋ねた。「事件が解決するまで、この渋滞は解消されません。」

 「そうですね…」新川もシートベルトを外し、浦木が外に出ると急いで男性捜査官の後を追った。

 二人の捜査官は車の間を縫うように進み、警察が設けた規制線まで残り数キロメートルと迫った。新川は前を歩く半袖ワイシャツ姿の浦木の背中を追い、先頭を走る浦木は周囲に視線を配りながら前進を続けた。

 その音は規制線まで残り2キロと迫った時に聞こえてきた。

 浦木と新川は音源からおよそ100メートル離れていたが、その音に耳にして二人は振り返った。彼らが音の正体を掴む前に悲鳴が通りに響き、二人の捜査官が視線を走らせると、歩道で倒れている20人ほどの男女を発見した。無傷の者もいたが、何かには顔、腕、脚から大量の血を流している者もいた。

 〝爆弾?〟

 浦木がそう思った時、二度目の破裂音を耳にした。それは浦木の真横から聞こえ、彼は爆風を浴びて左にあった車に片手をついてバランスを取らなければならなかった。一方の新川は反応が遅れて、左腕を停車していた軽自動車の車体に打ち付けてしまった。

 〝なに?何が起きてるの?〟新川は恐怖して軽自動車に背中をつけ、落ち着きなく顔を左右に動かした。

 浦木は右手を腰へ伸ばし、インサイドパンツホルスターに収められているグロック19の銃把を掴んで視線を素早く通りに走らせた。特に警戒したのは最初と二度目の爆発が起きた地点の中間であった。しかし、パニックを起こして逃げ惑う人が多く、不審な人物を特定することができなかった。

 「浦木さん…」新川がゆっくりと男性捜査官に近づいた。「襲撃されているのは病院だけじゃな−」

 二人は固い何かが地面に落ちる音を耳にした。素早く浦木が音のした右へ視線を向け、5メートルほど先で転がっている深緑色の球体を確認した。

 〝クソッ!〟

 浦木は急いで逃げようとしたが、新川の反応が遅れていたので、咄嗟に彼女をミニバンと軽自動車の間に押し込んだ。その直後、彼は爆風を浴びて地面に叩きつけられた。頭部は打たなかったものの、強打した右腕と背中に鈍い痛みを感じた。

 爆風と破片は近くに停車していた車の窓と車体を傷つけ、一部の破片は通りに面している建物の窓ガラスに小さな穴と蜘蛛の巣状の傷を生んだ。

 「大丈夫ですか?」爆風から逃れていた新川は急いで倒れている浦木に駆け寄った。

 「なんとか…」男性捜査官は素早く起き上がって拳銃をホルスターから抜いた。

 〝何処だ?〟浦木は右手に持った銃を腰元に置き、再び歩道へ視線を走らせる。

 「班長に連絡します!」スマートフォンを取り出して新川が言った。

 「分かり−」口を開いた浦木はもう少しでその人物を見過ごすところであった。

 上下ともに黒い服を着た男は逃げ惑う人々の中に紛れていた。この男はもう一つの手榴弾を投げようと、安全ピンを抜いて投げる場所を確認した。そして、浦木と新川の姿を確認すると二人のいる場所へ投げようと振り返って右腕を大きく振り上げた。

 浦木はその瞬間を目撃した。反射的に銃を構えたが、多くの人々がいるため発砲することはできない。そうしている間に男は手榴弾を二人の捜査官の方へ投げた。






* * *



 大学に入学すると3人の友人ができた。

 彼らは同じ学部で、受講している講義がほとんど同じであった。新しい友人は草加亮に対して友好的に接していたが、両親の影響で人付き合いが苦手な彼は友人たちとある程度の距離を取っていた。草加にとって、彼らは同じ大学に通う学生であり、重要な存在ではなかった。

 そのような草加の姿勢を見ても、3人は今までの同級生たちと違って彼から離れようとはしなかった。むしろ、もっと草加と仲良くなって大学生活を豊かにしようと考えていた。

 友人たちの気も知らない草加は、朝は勉強して夜はアルバイトに勤しんだ。すべては母親に嫌われないため、そして、母親の負担を少しでも減らすためであった。大学での勉強とアルバイトに集中する彼は疲れていたが、それでも母親に見捨てられるかもしれない恐怖を思い出すと目の前に課題に臨んだ。
 ある日、社会学という講義で貧困に関する本を読んでくるように教授が学生たちに伝えた。多くの生徒は参考文献を挙げられても、すべては読まずに最初の数ページを読むだけであった。彼らとは対照的に草加亮は図書館へ行って参考文献を熟読した。

 今までは要点を記憶しようと思って読むことが多かったが、彼は社会学で挙げられた『日本の貧困』という新書に出てくる人物たちと自分の姿を重ねて読んだ。本の中には自分と同じように片親と過ごし、貸与式の奨学金を受けて大学に進学したものの、それを返済できる見込みがない元大学生がいた。その他にも自分の好きな絵の勉強をしたくても、経済的余裕がないために進学を諦めて就職した女性のことも書かれており、その女性は夢を諦めてもまだ苦しい生活を強いられていた。

 〝なんてことだ…〟

 草加は衝撃を受けると同時に涙した。この世の中には自分と同じ境遇、またはそれよりも悪い状況の人々が多くいることを知って悲しくなり、そして、自分一人だけが同じ問題で苦しんでいる訳ではないことを知ると少し気が楽になった。

 〝誰かがこの問題を解決しないといけない。〟

 今まで大学の講義のためだけに使っていた勉強の時間を、草加亮は日本における貧困問題を調べる時間に使うようにした。そして、その社会問題の勉強に使う時間は日に日に講義の勉強時間を侵食し、彼は図書館にある日本の貧困に関する本をすべて読む勢いであった。

 友人たちはオンラインゲームの話題で盛り上がっていたが、草加はもっぱら日本の貧困問題について議論しようと誘った。だが、友人たちは草加の話しを聞くフリをしてスマートフォンのゲームに夢中になっていた。

 〝コイツらは問題の深刻さに気づいていない!〟

 友人だと思い始めていた3人の態度を見た草加は何度も日本における社会問題について語り合おうとした。それでも彼の友人たちは、「俺たちに言われてもどうしようもないじゃん」と言うだけであった。そこで草加は社会学を専攻している学生たちとなら議論できると思ったが、彼らは草加の友人たちと同じようなことを言って草加亮を嘲笑った。社会学の教授も、「深刻な社会問題ではあるけど、具体的な解決はまだないし、すぐに解決できる問題ではない」と言って彼を失望させた。

 〝誰も真剣に貧困について考えていない…多くの人が苦しんでいるというのに!〟

 腹の奥底から込み上げてくる怒りを感じながらも、草加は図書館で貧困問題を学んだ。そして、彼はある一つの結論に達した。
 



* * *



 情報が錯綜する中、大会議室にいる捜査員たちは現場から来る情報とSNSに溢れている情報を照らし合わせて確認を行っている。

 SNSの中には誤った情報も含まれていたが、その中には襲撃が始まる前に不審な人物を現場付近で目撃したとの情報や、病院付近の住民や現場付近で働いている人々が投稿する写真や動画があり、これらの投稿からある程度の情報を入手することができた。また、分析官たちは現場付近の監視カメラ映像や国内で活動しているテログループの声明が発表されていないかを確認し、病院を襲撃しているグループの特定を急いでいた。

 その最中、襲撃を受けている3つの病院に向かっていた捜査官たちが手榴弾で攻撃されているとの情報が飛び込んできた。

 「浦木と新川の状況は?」半田がノートパソコンの画面と向き合っている柄沢に尋ねた。

 「まだ連絡がつきません!」後ろにいる上司へ顔を向けず、大声を上げて男性分析官が応えた。彼は波のように押し寄せてくる情報を整理しようと必死であった。

 「井上は?」柄沢の隣に座る女性分析官へ視線を移動させて半田が尋ねた。

 「まだ連絡は来ていません。」増井もノートパソコンの画面から視線を外すことはなかった。「先ほど、インターネット掲示板に投稿されていた声明文らしきモノを書いた人物の住所が分かりました。捜査官を送りましょうか?」増井は捜査員へすぐメッセージを送れるよう、ノートパソコンの画面の隅にチャットボックスを表示させた。

 「頼む。」

 上司の言葉を聞くと素早く増井はキーボードを打ち、目的地の近くにいる捜査員にメッセージを送信した。

 半田のスマートフォンが振動し、彼は右手に持っていた携帯電話の画面を確認すると素早く電話に出た。

 「井上か?」

 「はい…さっきはすみませんでした。」井上は開口一番謝った。

 「気にするな。それより状況は?」

 「先ほど再び2名と交戦し、無力化した後に12名の民間人と病院の裏口に向かって移動しています。SATの突入はないんですか?」

 「今回はJCTCで要請した部隊じゃないから、突入の決定権は警視庁にある。」半田は井上が無事であることを知って安堵していた。「病院内の安全は確保できたのか?」

 「いえ、まだ短機関銃を持った奴が少なくとも4人はいると思います。」

 「お前はまず12名の民間人と共に病院から逃げろ。」

 「まずは民間人を裏口から避難させますが、その後は引き続き救出活動を続けます。ですから、早くSATを突入させる準備をしてくれませんか?」

 「分かったから、お前も逃げろ。後は俺たちがなんとかする。」

 「お願いします。」

 電話が切れた。

 「半田さんッ!」

 背後から声が聞こえてきた。振り返ると同じ3課4班の班長である園田真理子がいた。

 「井上からですか?」

 半田は彼女の問いにすぐ答えなかった。

 「さっきの電話は井上からですね?」

 「そうですが、何か−」

 「彼は病院内にいる貴重な情報源です。何故、私たちにも聞こえるように話していただけなかったのでしょう?」園田は半田の言葉を遮った。

 「先ほどのように、全員に聞こえるよう通話すれば、井上は質問責めにあうでしょう。ストレス下に置かれている彼に、余計なストレスを与える必要はないでしょう。それに井上との通話を隠すつもりもないですし、この通話は既に録音されています。」

 「それでもリアルタイムで情報を共有する必要があるんです。今の状況を分かっていますか?」園田は半田の態度が気に食わなかった。

 「分かっています。報告がありますので、この話しは後でもいいでしょうか?」

 「状況が状況ですからね。後にしましょう…」そう言うと園田は自分の班員たちがいる場所へ戻った。

 半田は急いで課長の袴田がいる机へ走り、井上からの連絡を伝えた。

 「SATの突入は私たちで対応しよう。君たちは井上のサポートをし、民間人の保護に集中してくれ。」

 「分かりました。」

 袴田は走り去って行く半田の背中を見送ると、隣にいる第1課と2課の課長へ顔を向けた。

 「請け負ってしまったが、警視庁は突入に反対するでしょうな…」袴田が言った。

 「体面を気にして突入はしないでしょう。それに病院以外でもテロ事件が起こっている。おそらく皆さん、パニックでしょう。」第1課の課長である一文字が忙しなく働いている部下たちを見つめながら呟いた。

 「そうなると、テロリストが立て篭もって要求を出すまで待つしかないと…?」第2課の風見課長が誰となく尋ねた。

 「立て籠るのが目的に見えない。無差別に殺すのが目的だろう。それに病院付近で起きている手榴弾の攻撃は、病院にいる仲間を逃すための陽動かもしれない。」一文字が顎を摩った。

 「そうだとすれば、早くSATを突入させないといけませんね…」袴田は下唇を噛んだ。

 「今は病院に送ったこちらの捜査官たちに、陽動と考えられるテロリストの攻撃をできるだけ防いでもらうよう頑張ってもらいましょう。」一文字は左手首に着けている腕時計を見た。「そうすれば、SATは病院のテロリストに集中できるはずです…」



***



 手榴弾は地面に落ちると転がって白い乗用車の下に入った。その車に乗っていた運転手は二度目の爆発後、車を置いて逃げていた。

 白い乗用車が浦木と新川の位置から5メートルほど離れた場所で停車していたが、二人の捜査官は急いで近くにあったミニバンの陰に飛び込んで衝撃に備えた。

 深緑色の手榴弾は車の下で爆発したものの、白い乗用車の車体を数センチ持ち上げ、限定的ではあったものの爆風と破片を周囲に拡散させた。

 爆発音を耳にし、足に軽い爆風を感じた浦木は隠れていたミニバンから身を乗り出して先ほど見つけた男の姿を探し求めた。通りには逃げ惑う多くの人がおり、男性捜査官はミニバンから離れて視線を周囲に走らせた。

 「先ほど見つけた男を追います。」そう言って浦木は拳銃を胸の前で構えて走り出した。

 「はい!」新川もG19をホルスターから抜いて浦木の後を追った。

 車両の間を走って浦木と新川は左右の通りに視線を向け、手榴弾を投げた男の姿を探した。しかし、あまりにも人が多すぎて不審な人物を見つけることはほぼ不可能であった。

 〝さっきのアイツは何処に?〟

 「人が多すぎますッ!」後ろにいる新川が浦木に声をかけた。

 「もう一度攻撃する気であれば、必ず姿を見せるはずです。」

 「分かりました!」

 後ろを振り返る人々の顔を確認し、浦木は先ほど見た男かどうか見極めなければならなかった。それに混乱を作ることが目的であれば、さらなる攻撃を仕掛けてくる可能性が高いと推測した。だが、相手の攻撃を待つということは、さらなる犠牲者を生む、または彼と新川の命が危険に晒される可能性が高くなることも意味している。

〝仕方ない…〟浦木は胸の前で構えていた拳銃の銃口を地面に向け、二度引き金を絞った。G19が小さく男性捜査官の手の中で跳ね、2発の銃弾が地面に命中して小さな破片と埃が舞い上げた。

 銃声が通りに響くと複数の女性の悲鳴が上がり、逃げていた人々の中には振り返って状況を確認しようとする者もいた。その中には上下黒い服を着た男もおり、浦木は一瞬のことではあったが男の位置を確認した。

 「止まれッ!」銃口を男へ向けて浦木が大声を上げた。

 すると、黒い服を着た男は再び振り返って銃を構える男性捜査官を見つけた。男は素早く鞄に右手を入れて手榴弾を掴もうとしたが、そこにもう爆弾はなかった。

 〝クソッ!〟黒い服の男は前を走る人々を押し除けて浦木と新川から逃げようとした。

 浦木は再び銃を胸の前で構えて、逃げた男の後を追った。

 少し遅れていた新川も黒い服の男を追跡しようと先導する男性捜査官の後を必死に追いかけた。好意を寄せている男性捜査官の背中を追いながら走っていた時、彼女は左側の通りで素早く動く何かを視界の隅に捉えた。それは新川ではなく、浦木に接近していた。

 「浦木さんッ!」異常を知らせようと新川が叫んだ。

 彼女の声に反応して浦木が振り返った時、背中に衝撃が走り、右にあったSUVの車体に体を叩きつけられた。急いで後ろを向いたが、その直後に浦木は左頬と腹部を殴られた。



(続くのかな?)

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S.N.A.F.U. (2) [S.N.A.F.U.]

第2話








 イタリアン料理店で行われていた男3女3の合同コンパは、井上の期待を大きく超えていた。

 “女の子のレベルが高いッ!”捜査官はテーブルを挟んだ向かい側に座る3人の女性に見惚れていた。“今度こそ!今度こそ、彼女ゲットするぞッ!”

 端の席にいた井上は高ぶる気持ちを抑えながら、向かい側に座る長髪の女性に視線を向けた。それに気づいた女性が笑顔を浮かべ、井上は心臓を貫かれたような衝撃を受けた。

 “か、カワイイ…”

 覚悟を決めて話し掛けようとした時、隣にウェイトレスが現れた。

 「ご注文はお決まりですか?」

 「ちょっと待ってもらえますか?」井上がウェイトレスに顔を向けた。

 「かしこまりました。」

 井上が前に座る女性たちに何を注文するか尋ねようとした時、彼は視界の隅で光る何かを目撃した。捜査官が急いでそれを確認しようと視線を向ける。だが、遅すぎた。
 
 再びウェイトレスの方を向いた時、ナイフの刃が深く彼の腹部に刺し込まれた。急いでナイフを持つウェイトレスの手を抑えようとしたが、彼女はそれを振り切って素早く2度、井上の腹部を刺した。刺された箇所に激痛が走り、彼は床に転げ落ちた。

 テーブルを挟んだ向かい側に座る女性たちが悲鳴を上げ、井上の隣にいた友人は椅子から立ち上がるも恐怖のあまり動けなかった。ウェイトレスは馬乗りになって井上の動きを抑えてナイフを逆手に持ち、捜査官の首に向けて振り下ろした。

 そこで井上は目を覚ました。心臓が高鳴り、額には大粒の汗が浮かんでいる。視線の先には見慣れた天井があった。腹部に重みを感じて枕から頭を上げると、太った三毛猫が井上の上に座って飼い主を見つめていた。

 「猫ざえもぉ~ん」井上が猫を抱き上げた。「途中までいい夢だったのにぃ~」

 名前を呼ばれた三毛猫が小さく鳴いた。

 「もうご飯の時間?」起き上がって井上は猫を床に下ろしてやった。「お前は食いしん坊だなぁ~」そう言って彼は乾燥タイプのキャットフードを皿に入れ、いつもの場所に置いた。時計を見ると朝の5時であった。

 「そろそろ準備するかぁ~」



***



 エレベーターを待っていると右隣に背の高い男が並んだ。

 浦木が男へ顔を向けると、第2課3班の『田丸班』に所属している武内卓が笑顔を浮かべた。

 「半田班の方ですよね?」武内が尋ねた。

 「はい…」浦木は男の顔に見覚えがあったが、相手の名前と所属を思い出せなかった。

 「先日はありがとうございました。」

 状況が呑み込めなかったが、浦木はこの場を切り抜けるために一礼した。

 エレベーターのドアが開き、武内が片側のドアを抑えて浦木に道を譲った。再び一礼して新人捜査官がエレベーターに乗り込み、開閉ボタンを押して武内が乗り込むのを待った。乗り込むと二人は目的の階のボタンを押し、肩を並べて中央に立った。

 「お名前をお聞きしてもいいですか?」と武内。

 「浦木です。」

 「私は武内です。」

 名前を聞いて浦木は男のことを思い出した。

 “田丸班の人か…”

 「課は違いますが、何かあった時はお互い協力していきましょう。」武内が右手を差し出した。

 折角の機会だと思った浦木は武内の手を取った。すると、田丸班の男は強く浦木の右手を握り、新人捜査官は鈍い痛みを感じた。武内は笑顔を浮かべていたが、内心では手柄を他の課の新人に横取りされたと思い込み、腸が煮えくり返りそうになるほど苛立っていた。

 “この人、そういうタイプなんだ…”浦木は握り返そうとしたが、波風を立てたくなかったので抵抗しなかった。

 エレベーターが止まってドアが開いた。

 「また会いましょう、浦木さん!」そう言って武内が去って行った。

 “明日から階段を使うか…”

 オフィスの机は珍しく全て埋まっていた。浦木の所属する課は、『3課』と呼ばれる主に極東アジア関連のテロ事件を捜査する部署である。この課には5つの班が存在し、彼は5班こと『半田班』に配属された。

 パソコンの画面と睨み合う同じ課の人々を横目に、浦木は右端にある5班の机へ急いだ。彼以外の班員は既に着席しており、井上以外の班員はパソコンと向き合って忙しなくキーボードを叩いていた。一方、真面目に働く同僚の横で井上は漫画雑誌を読んで肩を震わせていた。

 「おはようございます。」浦木が手提げ鞄を机に置いて言った。

 「おはよう。」作業を中断させて同僚たちが顔を上げ、新人捜査官に挨拶を返した。

 「オレたちはまた待機らしいぞぉ~」井上が雑誌を机に置いて向かい側に座る浦木を見た。

 「差し迫った危機がない証拠じゃないですか。」新人捜査官は鞄を机の下に入れ、引き出しからノートパソコンを取り出した。

 「でも、体が鈍ってくるだろ?訓練センターに行かないか?」井上が机に両肘をついて身を乗り出した。

 「今日は止めておきます。捜査資料の整理の手伝いをしようと思います。」

 これを聞いた浦木の隣に座る女性分析官の増井が井上を見た。「井上さんも手伝って下さいよ。」

 「そうだ、そうだ。」井上の隣に座る新川が増井を援護した。

 「オレは肉体派なのッ!」気分を害した井上は漫画雑誌を取って適当なページを開いた。

 「子供みたい…」そう呟いて増井は作業に戻った。

 班員たちのスマートフォンが振動し、画面を確認すると班長の半田からメッセージが入っていた。

 <第二会議室に集合。>

 「遂にオレの出番じゃねぇ?」井上が椅子から立ち上がった。彼の顔には笑顔が浮かんでいる。

 「だといいな…」端の机に座っていた柄沢がノートパソコンを持って立ち上がり、井上の後ろを通り過ぎた。

 「間違いないですって!」柄沢の後を井上が追う。

 二人に続いて増井、新川、浦木の順で第二会議室に向かった。



***



 男は押し入れの奥に隠してあった白いゴミ箱を取り出した。

 箱の中には500mlのペットボトルが2本入っており、容器は無色透明の液体で満たされていた。男はゴミ箱からペットボトルを1本取って、ゴミ箱の蓋を閉めると再び押し入れに戻し、それを隠すように服や段ボールを置いた。

 次に取り出したペットボトルと、コンビニで適当に購入した雑誌と本をメッセンジャーバッグに入れた。雑誌と本を入れた理由は、職務質問を受けた際に警察官の注意を逸らすためであった。しかし、今のところ警察の目を惹くようなことはなく、いらぬ心配であったが、念には念を入れて関係のない物も鞄に入れるようにしていた。

 “これで残り2本…”

 男は焦りを感じていた。計画が想像していたよりも上手く進んでおらず、現場付近で怪しい人物を見ることが多くなっていたからだ。幸いなことに尾行を巻くことはできているが、居場所が発覚するのも時間の問題だと思っていた。

 “慎重に行動しなければ…”

 メッセンジャーバッグを右肩にかけて男はアパートを後にした。



***



 円を描くようにテーブルを囲んで座る5人は班長の半田が来るのを待っていた。

 「今度こそ3課に関係のある事件でありますように!」両手を合わせて祈るように井上が言った。

 「前回のは例外だから、もう無いと思うな。」柄沢が天井に取り付けられたプロジェクターの準備を始めた。

 「でも、あれ以降2課は大忙しですし、もしかしたら、応援要請もありえますよ。」と増井。

 「それだけは勘弁…」新川が頭をカクンと下に落とした。前回担当した2課関連の仕事量が多かったので、彼女はもう二度と関わりたくないと思っていた。

 新川の意見に浦木も同感だった。武内との一件から面倒事を避けるためには、2課との接触を極力少なくすべきだと考えていた。

 「今回も2課関連だったら―」

 その時、黒いスーツ姿の半田が会議室に入って来た。

 「今回も2課関連だったら、いいのに…なぁ~」井上が無理に笑顔を作って班長に向けた。

 「おはよう。」半田がドアを閉めて班員に言った。「残念だが井上、今回は2課関連じゃない。」

 「それは残念です。」小さく頷きながら井上が机を見つめ、内心では踊り出したい気分であった。

 「3課関連のテロ事件ですか?」井上を横目に新川が尋ねた。

 「その可能性があるから集まってもらった。」半田が視線を柄沢に送った。

 視線を受けた分析官は数分前に受け取ったデータを、プロジェクターを通して白い壁に表示させた。井上と浦木には理解できない文字列だけのウィンドウもあったが、二人はそれを無視して画面の中央に表示された500mlのペットボトルの画像と複数の赤い点が付けられた東京都の地図に注目した。

 「化学兵器ですか?」班長の半田が口を開く前に井上が尋ねた。

 「そう急ぐな。すぐ説明する。」井上に視線を送った後、半田は壁に表示された写真に顔を向けた。「3ヶ月ほど前から東京都の地下鉄駅構内で、無色透明の液体が入った500mlのペットボトルが相次いで発見されている。今のところ確認できている数は26本。この写真はその内の一つだ。」半田が班員たちを見た。

 「確認できるというこということは、未発見の物もあるということですか?」と浦木。

 「あぁ。ゴミと思って処分した清掃員もいたらしいから、未発見の物もある。」

 「駅の職員や乗客に異常は?」井上が間を置かずに訊いた。

 「ペットボトルが発見された駅の駅員に検査を受けてもらったが、異常は見られなかった。」

 「んじゃ、ただイタズラじゃないんですか?」井上の顔に落胆の色が浮かんだ。彼は今回の仕事が警察の仕事だと思い、やる気を失いつつあった。

 「イタズラなら俺たちのところにこの仕事は来ない。」半田が語気を強めた。「ニュースは見てるだろう?米朝首脳会談で北朝鮮が提示した核弾頭とミサイルの保有数が実際の3分の1以下であることが明らかになり、アメリカが北朝鮮に対する経済制裁の強化を検討している最中だ。」

 「それと今回の件に何の関連性があるんですか?」話しに付いて行けなくなった新川が言った。

 「この制裁で北朝鮮が海外に持つ隠し口座の凍結と北朝鮮関連企業の営業停止される予定で、その対象に日本の銀行や日本国内で活動している北朝鮮関連企業も含まれている。この経済制裁の報復として、北朝鮮が再びミサイルを発射してアメリカを挑発、またはアメリカの求心力を削ぐため、その同盟国の日本と韓国に何かしらの工作を仕掛ける可能性がある、と内調(内閣情報調査室)は考えている。」半田は丁寧に説明したつもりであったが、新川はまだピンと来ていない様子であった。見かねた班長は情報を付け加えることにしたが、その前に井上が再び口を開いた。

 「それじゃ、そのペットボトルは北朝鮮の工作の一部っていうことですか?」

 「その可能性がある。が、100%ではない。」と半田。「もし、経済制裁が強化され、今まで見逃されていた日本国内にある北朝鮮向けの資金が断たれれば、北朝鮮にとって大きなダメージになる。ゆえに、それを阻止するための工作が行われるかもしれない。」

 「でも、それだけじゃ、このペットボトルが北朝鮮絡みとは思わないですよね?何かあるんじゃないですか?」井上が椅子の背もたれに寄りかかった。

 「その通り。」半田が再び柄沢に視線を送り、分析官が新しい写真を壁に表示させた。それは拡大された画像で鮮明ではなかったが、駅の構内で佇む男の顔を確認することはできた。

 「この男は?」浦木が片肘を机に乗せ、男の顔を脳裏に焼き付けようとした。

 「男の名前は『チェ・ワンシク』。NIS(国家情報院)の職員で、広報・文化交流部門の担当として韓国大使館で2年前から活動しています。」柄沢が半田に代わって説明した。

 「韓国のエージェントと北の仕業らしいペットボトルの関連性ってあるんですか?なんか話しが逸れてるような…」と井上。

 「ペットボトルが発見された場所にこの男がいた。一度や二度じゃない。現在のところ、6件の現場でこの男の姿が確認されている。」半田が両手を机に置いた。「実行犯ではないだろうが、何か知っているかもしれない。井上と浦木はチェ・ワンシクを尾行し、事件との関連性を調べろ。柄沢と増井は井上と浦木をサポートしながら、類似した事件とチェについて調査をしてくれ。助けが必要なら4班の分析官たちがサポートしてくれる。」

 新川は自分の名前が呼ばれなかったので、じっと班長を見つめて存在をアピールした。

 「新川は俺と一緒に現場へ行って聞き込みを行う。」

 〝聞き込み?〟女性捜査官は混乱した。

 「各自、気を引き締めて取り掛かってくれ。」



***



 モニター画面の右端に表示されている時計を見た。

 12:00。

 昼の休憩に入ろうと、チェ・ワンシクが立ち上がって椅子の背もたれにかけていたスーツの上着を取った。今日は気分を変えて200メートルほど離れた場所にあるカフェへ行こうと考えていた。ゆえに同僚に昼食を誘われても断り、急いで目的のカフェに急いだ。

 カフェには4人掛けのテラス席2卓とカウンター席が12席しかなく、店で昼食を済ませたいチェは席が埋まる前に店に着きたかった。

 「お出でなすったぜ…」大使館から80メートル離れたマンションの屋上にいた井上が単眼鏡越しにチェの姿を確認した。彼の声は右耳に差し込まれている通信機を通して、大使館近くのカフェで待機していた浦木の耳に届いていた。「二の橋方向に向かってる。おそらく昼メシだろうな…」

 浦木が席を立って外に出た。腕時計に目を配り、時間を確認するフリをして対象者の姿を探した。しかし、昼の時間だったので通りを歩く人の数が多く、見つけることができなかった。

 「三時の方向だ。約5メートル先を歩いてる。」井上の声が右耳の通信機から聞こえてきた。

 「了解…」浦木が左を向いて歩き出した。

 しばらく歩いていると、早足で移動しているチェを見つけた。

 「尾行はいますか?」と浦木。

 「いや、いないよ。今のところは…」井上が舐めるように単眼鏡で通りを確認した。

 「急いでるようですが、何かあったんですかね?」

 「待ち合わせでもしてるんじゃねぇ?ちなみに、そろそろお前たちが死角に入るから移動するぞ。」最後にもう一度大使館のある通りを確認してから井上はその場を後にした。

 「途中でタクシーを拾われたら困るので、車の準備をお願いします。」対象者と一定の距離を保ちながら浦木が言った。

 「あいよ。」

 チェが交差点で左に曲がった。今まで真っ直ぐ歩いていたので、浦木はこれが尾行確認の行動ではないと思い、歩くペースを変えずに同じく左へ曲がった。しかし、通りにチェの姿はなかった。歩くペースを緩めずに新人捜査官は視線だけを通りに走らせたが、対象者は見つからなかった

 「どうなってる?」通信機から井上の声が聞こえてきた。

 「見失ったかもしれ―」新人捜査官が振り返って周囲を確認すると、曲がり角にある小さなカフェを見つけた。

 「やらかしちゃった?」

 「いや、ちょっと確認し忘れたところがありました。」浦木が見つけたカフェに入り、店内を見回した。チェは通りに面したカンウンター席に座ってスマートフォンを操作していた。

 「見つかった?」再び井上の声が聞こえてきた。

 「接触します。」

 「おい!早すぎ―」

 通信機を外したので井上の声は浦木の耳に届かなかった。彼は空いていたチェの隣に座った。韓国の諜報員は横目で隣に座った男を確認しただけで、すぐスマートフォンの画面に集中し直した。

 「チェ・ワンシクさんですね?」窓越しに通りを見ながら浦木が口を開いた。彼は敢えて隣に座る男を見ず、前を見つめて相手の反応を窺った。

 今までスマートフォンを見ていたチェは再び横目で相手を見た。男の顔に見覚えはなく、顔立ちから日本人に見えた。

 〝公安か?〟

 「少しお聞きしたい事があります。」視線を感じたので浦木が顔を諜報員に向けた。

 その時、店員がパンとコーヒーを持ってきた。

 「すみませんが、急用が入ったのでキャンセルします。」流暢な日本語で店員にそう言うと、チェが椅子から立ち上がった。店員が戸惑っている間に韓国の諜報員は足早に店を後にした。

 大使館に戻るチェを窓越しに見送ると浦木も店を後にし、通信機を再び右耳に差し込んだ。

 「―いッ!きぃー、てぇー、るぅー、かぁー?」耳に差し込む前から井上の声が聞こえてきた。彼はずっと新人捜査官に声をかけ続けていた。

 「聞こえてますよ。」

 「んで、どうなった?」

 「逃げられました。」二の橋方面に歩き出して浦木が言った。

 「だよねぇ~。ってか、浦木さぁ~、君、好きな子ができたらすぐ告白するタイプでしょ?」

 突然の無関係で無礼な質問に浦木は苛立ちを覚えた。

 「何の関係があるんですか?」

 「相手のことも考えろ、ってこと。とりあえず出直さなきゃな。尾行の点検してから合流しようぜ。」



***



 聞き込みの収穫は皆無であった。

 半田と新川は3本以上のペットボトルが発見された駅2つを訪れ、駅の職員に構内で見られたトラブルや不審物、忘れ物や落し物について尋ねた。

 「トラブルの内容はいつもと変わらないですよ。スリやケンカ、痴漢ですね。」聞き込みに応じてくれた男性職員が言った。「不審物と言っても、大半が忘れ物ですし…落し物なんて毎日見つかってます。」

 「最近、水の入ったラベルの無いペットボトルが、駅の構内で見つかっていると聞きました。その処理はどうしていますか?」半田が尋ねた。

 「あれは巡回している警察の方が見つけたんですよ。最初はゴミだと思ったそうですが、何度も同じ物を見るようになったので回収し始めたそうです。だから、僕らも見つけたら警察に届け出るようにしています。」

 「では、その前からペットボトルは見つかっていたんですか?」と半田。

 「かもしれません…」自信のない職員の回答は歯切れが悪かった。「清掃の方々もゴミだと思っていたらしいので…それに僕らもあまり注意して見ていなかったので…」

 もう一つの駅でも同じようなやり取りを繰り返し、これ以上調査しても意味がないと判断した半田と新川は車に戻った。

 「井上と浦木さんに期待するしかなさそうですね。」シートベルトを締めて新川が言った。

 「一応、本部に連絡するか…」スーツの上着からスマートフォンを出すと、半田は柄沢の番号を選択してダッシュボードにあるスマートフォン用のスタンドに電話を置いた。そして、相手が出る前にスピーカーモードにして、新川も会話に入れるようにした。

 「柄沢です。」スタンドに置かれたスマートフォンから分析官の声が聞こえてきた。

 「何か進展はあったか?」

 「あまりないです。あるとすれば、浦木がチェに接触を試みたことですかね…」

 半田は驚いた。情報が少ない段階で、しかも、相手が海外の諜報員であることから、接触はあまりにも無謀な行動である。

 「それで結果は?」

 「逃げられました。」

 〝当然だな…〟半田は浦木と話す必要があると思った。

 「チェについてですが、訪日前は北朝鮮部門の情報分析官だったようです。3年前に作成された、韓国国内で活動する北朝鮮工作員の現状に関するレポートにチェの名前がありました。日本に派遣されたのも北朝鮮関連かもしれませんが、日本または日本にいる何かを対象とする部門に異動した可能性もあります。」

 「類似した事件の捜査はどうなっている?」半田が話題を変えた。

 「過去10年の捜査書類にアクセスしましたが…」増井が柄沢の代わりに話し始めた。「似たような事件はありませんでした。水の入ったペットボトルなので…ゴミと間違われて捨てられることが多く、事件性はないと思われているのかもしれません。」

 〝確かに普通に考えればゴミと思うだろうな…〟駅員の言葉も思い出しながら半田は思った。

 「科捜研から連絡はあったか?」

 「検査結果が出たと連絡がありました。」柄沢が応えた。

 「分かった。一度、そっちに戻る。」半田が電話を切り、車のエンジンをかけた。

 「班長…」今まで黙っていた新川が口を開いた。「あのぉ~、イラズラの可能性はないんですか?」

 サイドブレーキを落して半田が助手席に座る部下を見た。「ないとは言えない。しかし、断定することができない以上、調べ続けなければならない。」

 新川は何も言わなかった。しかし、上司の説明には納得していた。

 〝最近物騒だから、何でもかんでも怪しく見えちゃうのかも…〟窓の外を流れる景色を見ながら女性捜査官は思った。

 
 
***



 予想外の結果に男は驚いていた。

 警察関係者による監視を疑っていたが、彼を尾行していた人物が韓国大使館の職員であることが探偵の調査によって明らかになった。

 「何かの間違いだと思いますよ。」運転席に座る探偵が言った。探偵の身なりは整えられており、髪はショートカット、服は濃紺のスーツ、靴はしっかりと磨かれた革靴であった。

 2週間前から地下鉄の駅でスーツ姿の男を目撃するようになり、危機感を持った男は尾行者の写真を撮影して探偵に仕事を依頼した。依頼する際に男は「妹のストーカーの正体が知りたい」と言って、尾行者の写真を渡した。正義感の強い探偵は快く、何の疑いも持たずに男の仕事を引き受けた。

 「確かですか?」男が尋ねた。

 「1週間ほど調査しましたが、この人物が韓国大使館の職員であることは間違いないです。しかし、彼はあなたの妹のストーカーではないでしょう。基本、仕事と自宅の行き来ですし―」話している途中で探偵は言い忘れていたことを思い出した。「そうだ!帰宅する際に彼はいつも遠回りします。しかし、常にランダムで、1時間ほど駅をブラついて何もせずに帰宅していて、でも、誰かを尾行しているようには見えなかったです。それにしても、遠回りしている理由は不明です。」

 〝しばらく行動を自粛していたからな…〟男は思った。改めて探偵の調査ファイルに目を通す。ファイルには1週間の行動記録のほか、尾行者の住所も記載されていた。〝チェ・ワンシクか…〟

 「助かりました。」男がファイルをメッセンジャーバッグに入れた。「報酬は今日中に振り込んでおきます。」

 「お役に立てて光栄です。また何かありましたら、ご連絡下さい。」

 探偵の車から降りて男は何度も尾行の確認を行ってから、探偵に会う前に立ち寄った駅のコインロッカーからペットボトルとスマートフォンを回収した。ペットボトルを片手に男は改札口を抜け、ホームの端にあるベンチに座って脚の間にペットボトルを置いた。

 電車が来るまでスマートフォンでニュースを確認し、ホームに電車の接近を報せるアナウンスが聞こえると右足でゆっくりとペットボトルを押してベンチの下に入れた。電車がホームに進入し、目の前を通過する際に生じた風を全身に浴びた。男は立ち上がって車両に乗り込み、再びスマートフォンでニュースを確認した。

 次の駅に到着すると、男は発車する直前に急いで車両を下りた。

 〝邪魔者には消えてもらおう…〟
 
 
 
***



 当時官房長官であった小田完治の設立した対テロ捜査機関は『日本交通保安協会』という法人の形で存在し、関係者の間では『ネズミ取り』と呼ばれていた。後者の呼び名は、時の内閣総理大臣大沼茂雄が付けた物であり、隠密に活動するテロリストを「ネズミ」に例え、それを追う捜査官を集める機関であるから「ネズミ取り」という暗号名が与えられた。

 しかし、この対テロ機関は後に組織改編が行われ、『日本テロ対策センター』、通称『JCTC(Japan Counter-Terrorist Center)』という名に変更された。前の機関との大きな違いは組織内の細分化である。

 ネズミ取りの場合、大まかに「捜査」、「分析」、「戦術」、「警備」の4部門に分かれており、部門内の専門性はあまり重要視されていなかった。これは火災事故として処理された自衛隊基地に対する攻撃の後、小田完治とその協力者たちが対テロ機関の設立に急いでいたという背景もある。数々の事件を解決してきた機関であったが、組織運営に関する問題が浮上してきたため、ネズミ取りの大規模な組織改編が行われた。

 半田と新川が訪れている科学捜査研究所こと科捜研も、組織改編によって新たなに設立された部署の一つであった。調査内容によって、大学や研究所に助けを求めることもあるが、十分な機材がJCTC内に備えられており、また機密性のある内容であることが多いために他の機関と連携して調査することはほとんどない。

 「お待たせしました。」椅子に座って待つ二人のところに白衣を着た女性が入って来た。縁なしの眼鏡をかけた長髪の科捜研の職員は右手に持っていたファイルを机の上に置いて、二人の捜査官と向かい合うように腰掛けた。長い髪を後ろで束ねた色白の女性職員は半田と新川に視線を向ける前にファイルを開いた。

 なぜ科捜研に連れて来られたのか理解できていない新川は、緊張しながら女性職員の動きを見守った。

 「まだ完全な結果は出ていませんが、大半のペットボトルの中身はただの水でした。」女性職員がファイルから顔を上げて言った。「正確に言えば、分析した26本中17本の内容物は市販されている水で、残りの9本は川水でした。また、その9本から高濃度のセシウム137とストロンチウム90が検出されました。」

 半田が視線を職員の前に置かれているファイルへ移動させた。すると、女性職員がファイルを半田の方へスライドさせた。

 「ストロンチウム90が0.75ミリベクレル、セシウム137が4.1ミリベクレルとなっています。仙台湾の海水で確認された放射能に近い濃度です。」科捜研の女性職員がファイルに集中している彫りの深い顔立ちの男を見て言った。

 「東京湾でも似た数値が出たことがありますよね?」と半田。

 「ありますね。ちなみにペットボトルの水から検出されたプランクトンからも、高濃度の放射性物質が確認されています。もう少しお時間を頂けたら、詳しいことが分かると思います。」

 〝さっぱり分からん…〟新川の頭はパンク寸前であった。二人の会話の内容に付いて行けず、もう聞き流す方が良いと思い始めていた。

 「それでは詳しいことが分かりましたら、また連絡を下さい。」半田が椅子から立ち上がり、釣られて新川も立ち上がった。

 「分かりました。」女性職員も立ち上がり、ファイルを回収してから部屋のドアを開けた。

 半田が一礼して退出し、新川は「失礼しました」と言って部屋を後にした。

 エレベーターに乗り込むと新川が恐る恐る上司の顔を横目で見た。半田は上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して、着信とメッセージの有無を確認していた。

 「班長…」新川が静寂を破った。

 部下の声に反応して半田が顔を彼女に向けた。

 「あのぉ~、あれってどういう意味なんですか?」

 「あれとは?」

 「さっきの会話です。放射能とかセシウムだかとか…」

 半田は再びスマートフォンの画面に顔を戻した。

 「どうやら俺たちの追っている相手は、北朝鮮の工作員ではないかもしれないってことだ。」

 「えっ?」

 新川が聞き返そうとした時、エレベーターのドアが開いた。

 「まずは井上と浦木に連絡する。もしかしたら、チェが現場にいたのは偶然だったのかもしれない…」



***



 昼の件からチェ・ワンシクは警戒を強め、他の職員たちも韓国大使から警戒するように伝えられていた。

 また、危険が及ぶことを考えた駐在武官はチェに護衛を付けることにした。大使館付近で日本の公安警察と思われる人物が接触を試みた事から、駐在武官は大使館が監視されていたと想定し、大使館職員を護衛に付けるのは賢明ではないと判断した。ゆえに彼は日本国内にある韓国企業で民間人として働いている、NISの工作員にチェの護衛を頼んだ。

 チェの車が大使館を出ると、彼の護衛はしばらく待ってから車のエンジンをかけて警護対象者の後を追った。すぐ追いかけなかった理由は、チェを尾行する者の存在を確認するためであった。

 NISの工作員は警護対象者との間に車を6台入れ、GPSを頼りに対象者の後を追った。チェと距離を開けることは危険であるが、尾行の有無を確認する手段であり、今回のように準備不足で多くの人員と車が使えない場合は慎重に行動しなければならない。対象者に近すぎれば、警戒していることを悟られる恐れがあり、また相手の警戒心を高めて逃げられる可能性もある。駐在武官はできるだけ静かに、そして素早く問題を解決したいため、危険を侵す必要があると考えた。

 自宅に近づくに連れて車の数が少なくなり、チェの住むマンションまで8キロメートルと迫った時、チェと彼の護衛の車しか道路を走っていなかった。

 その時、スマートフォン用のスタンドに置いていた携帯電話が鳴り、対象者の車から目を離さずに画面に触れてNISの工作員が電話に出た。

 「もうすぐ自宅に到着する。」相手が話し始める前に護衛が言った。

 「自宅周辺を点検したが、異常はない。」電話の相手が応えた。

 車両以外にもチェの自宅周辺にもう一人、NISの工作員が先乗りして周囲の状況を確認していた。

 「こっちも尾行を確認したが、いなかった。」

 「俺は車が駐車場に入るのを見届けてから引き揚げる。」

 「分かった。」再びスマートフォンの画面に触れて護衛は電話を切った。

 その頃、チェの車が自宅マンションのゲート前で止まり、シャッターを上がるのを待っていた。護衛は止まらずにゆっくりと警護対象者の車の後ろを通り過ぎて、ルームミラーで何度か後方を確認した。車に意識が集中していたため、彼は反対側の歩道から近づく2つの影に気付くことができなかった。

 電柱の陰でチェの車を見守っていたもう一人の護衛は、仲間の車が目の前を通り過ぎると同時に20メートル先を移動する二人組を見つけた。しかし、暗がりで相手の姿が見えず、それが脅威であるかの区別が付かなかった。念のために現場を離れた仲間に連絡を入れようと、ジーンズのポケットにあるスマートフォンに手を伸ばした。

 後ろから小さな物音を耳にした。急いで振り返ろうとしたが、その前に後ろから口を塞がれ、小さなナイフで喉を掻き切られた。襲撃者は素早く相手から離れ、拘束から解かれるとチェの護衛は喉から噴き出る血を止めようと両手で出血部を抑えて両膝をついた。

 その頃、チェの車が駐車場へ入ろうとゆっくり動き出した。車の動きに合わせるように二人組の男が道路を渡って、閉まり始めたシャッターの下を潜ってマンションの敷地内に入り込んだ。外の護衛を始末した男はその様子を見届けると、周囲に目を配って警戒を行なった。

 二人組の男は黒いスキーマスクを被っており、一人はスタンガン、もう一人は全長30センチの特殊警棒を持っていた。二人は駐車されていた車を利用してチェの車に近づき、標的の車が停まって手提げ鞄を持ったチェ・ワンシクが降りてくるなり、スタンガンを持った男が走り出した。

 自分の部屋に向かって歩き出した韓国の諜報員は、背後から迫る足音を聞いて急いで振り返った。彼の右手には催涙スプレーがあり、迫るスキーマスク姿の男を確認すると人差し指でスイッチを押した。だが、相手はスプレーの射程外にいた。それでもスプレーを見た途端に襲撃者は身を引き、その隙を突いてチェは鞄を相手に投げつけて逃げた。後ろから迫る足音に怯えながら彼は走った。

 その時、斜め前にあった車の影から同じくスキーマスクを被った男が現れ、立ち止まろうとした途端に特殊警棒で頭を殴られた。衝撃に耐えきれなかった韓国の諜報員は片膝をつき、その直後に再び頭を殴られて地面に崩れ落ちた。

 スタンガンを持った男が仲間と合流し、特殊警棒を持つ男は展開させた警棒を収縮させてからチェの両脇に手を入れて持ち上げようとした。

 「すいませぇ~ん。」

 チェに意識を向けていた二人は近づいてくる男に気付けなかった。ふと顔を上げると、ネズミ色の作業服の上着と色褪せたダークブルーのジーンズ姿の男が見えた。男は笑みを浮かべて二人を見つめている。

 韓国人の脚を持ち上げようとしていた男は、突然現れた男にスタンガンを向けてスイッチを入れた。バチバチと電流の流れる音が静かな駐車場に鳴り響いた。それを見た作業服の上着を羽織る男は眉と同時に顔を上げ、驚いた素振りを見せた。

 仲間が気を引いている隙にもう一人の男がチェを連れて逃げようとした。肩越しに後ろへ視線を走らせた時、早足で近づいてくるスーツ姿の男が見えた。スキーマスク姿の男はチェを地面に落とし、急いで特殊警棒を展開させた。スーツ姿の男は怯まずに距離を詰め、逆に不安になってきた襲撃者が相手に向けて警棒を振り下ろした。

 浦木は身を軽く反らせて攻撃を回避し、相手がバックハンドで再び警棒を振った。新人捜査官は警棒が振られる前に距離を縮め、警棒が振り切られる前に相手の腕を右腕で防ぎ、その直後に左手で相手の右肘関節を掴んだ。そして、素早く警棒を持つスキーマスク男の右手を押し、警棒を相手の側頭部に叩きつけた。

 自分の特殊警棒で左側頭部を強打した男は呻き、その間に浦木が相手の右手首を捻り上げて相手の背後に回ると、男の左腕を左手で掴んで後ろへ引っ張り、拘束の態勢に入った。

 一方、井上と向き合う男は背後の物音を聞いて素早く後ろへ視線を向けた。その隙を狙って井上は相手との距離を詰め、スキーマスク男が振り返った時、二人の距離は2メートルにまで縮まっていた。

 男は急いでスタンガンのスイッチを入れて右手を突き出した。だが、井上は左へ動いてそれを回避し、相手の腕が伸び切ると左手で男の右手首を掴んで、右掌底をスキーマスク男の額に叩き込んだ。これで相手が怯み、隙を見て井上はスタンガンを持つ男の右手に向けて右拳を振り下ろした。スタンガンが音を立てて地面に落ち、捜査官が相手を拘束しようと、浦木がしたように相手の手を捻じり上げようとした。

 しかし、その前にスキーマスクの男が左拳を井上の顔に向けて繰り出した。急いで一歩後退しながら、捜査官は右手で攻撃を弾き飛ばした。男は間を置かずに右拳も突出し、今度は後退せずに井上はそれを左手で弾いた。

 諦めずにスキーマスクの男が再び左拳を繰り出そうとした時、井上が両手で相手を後ろへ突き飛ばした。予期せぬ攻撃に男はバランスを崩すも、素早く体勢を立て直して殴り掛かろうとした。そして、その瞬間を突いて井上は相手の左腿に右踵を叩き込んで動きを止め、脚を地面に着ける勢いを利用して右フックを男の顎に入れた。綺麗に攻撃が決まったことで脳震盪が起こり、スキーマスクの男は糸の切れた人形のように地面に崩れ落ちた。

 手錠に手を伸ばしながら浦木の方を見ると、新人捜査官は腕時計で時間を確認していた。

 「遅くて悪かったな!」スキーマスク男を拘束しながら井上が言った。

 「いや、そういう意味では…。でも、井上さんの言った通り、ここで張ってて正解でしたね。」

 「こんなにすぐ引っ掛かるとは思わってなかった。きっと、お前の大胆な行動のお陰だろうさ!」手錠をかけ終えた井上がスタンガンを回収した。

 「チェはどうします?」と浦木。

 「一応…外交問題には発展させるな、との命令だから救急車を呼ぶだけにしよう。でも、増井ちゃんからスマホのデータをコピーしろって言われるから、それだけ忘れずに。」

 「分かりました。それじゃ私が二人を車に乗せますので、データのコピーと救急車をお願いします。」

 「あいよ。」

 その頃、マンションの向かい側の歩道で仲間を待っていた男は、あまりの遅さに苛立っていた。そして、連絡を取るために携帯電話を取り出したが、ある考えが脳裏を過った。



***



 「君の部下も現場にいたらしいね。」JCTC第3課の課長である袴田照雄が机を挟んだ先に立つ半田に言った。

 「はい。」第3課5班の班長は自分が呼ばれた理由を知っていたので、狼狽えることはなかった。

 「監視カメラに映っているなんてこと、ないかな?」袴田がニヤリと笑って尋ねた。

 「映っています。」

 予期せぬ回答に課長の顔から笑みが消えた。

 「住民から連絡を受けた水道会社の職員としてマンションに入ったので、駐車場出入り口のカメラに部下の姿が映っています。」半田が次の質問を受ける前に言った。

 「事情聴取されても問題の無い対策は取っているんだろうね?」

 「はい。午前中にそのマンションで水道会社の点検があり、点検の数時間後に修復した箇所を夜に再び確認したいと大家に頼んでマンションに入りました。そこで2時間ほど見張っていたところ、チェ・ワンシクが帰宅して二人組の男に襲われました。部下がその二人を拘束し、尋問中です。」

 半田の説明を聞くまで袴田は下唇を噛み、自分に責任が及ぶ可能性があると見て心配していた。しかし、話しを聞いている内にその心配が杞憂であったと判断した。目の前にいる男は彼が考えるほど軽率な行動を取ることはなく、常に考えてから動く慎重な人物であった。

 「では、マンションの前で発見された死体と今回の件に結びつくことはないのだな?」

 「ないと思います。チェの件は報道されていませんし、あの死体は韓国系企業の従業員として報道されています。」半田が淡々と答えた。

 「大使館ルートで政府に苦情が行っている。韓国大使は自分の職員が公安部に攻撃されたと考え、マンションの前で発見された死体も公安の仕業だと決めつけている。我々の方に捜査の手が伸びないようにしなければならない。」

 「分かりました。」

 半田が拘束室へ向かおうとした時、柄沢がタブレットを持って上司の横に並んだ。

 「マンション前で発見された男ですが、特に不自然な記録などは見つかりませんでした。」柄沢がタブレットを上司に渡した。

 「NISの職員ではなかったか…」タブレットに表示されている男の顔写真と経歴に目を通して半田が言った。

 「入手した経歴から死亡した人物が、NISの職員と断定する事はできませんでした。しかし、発見された場所がチェのマンション前だったので、彼の護衛または見張り役だったのかもしれません。」
「死因は窒息死だったな?」

 「はい。首を切られた際に血が肺に溜まり、呼吸困難に陥って亡くなったそうです。」

 「しかし、拘束した二人はナイフを持っていなかった。」半田がタブレットを分析官に返した。

 「現場で捜査している警察もまだ凶器を発見していません。」

 「この二つが無関係だとは考えにくい。そうなると三人目がいたかもしれないな。」

 「井上たちは拘束した2人以外、不審な人物は見ていないと言っています。」

 エレベーターホールで二人は足を止めた。

 「俺は拘束室に行って三人目の人物について確認してみる。柄沢は新川と共にマンション付近の防犯カメラの確認をして欲しい。」

 「つまり、現場ですか?」

 「そうだ。」

 エレベーターのドアが開き、半田が乗り込んだ。

 「頼むぞ。」

 「は、はい…」ドアが閉じる前に柄沢が応えた。彼は急いでオフィスに戻りながら、スマートフォンを取り出して休憩中の新川に連絡を入れた。



***



 ニュースを見てもチェ・ワンシクに関する報道はなかった。

 〝まだ死体が見つかってないのか?〟

 男はキーワードを変えて検索を続けたが、韓国人大使館職員に関するニュースは見つからない。その代わりに見つかったのは、チェの住むマンション前で発見された韓国系企業に勤める男性の死体であった。

 〝間違えたのか?いや、見間違うはずがないッ!〟

 怒りで体が震え、男はスマートフォンを壁に叩きつけた。その衝撃で壁が凹み、大きな音を立てて携帯電話が床に落ちた。

 〝落ち着け…。計画が破綻した訳ではない。〟

 深呼吸して男はベッドから立ち上がり、壁に叩きつけたスマートフォンを拾い上げた。すると、手の中で携帯電話が振動し、彼は小さな亀裂のできた画面を見た。そこにはメッセージの受信を報せる通知が表示されていた。

 <仲間がしくじった>

 短いメッセージであったため、スマートフォンのロックを解く必要もなかった。

 〝役立たずがッ!〟

 男が携帯電話の電源を切ろうとした時、新しいメッセージが届いた。

 <報酬は上がるが、次は確実に…>

 今回のメッセージは長文らしく、途中までしか表示されていなかった。

 〝依頼したのが間違いだった…〟

 スマートフォンの電源を落とし、男はホテルの部屋から出た。



***



 増井は後ろに並んでいる4班こと『園田班』の女性分析官の神田に応援を頼んだ。彼女は既にチェ・ワンシクのスマートフォンのデ―タを調べたが、私用の電話だったので事件に関する情報は入っていなかった。
 一仕事終えていた神田は眠そうな顔をしていたが、井上と浦木が拘束した男たちのスマートフォンの一つを受け取ると口角を上げた。

 「あまり情報は入ってないと思いますけど、念のため、確認するよう班長に言われているので、よろしくお願いします。」そう言って増井は自分のデスクトップ・コンピューターに向き合った。

 「今じゃスマホがパソコン代わりだから、スマホの方に沢山データが入ってるよ。」自分の机に戻りながら神田が言った。

 二人は押収したスマートフォンを直接デスクトップに接続することはせず、机の引き出しから予備のノートパソコンと携帯電話に合う端子付きコードを取り出し、ノートパソコンとスマートフォンを繋げた。すぐノートパソコンが押収されたスマートフォンを認識したが、ロックが掛かっていたためにデータにアクセスすることができなかった。

 二人の調査している携帯電話のオペレーション・システム(OS)がアンドロイドであったので、分析官たちはノートパソコンにダウンロードされていたアンドロイド用のアプリケーションを起動させた。アプリケーションの指示に従ってスマートフォンを操作し、携帯電話をダウンロード・モードに切り替えた。次にパソコンの画面に表示された「開始」のボタンをクリックすると、スマートフォンの暗証番号が初期化されてロック画面が解除された。

 増井と神田は押収した携帯電話のデータからテロ攻撃に関する情報を入手しようと、キーワードを入れて検索を繰り返した。また、その合間を縫って二人の分析官は写真や動画、メモ、通話履歴、ウェブの閲覧履歴、ショートメッセージ、ダウンロードされている通信アプリなど、検索で見逃したかもしれない情報を探し求めた。

 「SNSのメッセンジャーに多くの通信履歴があるよ。」神田がノートパソコンの画面を見つめながら言った。

 「私も見つけました。そちらの電話の中に『ブーマー』か『アーサー』って方との通信履歴はありますか?」増井もパソコンの画面を見つめながら尋ねた。

 「あるよ。私の端末の所有者は『ブーマー』みたい。そっちに『チャールズ』か『アーサー』っている?」

 「います。そうなると、私の方は『チャールズ』ですね。」

 「この二人の他に『アーサー』って人もメッセージのやり取りに入ってる。」神田がメッセージに目を通した。「このアーサーさんが結構、物騒な事も書いてるね…」

 増井も神田と同じメッセージに目を通し、その中にチェ・ワンシクの写真を見つけた。

 「間抜けな人たちなんですかね?写真をこんなセキュリティーの甘いSNSのメッセンジャーで共有するなんて…」

 「中東で活動していたテログループも最初は似た様なアプリを使ってたし、珍しい話しではないよ。それより、このアーサーって奴が元締めらしいけど、全然手掛かりがない。クラックしようにも、大手に対してやると面倒くさいでしょ?」

 後ろに座る分析官の話しを聞きながら、増井はウェブの閲覧履歴に目を通して興味深いウェブサイトを見つけた。

 「この人たちの接点が見つかったかもしれません。」半田班の分析官が言った。

 「その接点って?」

 「事件発生の前日までブーマーと名乗ってる人が、『復讐代理』ってサイトに何度もアクセスしてます。パスワードが設定されているので、開く必要があります。」

 「SQLで行けるんじゃない?」神田も増井の見つけたウェブサイトを閲覧履歴で確認するとアクセスを試みた。

 そのウェブサイトは質素で、白い背景、黒い文字のタイトル『復讐代理』、その下に「ログイン」のリンクしか表示されていなかった。リンクをクリックしてログイン画面に移動すると、ユーザー名とパスワードを求められた。

 神田が適当にユーザー名を入力し、パスワードの欄に短い文字と数字を入力してエンター・キーを押した。彼女の入力した文字と数字によって、特定のSQL文が作成され、どのようなパスワードも正規の物として認識されるようになった。彼女のノートパソコンの画面は質素なログインページから黒い背景の赤い文字が並ぶサイトに飛んだ。この方法はセキュリティーの厳重なウェブサイトには通じないが、そうではないウェブサイトで使える初歩的な方法であった。

 一方の増井はHTMLフォームを開き、直接SQL文を挿入してウェブサイトのデータベースにアクセスした。これによって、そのウェブサイトにアクセスしたユーザーのパスワードやIPアドレスを含む情報を見ることが可能になった。彼女はサイト内で『アーサー』と名乗る人物のIPアドレスを見つけると、その人物が何所からそのサイトのアクセスしたかを調べ始めた。また、書き込み履歴にも目を通して気になる物を見つけた。

 「チャーリーさんもブーマーさんも同じ掲示板に書き込みしているね。」神田が床を軽く蹴ってオフィス椅子に乗ったまま増井の横に移動した。

 「アーサーさんもですよ。この人たち、ここで仕事を受けてたみたいです。」増井が『アーサー』の書き込みをパソコンの画面に表示させて神田に見せた。

 「居場所は?」

 「検索しましたが、常に移動しているのか、VPN(仮想プライベートネットワーク)を使っているのか、住所が海外の時もあります。」

 「コイツらに依頼した奴の書き込みは?」と神田。

 「こっちです。」増井が新しいウィンドウを表示させた。そこには東京都の地図と3つの赤い点があった。

 「依頼人の方は間抜けだったみたいだね。」

 「班長に連絡します。」増井は固定電話の受話器を持ち上げ、住所の詳細を調べ始めた。



***



 半田が急ぎ足で拘束室の隣にある監視室に入った途端、スチール製の机を引っくり返して壁に叩きつける浦木を目撃した。突然のことに困惑しながらも彼は、同じくその様子をマジックミラー越しに見ていた井上の横に並んだ。

 「一体何をしている?」と半田。

 「良い刑事と悪い刑事ごっこです。口の堅い奴らなんで、喋ってもらうために浦木には悪い刑事役を演じてもらってます。ちなみにもう一人は、別の部屋でお茶を飲んでもらってます。」

 「やり過ぎだ。」

 ちょうど半田がそう言った時、浦木が押収した特殊警棒を展開させた。彼はそれで壁を軽く叩きながら容疑者に近づいた。パーマヘアーの容疑者は近づいてくる捜査官から目を離すことができず、顔を青白くさせて震えた。

 「ちょっと止めてきます。」井上が監視室と拘束室を繋ぐドアを通って隣の部屋に入った。

 別の捜査官が登場すると容疑者は視線を井上に移し、「助けてくれ!」と叫んだ。

 「浦さん、そこまでにしようぜ。」井上が穏やかな声で言った。

 井上の案は明らかに酷い小芝居であり、浦木はこの案に消極的であった。しかし、代替案が思いつかなかったので、井上の案に乗っかることにした。彼は声をかけられても無視して容疑者に近づいた。

 「そこまでにしないか?」井上が同僚の前に立ちはだかった。

 三文芝居であったが、容疑者にとって井上は救世主であり、これで乱暴な男から解放されると思った。浦木は警棒の先端を床に叩き付けて収縮させると拘束室から出て行った。

 「ちょっと待っててくれ。」

 そう言い残して井上も部屋から去り、緊張状態から解放された容疑者は溜め息をついた。

 上司の待つ監視室に行くと、半田は通話中であった。

 「わかった。ありがとう。」半田がスマートフォンを上着の内ポケットに戻し、部下の方を向いた。「拘束した男たちの雇い主の居場所が分かった。すぐ向かってくれ。」

 井上と浦木は驚いた。

 「どうやって居場所が?」と井上。

 「容疑者のスマートフォンから依頼主との通信履歴があったそうだ。お前たちの端末に住所が送られる。そこに行ってこい。」

 「せっかく浦木と演技して落そうとしたのにぃ~」井上はテレビドラマ的な取り調べで容疑者を説得しようとしていたので、ひどく落胆した。

 「手間が省けて良かったじゃないですか。」押収した特殊警棒を机の上に置いて浦木が言った。

 「今度から変なことはしなくていい。訴えられたら問題になる。いいな?」半田が語気を強めた。「分かったら行って来い。」

 「了解!」



***



 最後のペットボトルを駅に置いた男は尾行確認を行いながら自宅に向かった。

 何度か地下鉄を乗り換えて不審な行動を取る人物を探したが、そのような人物は一人も見当たらなかった。しかし、安全確認を終えても男の足取りは重かった。チェ・ワンシクの殺害も失敗に終わり、今まで計画的に置いてきた液体入りのペットボトルも世間の注目を浴びずに終わろうとしている。

 〝浩太…〟

 男は亡き弟のことを考えた。幼い弟の顔が浮かぶと同時に両親の顔も思い出し、目頭が熱くなった。

 〝まだやる事は残ってる。これは警告に過ぎない。真の戦いはこれから始まるんだ。〟

 遠回して自宅に帰り、男は少ない荷物を段ボールに詰めた。借りているアパートを出て、新しい部屋に移動して次の行動に出る準備を考えた。

 衣服やノートパソコン、予備のスマートフォン3台、数枚のSIMカードが入ったジップロックの袋を段ボールに入れて玄関に置き、移動用にレンタカーを借りようとジーンズのポケットにあるスマートフォンに手を伸ばした。手に取るなり、振動が訪れて男はすぐ画面を確認した。

 <もう一度お話ししましょう。>

 スマートフォンの画面に新着メッセージの受信が表示されていた。

 〝しつこい野郎だ…〟

 無視してレンタカー会社に電話しようとした時、再びメッセージが届いた。今度は画面の上に小さく表示され、ふと目を通すと男は固まった。

 <あなたの家の前まで来ています>

 最初は驚いたものの、男はそれが安い脅し文句だと思って無視することにした。しかし、気になることがあった。報酬は既に支払われている。それに今回の仕事で標的の警戒が強化され、世間から注目を浴びて逮捕される可能性がある。

 〝いずれにせよ、俺には関係のないことだ。〟

 スマートフォンの受話口から聞こえてくる呼び出し音に耳を傾けながら、男は気持ちを切り替えようとした。しかし、それもドアのノック音によって遮られた。受話口から女性の声が聞こえてきたが、その声は男の耳に届いていなかった。彼の目は玄関のドアに向けられた。

 〝脅しじゃなかったのか?〟

 再びノック音がした。男は電話を切り、忍び足で玄関へ行って覗き穴から外を見るためにドアに近づいた。その時、スマートフォンが振動し、驚いた男は左手でドアを押してしまった。

 「いるんでしょ?」ドアの向こう側から野太い男の声が聞こえてきた。

 恐怖のあまり男は震えて動けなくなった。

 「私はお話しがしたいだけなんです。」外にいる人物が言った。

 〝どうやってここに?〟

 「入れてくれないなら、開けさせてもらいますよ。」

 ドアノブが少し動き、男は鍵をかけているのにも関わらず、それを掴んで止めようとした。

 「帰ってくれッ!」男が叫んだ。

 「突然押しかけて申し訳ないですが、あなたのことを思ってのことなんです。」ドアの向こう側にいる男が落ち着いた口調で言った。

 「もう終わったんだ!」

 その時、ドアノブの付近からガスの漏れるような音が聞こえ、その直後にドアノブのサムターンが回転する音が続いた。気付いた時にはドアが外側に開き、男が急いで引こうとしたがそれは軽々と阻止されてしまった。

 「やっと会えましたね。」髪を七三に分けたスーツ姿の男が言った。「アーサーです。少し外を歩きませんか?」



***



 増井の突き止めた住所近くにあったコインパーキングに車を停め、井上と浦木は4分ほど離れたアパートに向かって歩き出した。住宅地の中にあるそのアパートは5階建てのアパートで、付近に似た様なアパートや一軒家が並んでいた。

 「聞こえますか?」

 右耳に差し込んだ片耳ブルートゥース・イヤフォンから増井の声が聞こえてきた。

 「聞こえてるよ、増井ちゃん。」井上が応えた。

 「聞こえてます。」隣に並ぶ捜査官に続いて浦木も応えた。

 「住宅地なので、もしかすると、他人のネット回線を使っていたことも考えられます。」

 「それじゃ、容疑者の居場所が分かった訳じゃないの?」と井上。

 「サイトの記録から得た情報で唯一、公共のネット回線以外からアクセスしていたのが、そのアパートからでした。急いで接続してIPアドレスを隠す処理を忘れていたのかもしれません。」

 そうこうしている間に二人の捜査官が目的のアパートに到着した。薄いベージュ色の外壁で、5階建てと聞いていたが、それは右側だけで左側は3階建てになっていて、広く横に伸びていた。右側の1階には小さい歯科医院が入っており、左側には駐輪場と小さい屋外駐車場があった。井上と浦木がアーチ形の入り口を抜けてアパート内に入り、入り口のすぐ右手にある2列に並んだ郵便受けに目を通した。名札の付いた物もあったが、中には付いてない物もあった。

 「確認してみるけどさぁ~、部屋の番号とか分からないんでしょ?」郵便受けに目を通して井上が尋ねた。

 「すみません。部屋の番号までは分かっていません。」増井は役に立てていないと思い落胆した。彼女は井上たちと違って安全な場所で作業することが多く、その分負い目を感じることが多かった。

 「あとは私たちの仕事なので任せてください。」彼女の気持ちを察したように浦木が周囲に視線を配りながら言った。

 「浦さんの言う通り。あとは俺たちに任せろ!」井上はまだ小芝居を続けたい気分であった。

 浦木は気にせず1階の駐輪場と駐車所を確認しようとアパートから出て、井上は2階へ続く階段を上がろうとした。すると、上からスーツ姿の男と彼に腕を引かれた20代初めに見える男が降りてきた。

 「こんにちは。」髪を七三に分けたビジネスマン風の男が井上に挨拶した。

 「どうも。」軽く一礼して捜査官はスーツ姿の男の隣をすり抜けようとする。

 ふと視線を感じて顔を向けると、腕を引かれている若い男が井上に視線を送っていた。若い男の顔は引きつっており、その様子から捜査官は違和感をおぼえた。

 「あのぉ~」井上がスーツ姿の男に声をかけ、男が肩越しに振り返った。「お連れさん、ひどく具合が悪そうですが大丈夫ですか?」

 スーツ姿の男は笑みを浮かべ、「これから病院へ行くんですよ」と言った。

 その間、若い男は井上に視線を送り続けた。

 〝助けくれッ!〟若い男はそう思って井上に視線を送っていた。

 「そうですか…」井上も笑顔を浮かべた。「失礼しました。」

 そう言って彼は二人に背を向けた。

 〝待ってくれッ!〟

 スーツ姿の男が若い男の腕を引いて顔を前向けようとした瞬間、井上が二人に背を向けたまま右踵をスーツ姿の男の背中に向けて突き出した。突然のことであったが、蹴りが直撃する寸前に相手は前屈みになって階段を一段降り、ビジネスマン風の男は階段から落とすように若い男の腕を下へ引いた。バランスを崩した若い男は危うく転びそうになったが、手すりに掴まって転倒を免れ、駆け足で階段を降りた。

 ビジネスマン風の男も急いで階段を駆け降りようとしたが、その前に体勢を直した井上が左前蹴りをスーツ姿の男の背中に叩き込んだ。蹴りを受けた男は階段から転げ落ち、先を走っていた若い男に激突し、上手く両腕で頭を守ることに成功したが、捕まえていた男と共に背中を強く地面に打ち付けてしまった。

 1階の安全確認を終えた浦木が井上の後を追うためにアパート内へ入ろうとした時、背中に片手を当てた若い男が入り口から飛び出してきた。素早くアパート内に視線を向けると、階段から転げ落ちて呻いているスーツ姿の男を見つけた。

 「コイツは任せろ!」井上が階段を降りながら浦木に言った。これを聞いた浦木は若い男の後を追って走り出した。

 髪を七三に分けたビジネスマン風の男が立ち上がり、階段からゆっくりと降りてくる井上を睨みつけた。

 「やっぱ、ウチの分析官は優秀だわ。」井上が相手の動きに注視しながら言った。

 スーツ姿の男は右手を腰へ伸ばし、捜査官が階段を降り終えると特殊警棒を取り出して展開させた。

 「アンタがアーサーさんかな?」井上が尋ねた。

 しかし、ビジネスマン風の男は聞く耳を持っていなかった。仕方なく捜査官が左腰のホルスターに収められている特殊警棒を手に取ると、相手が素早い突きを繰り出してきた。



***



 チェ・ワンシクのマンション付近にある店の防犯カメラを確認していた新川と柄沢は、7つの店を訪問しても何の手掛かりも掴めなかった。

 二度も現場に出て無駄足に終わった新川は疲労感に襲われ、本部の休憩室に残してきたチョコレートのことを考えながら運転していた。助手席に座る柄沢はノートパソコンを膝上に乗せて、ひたすらキーボードを叩いている。余力があれば話し掛けたかもしれないが、疲れている新川は運転に集中し、最短ルートで本部に戻ることに専念した。

 赤信号で停車していると、反対側の歩道を走る若い男を見つけた。男は背中に手を当てており、時々振り返って後ろを確認している。

 〝大学生かな?あぁ~、大学生に戻りてぇ~〟そう思っていると、若い男を追うスーツ姿の男を目撃した。〝あれって、浦木さんじゃ?〟

 「ちょっと出てきます。」新川がシートベルトを外して車から飛び降りた。

 突然のことに柄沢は驚き、女性捜査官を止めようとしたが、彼女は既に車から遠く離れていた。

 「俺、運転できないって言ったのに…」

 その時、信号が青に変わり、運転手を失った車に対して後続車がクラクションを鳴らした。



***



 二人の距離は徐々に狭まって行った。

 浦木の走る速度は一定であったが、若い男の方は距離が伸びるほど速度が落ちた。どうにかして追手を振り切りたくても、息が上がり、さらに脚が鉛のように重く感じられた。

 〝どうして、どうしてこうなるんだ…〟

 男は走りながら自分の愚かさに苛立ち、さらに込み上げてくる悔しさから涙が出て視界が霞んだ。

 〝父さん、母さん、浩太…〟

 亡き家族のことが脳裏を過った瞬間、脚の疲労からバランスを崩して転び、額を地面に強打した。皮膚が割れて血が流れ落ち、急いで起き上がろうとした時に一筋の血が鼻の上で二つに分かれた。

 突如、背後から両腕を掴まれて後ろに引っ張られた。若い男は振り切ろうと暴れたが、その直前に手首に固く冷たい物を感じ、腕を動かすと鈍い痛みが手首に走った。

 「抵抗するな。手首を痛めるぞ。」浦木が男を落ち着かせようとやさしく話し掛けた。この言葉を聞いて男の抵抗する意思は砕かれ、カクンと頭を落した。

 「浦木さん!」

 女性の声を耳にして浦木が振り返る。そこには駆け寄ってくる新川の姿があった。彼はなぜ同僚がここにいるのか分からなかった。

 「容疑者ですか?」浦木の前に来て新川が尋ねた。

 「おそらく…」拘束した若い男を見て男性捜査官が応えた。

 「井上は?」続けて新川が尋ねた。

 「不審者と対峙してました。これから応援に向かうので、この人のことをお願いします。」そう言い残して浦木はその場から立ち去った。

 〝せっかく二人っきりになれると思ったのになぁ~〟

 拘束された男に視線を据えながら新川は、スマートフォンをスーツの内ポケットから取り出した。そして、この時になって彼女は柄沢が運転できないことを思い出し、顔を真っ赤にさせた。

 〝ヤッバ!〟



***



 右手に持ち替えようとしたが、胸目がけて突き出された警棒を見て井上は素早く右へ移動しながら、その攻撃を外側へ弾いて特殊警棒を展開させた。警棒を伸ばさずに距離を詰める事もできたが、相手が左手を背中に伸ばすのを見て距離を保つことにした。

 ビジネスマン風の男は右手の警棒を井上の頭に向けて振り下ろし、それと同時にベルトの腰部分に隠していた刃渡り3センチのプッシュダガーナイフを取り出した。井上が警棒で振り下ろされた攻撃を防ぎ、それを確認すると男は左中指と薬指の間に挟まれたナイフを捜査官の首に向けて繰り出した。

 男の左拳と同化したナイフの刃が蛍光灯の明かりで輝いたため、井上はナイフの存在に気付いて後退し、攻撃を回避しながら相手の腕を内側へ弾き飛ばした。彼は間を置かずに相手の左肩に警棒を叩き込もうとした。だが、その前にビジネスマン風の男が弾かれた左腕の下を通して警棒を突き出した。
急いで捜査官は後ろへ下がり、その際に警棒を振り下ろして男の右肩を殴った。

 右肩に激痛が走り、スーツ姿の男は顔を歪めた。しかし、追撃を恐れて彼は警棒を右へ水平に振った。これで相手との距離を開けて態勢を建て直そうとした。

 しかし、井上は警棒で男の一振りを抑え、素早く右掌底を相手の額に叩き込んだ。そして、追撃を加えようとした。しかし、ビジネスマン風の男が左手に持ったナイフを振り、捜査官の額に軽い切り傷を負わせた。これは井上の動きを一瞬封じ、振り上げていた警棒の柄を男の胸に叩き込む機会を失わせた。スーツ姿の男は警棒で捜査官に殴りかかり、井上はすんでの所で左へ逃げ、男の右腕を警棒で叩きつけた。

 思いがけない反撃を受けた男は右腕に痺れを感じて警棒から手を離し、それは大きな音を立てて床に落ちた。相手から目を離さずにいると、捜査官がバックハンドで警棒を振ろうとしているのが見えた。すかさず男は姿勢を低くし、井上の一振りが頭上を通過すると立ち上がりながらナイフを捜査官の喉に向けて突き出した。

 警棒を振った後に右拳を突き出すつもりでいた井上は、ナイフが接近して来ると相手の左手を弾き、その勢いを利用して右裏拳をビジネスマン風の男の鼻頭に叩き込んだ。男の鼻の穴から血が流れ、激痛に目に涙を浮かべながら男は二歩後退した。

 〝クソがッ!〟

 敗色の色が濃いと判断した男は逃げようとしたが、その前に井上が男の股間に左蹴りを入れた。形容し難い痛みが下腹部に走り、スーツ姿の男は右手で股間を抑えて片膝をついた。

 「投降しない?」井上が床に転がっていた男の警棒を後ろへ蹴り飛ばした。

 男はナイフを持った左拳を下げ、視線も地面に向けた。捜査官は相手に投降の意思があると見て取った。しかし、ビジネスマン風の男は振り返りながら立ち上がって外へ飛び出した。

 〝勘弁してくれよぉ~〟

 井上は男の後を追いながら、左手に持った特殊警棒を男の背中に向けて投げつけた。警棒は縦に回転しながら宙を舞い、スーツ姿の男の背中に当たった。男の動きを止めることはできなかったが、走る速度を一時的に落とすことはできた。捜査官は股間を抑えて走るビジネスマン風の男の上着を掴み、追手を振り解こうと男がナイフを持った左拳を大きく後ろに振った。井上は上着から手を離さず身を屈めて攻撃を回避し、相手の腕が頭上を通り過ぎると左掌底を男の下顎を叩き込んだ。下からの予期せぬ強烈な攻撃を顎に受けて男の思考は完全に停止した。

 すかさず捜査官は右腕を相手の左腕に巻き付け、最大の脅威であるナイフの動きを抑えると、うなじに左手をかけて斜め下へ落として行く。そして、相手の右腕を固定した状態で地面に押し付け、左膝を首に、右膝を背中に置いて両脚で男の腕を挟むと右手で相手のナイフを取り上げた。

 武器を自分の足元に置いて手錠をかけた時、浦木が現場に到着した。拘束された男は歯を剥き出しにして二人の捜査官を睨みつけた。

 「そんなに見つめられちゃうと照れるよぉ~」井上が冗談を言いながら男を立たせ、浦木の方を見た。「ところで逃げた男は?まさか、また逃がした?」

 「またって、どういうことですか?」浦木が眉間に皺を寄せて先輩捜査官を見た。「この前は追い詰められていた容疑者を救おうとして―」

 「冗談だって!ゴメンよ。」相棒の言葉を遮って井上が謝った。「んで、逃げた男は?」

 「新川さんが拘束しています。」

 「新川ちゃんが?」井上は驚いた。「応援で来たの?」

 「分かりません。男を拘束した直後にやって来たので…」

 「まぁ、とりあえず班長に報告だな。」



***



 何度かけても電話は通じなかった。

 もう一度、母親に電話しようとした時にスマートフォンのバッテリーが切れた。

 「クソッ!」

 高橋勇人は左肩にかけていた鞄から乾電池式の充電器を取り出して携帯電話に接続し、最初に母親の携帯電話、次に父親、そして、弟の浩太に電話をかけた。しかし、電話は繋がらない。呼び出し音は鳴らず、電話からは携帯電話会社の回線の混雑を報せる電子メッセージしか聞こえてこない。

 〝早く繋がれよッ!〟

 充電によって熱くなる携帯電話を右手に持つ高橋勇人は何度も電話をかけ続けた。家族に繋がらないと、大学の友人たちとの連絡を試みた。だが、結果は同じであった。

 「ちょっと家に行ってくる。」隣で同じく家族と接触しようとしている恋人の方を向いて立ち上がった。

 「私も行く。」薄茶色の長い髪を持つ望月真理恵も立ち上がった。

 「ダメだ。余震があるかもしれない。ここで待ってて。」高橋が恋人と向き合って肩に手を乗せた。

 「イヤだ!私も行くッ!」

 「ダメだッ!」いくら恋人が声を大にして訴えてきても高橋勇人は拒否した。「道路だって―」

 その時、強い横揺れによって建物が激しく動き、二人は立っていられなくなり、しゃがみ込んだ。高橋は望月を抱き寄せ、きつく目を閉じた。

 揺れが治まった。目を開けると、運転席に座るポニーテールの女性が肩越しに振り返って高橋を見た。

 「ここは?」高橋勇人が尋ねた。

 「警察署です。」新川は自分の所属を隠すために嘘をついた。「今から降りてもらいます。」

 やっと高橋は拘束されたことを思い出し、胸に重りを落されたような衝撃を覚えた。

 新川が運転席から降りて後部座席のドアを開けた。

 「一人で降りられますか?」女性捜査官がドアを片手で抑え、後部座席でうな垂れている若い男に尋ねた。しかし、高橋は身動き一つしなかった。堪りかねた新川は左手を伸ばして男の右腕を掴んだ。

 腕を掴まれると高橋は引っ張れる方向へ逆らうことなく進み、右足を外に出して地面を踏んだ。地面の感触を確認すると、男は右足に体重を乗せ、左足で乗用車のフロアを蹴り飛ばして新川に体当たりした。後ろ手で拘束されていたため、右肩で女性捜査官を突き飛ばし、彼女がバランスを崩すと車から降りて走り出した。

 〝アイツッ!〟新川は咄嗟にインサイドパンツ・ホルスターから拳銃を抜き、高橋の後を追った。

 高橋は出口を探し求めて我武者羅に走った。しかし、出口は見えない。見えるのは立ち並ぶ多種多様の車だけで、外に続く道は見当たらない。

 「止まりなさい!」新川が高橋の背中に銃口を向けて叫んだ。地下駐車場に彼女の声は響いたが、男は止まろうとしない。

 〝止まれって言ってんのにィ!!〟最初から撃つ気のない捜査官は銃口を下げて男の後を追った。

 〝出口!出口は何所だ?〟必死に逃げる高橋は駐車場の奥で職員専用の出口を見つけた。彼はそこへ真っ直ぐ向い、それに気づいた新川は先回りしようと動いた。そして、男の前に立ちはだかって銃を構えた。

 「止まりなさい!」新川が警告を与えた。

 それでも高橋は走るのを止めなかった。現場慣れしていない捜査官は迫る男の勢いに怯み、狙いを定めるために伸ばしていた右腕を少し曲げた。

 「止ま―」

 再度警告を発しようとした時、高橋勇人が新川の腹部に再び体当たりを入れて押し倒した。背中を強く地面に打つと同時に拳銃が彼女の手から離れた。

 〝ヤバッ!〟

 新川が起き上がろうとしたが、その前に鬼のような形相の高橋が彼女の頭の近くに落ちていた拳銃を後ろ手で取った。心臓が締め付けられるような思いと死を予期した捜査官は両腕を上げて防御の姿勢を取り、さらに目を閉じて身構えた。

 2発の銃声が地下駐車場に響き、新川は短い人生だったと後悔しながら地面に崩れ落ちた。しかし、不思議と痛みはなかった。

 〝即死だと痛みはないのか…〟

 「おい、新川ちゃん!」

 井上の声が聞こえてきた。

 〝何でアイツの声なんだよ。どうせだったら、浦木さんの声が―〟

 体が持ち上げられ、新川は目を開けた。目の前には心配そうに彼女を見つめる井上の姿があった。

 「私…撃たれた…?」

 「へぇ?」井上が同僚の体を確認した。「ケガしてないみたいだけど?」

 「え?じゃ、あの銃声は?」新川は驚いて起き上がった。前を見ると、血だまりの中心に倒れる高橋と死体から新川の銃をもぎ取ろうとする浦木の姿を確認した。捜査官の右手にはG19拳銃が握られており、胸の位置で構えて銃口を死体に向けていた。

 「びっくらぽんだったよ。車から降りたら、新川ちゃんのドスの利いた声が聞こえてさ。急いで駆け付けたら、容疑者に銃を奪われそうになってて、銃を抜こうとしたら浦木の野郎が先に発砲しやがって…お陰で耳が痛いんだよねぇ~。」

 新川は井上の話しを最後まで聞いていなかった。浦木が彼女を窮地から救ってくれたことが嬉しかった。

 〝これって脈アリ?〟

 浦木が銃をホルスターに戻して同僚のところにやって来た。

 「死んでいました…」新川に拳銃を差し出して浦木が報告した。女性捜査官は一礼して自分の銃を受け取った。

 「班長に怒られるぞぉ~」井上がニヤニヤしながら言った。

 「報告します。」そう言って浦木はスマートフォンを上着から取り出した。



***



 容疑者の死によって、事件の真相が明かされぬまま、第三課の手から離れようとしていた。

 主犯と思われる高橋勇人に雇われた3人の男は殺人を請け負うウェブサイトで知り合い、高橋からチェ・ワンシク殺害の依頼を受けると、『アーサー』のハンドルネームで活動していた浅倉忠をリーダーとしてチェを殺害しようとしていた。犯行に及ぶまで互いに面識はなく、高橋から送られた資料を基に3人は作戦を立て、襲撃しやすいチェの自宅で標的を拉致してから殺す予定であった。

 ここで浅倉は見張り役になり、電柱の陰にいたチェの護衛を1人殺害した一方、チェを拉致するはずの2人が捕まってしまった。結果的に浅倉は前払いされていた報酬金を独り占めすることが可能となったが、捕まった2人が自分の事を話すことを恐れて国外逃亡を考えた。そのためには資金が必要であり、彼は高橋に改めてチェを始末するから報酬を払うように嘘をつくことにした。

 しかし、依頼主の高橋は持ち金が少なくなり、それに浅倉たちへの信用が無くなったので浅倉からのメッセージを無視した。焦りを感じた浅倉は増井が行ったようにハッキングして高橋のIPアドレスを見つけると、その周辺を歩き回って依頼主を探した。

 闇雲に探しても意味がないと思い、焦る気持ちを抑えながら依頼主とやり取りしたメッセージなどを読み返した。そして、彼は報酬金の受け取りに関するメールから口座主の名前を見つけた。偽名の可能性もあったが、これを頼りにIPアドレスで特定したアパートの周辺を調べて高橋勇人を見つけ出した。

 以上が半田、井上、浦木の行った取り調べで明らかになったことである。しかし、逮捕された3人は高橋勇人の動機を知らなかった。

 井上と浦木は高橋の自宅を訪れて手掛かりを探したが、彼らの求める高橋と北朝鮮の繋がりは見つからず、段ボールに入れられていたノートパソコン、予備のスマートフォン3台、数枚のSIMカードを回収して本部に戻った。押収した電子機器を柄沢と増井が分析したが、韓国や北朝鮮に繋がる情報は発見できなかった。だが、地下鉄駅で見つかったペットボトルから高橋の指紋が発見されたことから、事件に彼が関与していたことが明らかになる。しかしながら、なぜ彼がそのようなことを行なったか、その経緯は分からなかった。

 高橋の経歴を調べると、宮城県仙田市の出身で去年まで市内にある自動車整備会社に勤務し、その後、東京へ移住して派遣労働者として働いていたことが判明した。家族は震災で行方不明となっており、親戚とも疎遠であったことから高橋勇人をよく知る人物に会うことはできなかった。

 最終的にこの事件は、右翼的思想を持った者による韓国人を狙った犯行だと第3課課長の袴田が判断し、右翼事件担当の第1課へ捜査資料が送られた。



***



 再び専門外の事件を捜査したので、井上は落胆の色を顔に浮かべながら机の下に置いていた鞄を取り出した。

 「どうしたんですか?」始末書を書き終えた浦木がノートパソコンを机の引き出しに戻した。

 「最近、他の課の仕事ばっかりじゃん。それに合コンの誘いもないし…」

 「事件はともかく、忙しいと出会いの機会って減りますからね。」

 「そうなんだよぉ~。カワイイ子がいたら紹介してくれない?」

 「いたら、紹介しませんよ。」

 「ケチだな。」井上が鞄を持ち上げた。「そろそろ帰るわ。お疲れ様でしたぁ~」

 まだ作業していた柄沢と増井は顔を上げずに「お疲れ様でした」と言い、浦木も井上に続いて帰宅した。分析官たちは引き継ぎ業務が残っており、半田は新川とカウンセリングの必要性に話し合っていたので二人で作業するしかなかった。

 〝今日は何時に帰れるかな?〟増井は眠気と戦いながら捜査書類の整理を続けた。

 一方、アパートに着た井上は鍵穴を確認し、靴紐を結び直すフリをしながらドアの下に小さく張りつけたセロハンテープを確認した。

 〝異常なし…〟

 侵入された痕跡の有無を確認した捜査官は鍵を開けてゆっくりとドアを開けて室内に入った。彼は入ってもすぐ施錠せず、窓から侵入されたことを考えて耳を澄ませた。何も聞こえない。彼は暗闇に目が慣れるまでドアの前に立ち、周囲の状況が見えるようになると足元を見た。飼い猫の猫座衛門が体を井上の脚に擦り付けている。

 〝室内も異常なし…〟

 施錠して明かりを点けると、しゃがみこんで飼い猫の顎を人差し指で軽く撫でた。三毛猫は目を細めて喉をゴロゴロと鳴らした。井上が猫の顎を撫でていると、固い何かに指が触れ、彼はそれにもう一度触れて気のせいでないことを確認した。そして、首を傾げて指で触れた物を見る。猫座衛門の赤い首輪に小さく折られた紙が挟められていた。

 井上は出かける前に小さく窓を開けて猫座衛門を外に出すことがあり、たまにネズミなどを持って帰ることがあった。捜査官は警戒しながら、その紙を首輪から取って中を確認した。

 <ネコちゃんの飼い主様へ、いつもウチのリンくんと遊んでくれてありがとうございます。>

 それは丸みのある文字で書かれており、井上は女性の筆跡だと推測した。

 「猫座衛門!」捜査官が太った三毛猫を抱き上げた。「お前は恋のキューピットだッ!!」

 彼は急いで返事を書こうと手頃なメモ用紙を探し求めた。その時、ジーンズのポケットにあったスマートフォンが振動した。

 「もしもし?」メモ用紙を探していた井上は画面を確認せず電話に出た。

 「仕事だ。」上司の声が聞こえてきた。「すぐに来い。」

 電話が切れた。

  井上は紙を探す手を止め、急いで猫座衛門のゴハンを用意した。

 「すぐに帰って来るからな!」

 三毛猫の頭を撫で、捜査官は職場へ急いだ。

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S.N.A.F.U. (1) [S.N.A.F.U.]

  男の胸は高鳴っており、その鼓動と共に脚の震えが激しくなった。彼は近くにあったベンチに腰掛け、震える脚を両手で掴んだ。

〝何も心配することはない…〟

 プラットホームに列車の接近を報せるアナウンスが流れ、その後に接近警告音が聞こえてきた。男は覚悟を決めて立ち上がり、背負っている鞄の重みを感じながら列車を待っている女性の後ろに並んだ。
新幹線がゆっくりと駅のホームに進入し、完全に停車した数秒後にドアが開いて乗客が降りてきた。降りる人の数は少なく、男は前にいた女性の後を追うように乗車した。女性は左へ、男は右の車両へ乗り込んだ。

 彼は座席に座る人々の様子を窺いながら、車両の真ん中にあった空席の窓際に腰掛け、通路側の席に鞄を置いて一息ついた。

 通路を挟んだ隣に座る白髪頭の老人は雑誌に顔を近づけて読んでおり、彼の方には目もくれなかった。斜め前にはスマートフォンのゲームに夢中になっている大学生と思われる男性、斜め後ろにはスーツ姿の女性二人が座っていた。また、腰掛ける前に男は前の座席に座る20代前半と思われるカップルと後ろの席で居眠りをしているスーツ姿の中年男性を確認していた。

 〝次の駅まで17分…〟

 スマートフォンの画面で時間を確認して男は顔を上げ、通路側の席に置いていた鞄を持ち上げた。彼はそれを頭上の荷物棚に置き、再びスマートフォンで時間を確認した。

 〝あと16分…〟

 数分後に別の車両へ移動しようと考えていたが、高鳴る心臓を感じる内に吐き気をおぼえてトイレへ急いだ。

 「すみません…」

 車両の出入り口に辿り着いた時、後ろから肩を軽く叩かれた。虚を突かれた男は体をビクンと反応させて素早く振り返った。そこには30代初めと思われる黒いスーツ姿の男性がいた。冷や汗が吹き出し、額と背中に大粒の汗が浮ぶのを感じた。

 「忘れ物ですよ。」スーツ姿の男性は荷物棚に置いてきた男の鞄を持っていた。

 〝余計なことをッ!〟

 動揺している男は何も言わずに鞄へ手を伸ばしたが、スーツ姿の男性は鞄を近くにあった座席に上に置いた。

 「すみませんが、少しお話しを―」

 スーツ姿の男性が再び口を開くなり、男は男性を両手で突き飛ばし、後方の出入り口を走り抜けて車両の連結部へ向かった。しかし、連結部のドアに近づいた時、後ろから迫る足音を耳にした。男は急いで振り返り、右押し蹴りを放った。

 男の足が上がるのを見るなり、スーツ姿の男性は左前方へ移動して蹴りを回避し、右腕を男の脚の下に入れて持ち上げた。

 蹴りが決まったと思った男であったが、予期せぬ反撃にバランスを崩して背中から床に落ちた。勢い良く落ちたため、その衝撃で空気が口から漏れて男は呼吸困難に陥った。しかし、逃げることしか頭にない男は身を屈めてきたスーツ姿の男性を見るなり、急いで両脚をバタつかせて左足で男性の胸を蹴り飛ばした。

 スーツの男性が苦悶の表情を浮かべて二歩後退し、その間に男は立ち上がってドアへ急いだ。だが、途中で右肩を掴まれた。男は右腕を振り上げて肘を後ろへ繰り出した。振り返る前に彼は何かに当たる感触を得たが、その直後に右手首を掴まれて背中で腕をねじり上げられ、勢い良く壁に叩きつけられた。

 一時的に男の動きを止めると、スーツ姿の男性は素早く相手の左腕を掴んで後ろに引き、それと同時に男の右脇に右手を通して左腕も掴んだ。男は両腕を後ろで拘束されて動けなくなった。スーツの男性は左手で手錠を取り、拘束した男の手首につけた。

 「ちょっと!」

 女性の声が聞こえ、スーツ姿の男性が声のした方を見た。そこには長い髪を後ろに束ねたパンツスーツ姿の女性がいた。彼女の手には拘束された男の持っていた鞄があった。

 「不審物の確保が優先でしょ!」女性が怒気を込めて言った。

 「容疑者の確保が優先だと思ってさ…」スーツ姿の男が目を伏せて言った。女性の言う通り、彼は男よりも不審物を確保するよう指示を受けていた。

 「班長には連絡を入れたから、すぐに来ると思うわ。」

 すると、連結部分のドアが開いて紺色のスーツを着た中年男性が現れた。

 「大活躍だな、武内…」中年男性が拘束された男の横に立つ黒いスーツ姿の男性に言った。

 「いえ、私は―」

 「武内は不審物よりも容疑者の確保の方が優先だと思っていた様です。」パンツスーツ姿の女性が皮肉を込めて言った。

 「結果オーライじゃないか。情報通り、容疑者と不審物の確保ができた。問題は、コイツの仲間がこの新幹線の中にいるかどうかだ…」班長の田丸が拘束された男を見た。
 
 武内がすぐ容疑者の上着とジーンズのポケットを確認し、スマートフォンと二つ折りの携帯電話を見つけた。

 「古典的だな…」班長の田丸が携帯電話の方が起爆装置だと推測した。「小西、スマートフォンの方を調べろ。」田丸がパンツスーツ姿の女性に指示を出すと同時に、彼女から容疑者の鞄を受け取った。

 小西という名の女性は背負っていた小さい鞄から長さ8センチ、幅2センチほどの黒い箱を取り出し、箱の横にあったスイッチをスライドさせてミニUSB端子を出すと容疑者のスマートフォンに接続した。彼女は黙ってスマートフォンの画面を凝視し、スーツ姿の男性二人は彼女を見守った。

 接続されると黒い箱は強制的にスパイウェアをスマートフォンに送り、データをコピーすると同時にパスワードを強制入力させてロックを解除させた。スマートフォンの画面が明るくなり、小西が口角を少し上げて上司を見た。

 「貸してくれ」田丸がスマートフォンを受け取り、通話履歴に目を通した。30件を超える通話履歴があったが、最初の5件だけは登録されていなかった。「分かりやすいな…」

 拘束された男はうな垂れ、小さく何か呟いていた。しかし、武内はそれを無視して班長の指示を待った。

 「コイツの仲間に電話する。武内は車両内を探り、不審人物または不審物の捜索を続けろ。小西はコピーしたデータの確認だ。」

 「はい。」

 田丸がリダイヤルを行なった瞬間、遠くから破裂音と女性の悲鳴が聞こえてきた。突然のことに三人は固まったが、急いで武内と田丸が音のした方へ走った。

 2つ離れた車両に着いた時、多くの人だかりと黒煙が見えた。人々は煙から逃げようとしていたが、武内と田丸は彼らを押し退けて黒煙の上がる場所へ急いだ。煙は連結部分にある化粧室から上がっており、ドアの前には血だらけの女性と子供が横たわっていた。

 武内は急いで倒れている親子と思われる二人の脈を確認し、まだ生きていることが分かると、ケガの様子を見ずに二人を両脇に担いで煙から逃げるように別の車両へ移動した。

 〝まさか…〟田丸が右手に持ったスマートフォンを見た。

 その頃、拘束されていた男が甲高い声を上げて笑っており、それを見た小西は恐怖して鳥肌を立てた。













第1話











 久々の休日を満喫した翌日であったため、『井上大輔』の気分は爽快であった。

 今まで歩くのも苦痛であった廊下も、今日は明るく、空気が澄んでいるように感じられた。だが、そこを歩く人々の顔には疲労が浮かんでおり、足取りも重そうであった。それでも井上は気にせず、軽い足取りで自分のオフィスに向かった。

 既に開かれていたドアを通り抜け、部屋の右端にある彼が所属する班の机を見た。そこには7つの机が並べられており、6つは2列になって向かい合うように並び、最後の1つはその6つを見下ろすような形で奥に置かれていた。奥の3つにはデスクトップ・コンピューター、残りの3つにはノートパソコンが設置されており、各机には固定電話があった。

 「誰も来てないのか…」誰もいないと思って井上が呟いた。

 「みんな、第三会議室に行ったよ。」

 後ろから声がしたので井上は驚いて振り返った。そこには同じオフィスで働く眼鏡をかけた若い女性がいた。右手にスマートフォン、左手にコーヒーの入ったマグカップを持っている。

 「第三会議室?」井上がオウム返しに尋ねた。

 「なんでも緊急の案件らしいわよ。急がないとまた半田さんに怒られるよ。」

 井上は早足で会議室に急ごうとしたが、彼は先ほどの女性の所へ引き返した。

 「神田さん!」

 突然大声で名前を呼ばれて驚いた女性はコーヒーを床にこぼした。

 「ビックリしたじゃない!」苛立ちながら神田と言う名前の女性が応えた。

 「来週の合コンのセッティング忘れないでよね!」

 そう言い残して井上は第三会議室へ急ぎ、神田は悪態つきながら床にこぼしたコーヒーをティッシュでふき取った。

 恐る恐る会議室のドアを開け、井上は室内の様子を窺った。中にはノートパソコンの画面を睨み付けている30代半ばの男性と幼い顔立ちの女性、そして、彼らの隣で肩肘をついて居眠りをしている20代初めの女性がいた。

 〝班長はまだ来てないな…〟

 「休みは満喫できたか?」

 ドアを押し開けようとしていた井上の背後から低い声が聞こえてきた。彼はゆっくりと振り返り、黒いスーツに身を包んだ男性と向き合った。井上の髪と違って男性の髪は短く整えられており、彫りの深い顔立ちで鋭い目つきをしていた。

 「疲れが全部吹き飛びましたよ!」井上が笑みを浮かべて上司の質問に答えた。

 「ちょうどいい。面倒な仕事が入ったから、お前に頑張ってもらおう。」上司の『半田弘毅』が口元を緩めた。

 「面倒な仕事って…」嫌な予感を汲み取った井上は眉間にしわを寄せた。この時、彼は上司の後ろにいる男の存在に気付いた。

 その男は半田と同じ色のスーツに青いネクタイ、白いワイシャツ姿で、井上は服装と雰囲気から男がSPかボディーガード関係者だと思った。

 井上の視線の方向に気付くと、半田が後ろにいる男の方を見た。「今日から配属される浦木だ。」

 「新人さんですか…」と井上。

 「よろしくお願いします。」浦木が一礼した。

 「こちらこそ…」釣られて井上も一礼してしまった。

 「いつまで立ってるつもりだ?」会議室の中に入った半田が二人に問いかけた。井上と浦木は早足で室内に入った。

 会議室には円形テーブルとそれを囲むように椅子が6脚置いてあった。その内、3脚は既に使用されており、井上と浦木は空いていた椅子に座って半田の方を向いた。

 「おはよー」井上が隣に座る幼い顔をした女性に小さな声で朝の挨拶をした。彼女の顔には疲労が浮かんでおり、同じく小さな声で「おはよ」と応えた。

 30代半ばの男性と20代初めの女性は新人の浦木に気を取られ、井上の挨拶に気付かなかった。

 「おはよう」半田は椅子に座らず、5人の部下に目を配らせた。「柄沢、増井、新川には申し訳なかったが、緊急の案件だったからな…」

 「その案件って何です?」身を乗り出すようにして机に両肘を置いた井上が尋ねた。

 「これから説明する。柄沢、頼む。」半田が部屋の明かりを消し、30代半ばの柄沢という名の分析官がノートパソコンの横にあった小さなリモコンを使って、天井に設置されていたプロジェクターの電源を入れた。

 プロジェクターの明かりが半田の真横にあった壁に照射され、柄沢が使用しているパソコンの画面が表示された。そこには複数のウィンドウが並んでおり、井上と浦木には全く見当もつかない数列や文字列だけのウィンドウもあった。

 「既に知っていると思うが、昨日の14時40分に東京行きの『なすの276号』で爆破事件が起こった。事前に攻撃の情報があり、田丸班が不審物と不審人物の捜索に向かって容疑者とパイプ爆弾の入った鞄を確保した。だが、7号車と8号車の連結部にあるトイレで爆発が起こり、トイレを利用しようとしていた43歳の女性と5歳の男児が意識不明の重体で入院している。拘束した男の―」

 「班長?」井上が半田の話しを遮った。これを見た半田と浦木を除く3人は〝またかよッ!〟と思っていた。井上は何か気になることがある質問する癖があり、他のメンバーはそれにうんざりしていた。「田丸班って言いました?」

 「そうだ。」半田が部下の目を見て答えた。彼は特に井上の質問癖にうんざりしていなかった。

 「ってことは、2課の仕事じゃないんですか。何でウチの課に?」

 「お前の言う通り2課の仕事だが、田丸班は野次馬に姿を撮影されて現場から外され、他の班は別の左翼組織を追っている。ゆえに時間の空いている俺たちの方に回されてきたんだ。」

 半田の説明を受けても井上は納得していなかったが、腕を組んで話しの続きを聞くことにした。

 「捕まえた男の他にも協力者がいた可能性があるため、柄沢たちに駅構内の監視カメラの記録を確認してもらっていた。」半田が柄沢の方を向いた。

 合図を受けた30代半ばの分析官が、プロジェクターを通して壁に若い男の顔写真を表示させた。

 「この男が田丸班に拘束された『枝野薫』、25歳。『紅蓮』の下部組織に所属している人物です。」ノートパソコンから顔を上げて柄沢が言った。疲労の見える顔は青白く、着ている水色のワイシャツは皺だらけであった。

 「愚連隊がテロですか?」再び井上が口を挿んだ。

 「左翼系テロ集団の名前だよ。」柄沢が呆れながらも丁寧に説明した。「近年は目立った行動がなかったので、正直2課も驚いてます。枝野が乗車した小山駅の監視カメラの映像を顔認証ソフトで調べましたが、二つ目の爆弾を設置した男はまだ見つかっていません。」

 「すみません…」新人の浦木が手を挙げた。

 半田が浦木に顔を向けると、すぐ右手を上げて新人の発言を抑えた。

 「紹介が遅れたが、今日から一緒に働いてもらう浦木だ。」話しの腰を折る形になってしまったが、半田は必要なことだと思った。

 「浦木です。よろしくお願いします。」新人が椅子に座るメンバーの方を向いて一礼し、すぐ半田の方に顔を戻した。「質問ですが、その事前に得ていた情報の中には、拘束した男の顔写真もあったのでしょうか?」

 「拘束した男のものはありましたよ。」と柄沢。

 「もう一つの疑問ですが、その男がトイレにも爆弾を置いた可能性があるのでは?」浦木が尋ねた。

 「いや、それは田丸班の武内の証言で否定されている。」半田が壁に寄り掛かって腕を組んだ。「拘束された男は小山駅にいた時点で監視されていたから、もう一つの爆弾を設置する時間はなかった。確かに、その男はトイレに向かっていた。だが、その前に拘束されている。」

 「なるほど…」聞き取れないほどの小さな声で浦木が呟いた。

 「しかし、第二の爆弾について手掛かりが全く無い訳ではない。」班長の半田が壁から離れた。「柄沢、あの写真を見せてくれ。」

 名前を呼ばれた男性分析官が、数本のワイヤーとデジタル時計の文字盤が取り付けられていたパイプの写真を壁に映しだした。

 「これが押収されたパイプ爆弾です。それから…」柄沢がキーボードを叩くと別の写真が現れた。次の写真は煤に覆われた金属片であった。「これがトイレで発見された爆弾の破片です。トイレで爆発した物もパイプ爆弾だと鑑識は推測してます。簡単に作れる物なので、出所の特定は難しいと思いましたが…押収した爆弾のワイヤーの巻き方から、ある人物が浮かび上がりました。詳しくは増井から…」そう言うと、柄沢が隣に座る幼い顔をした女性の方を見た。

 視線を受けた増井という名の女性がキーボードを叩き始め、その間に柄沢がプロジェクターのリモコンでモニターの表示を切り替えた。先程まで壁に照射されていた写真が消え、人混みの中でタバコを吸う男の写真が現れた。

 「彼は黒沢秀樹。」幼い顔をした増井が言った。「『ホーム』という不動産会社勤務ですが、婦女暴行と爆取[注:爆発物取締罰則]違反の前科があります。また、いまだに爆弾を製造して売買している可能性が高いとされてます。」

 「爆弾製造より婦女暴行の前科の方が怖いなぁ~」井上が首を回しながら言った。

 「何で?」咄嗟に増井が尋ねた。

 「不動産関係者で婦女暴行犯だぜ?他にも色々と余罪がありそうだし、獲物を見つけるにはもってこいの仕事じゃない?」

 「井上、少し黙っていろ。」半田が冷たい口調で言った。これを聞いて井上は口をきつく閉じた。

 「黒沢と『紅蓮』の接点はありませんが、爆弾の作りが似ているので、今回の件について何か知っている可能性があります。」報告を終えた増井が半田の方を見た。

 半田が黒沢の写真の前に立ち、全身に青白い光を浴びた。「柄沢と増井には休憩を取ってもらい、新川は俺と再び監視カメラの映像確認だ。」

 名前を呼ばれた20代前半の新川の顔に驚きの表情が浮かんだ。

 「私も昨日の夜から働いて―」

 「さっきまで寝てたろ。」

 バレていないと思っていた新川は目を見開いて上司を見た。

 「新川は1時間だけ仮眠を取ってこい。柄沢と増井は2時間の仮眠の後、再び顔認証ソフトを―」

 「班長?」井上が半田の話しを遮った。「現場担当はオレ1人ですか?」

 半田が不思議そうに部下の顔を見つめた。「浦木がいるだろ?」

 「え?」井上が上司を見返した。

 「お前は浦木と一緒に黒沢の家へ向かえ。住所を携帯端末に送るから装備を整えて来い。」

 浦木が立ち上がり、井上を見下ろした。「急ぎましょう。」

 「あ、あぁ…」新人の顔を見上げて井上が応えた。



***



 突然の呼び出しであったため、『久野雅人』は体調不良を訴えて会社を早退することにした。

 急いで東京メトロ銀座線田原町駅の近くにあるファミリーレストランに入り、店内を見回して待ち合わせしている人物を探した。開店して数分しか経っていなかったので、客の姿は少なかった。

 「いらっしゃいませ!」メニューを持った中年の女性店員が近づいてきた。「お一人様で―」

 「待ち合わせをしているんだ。」久野が女性店員の話しを遮り、目的の人物を探した。しかし、その人物は見当たらなかった。

 「失礼しました。」そう言って女性店員はキッチンの方へ戻って行った。

 〝場所を間違えたか?〟

 久野がスマートフォンでメールを確認しようとした時、店の一番奥に座る坊主頭の男が小さく手を振った。それは間違いなく久野に向けられた合図であった。

 見知らぬ人物の出現に戸惑ったが、久野は覚悟を決めてゆっくりとその男がいる席に向かった。坊主頭の男はチョコレートケーキを食べており、久野が向かい側の席に座るまでフォークをテーブルに置こうとしなかった。歳は20代半ばくらいに見え、体型は細身であったが、血色のよい肌の色をしていた。

 「はじめまして…ですよね?」久野が先に口を開いた。

 「そうですね。」坊主頭の男がナプキンで口を拭った。

 「草加さんはどちらに?」

 「別件で忙しいそうです。」

 「すみませんが、お名前をお聞きしても?」久野は男の素っ気ない態度が気に入らなかった。

 「金村です。あなた方の後始末をするように命じられています。」坊主頭の男が次の来るであろう質問を予想して言った。

 〝後始末だと?〟

 「どういうことでしょうか?」と久野。

 「草加さんに相談もせずに、“あのようなこと”をするからですよ。」

 「あれは奴らが勝手に―」

 「部下の責任は上司の責任ですよね?」金村が久野を睨み付け、その鋭い眼光に久野はたじろいで目を逸らした。

 「では、私たちを消しに来たんですか?」

 「まさか…」金村が鼻で笑った。「ただでさえ人手が足りていないのに、消すなんてことはありえませんよ。」

 「それでは何が望みなんですか?」久野の声は震えていた。

 〝確かに殺す気なら、事件の後にできた…。目的は金か?〟

 「もう一人の男を探しています。」

 「もう一人の男?」オウム返しに久野が尋ねた。

 「一人はしくじりましたが、もう一人は成功したようですね?」

 「津上のことですか?」金村が意図することを読んで久野が言った。「私たちも探しているのですが―」

 「その人物の住所を教えてください。」金村がスマートフォンを取り出した。

 「行っても無駄ですよ。アイツの女の家にも当たりましたが、いませんでした…」

 坊主頭の金村が再び久野を睨み付けた。「無駄かどうか、判断するのはこちらの仕事です。」

 向かい側に座る男の視線に怯え、久野は下を向いた。彼は急いで上着の内ポケットからメモ帳を取り出し、目的のページを見つけると金村に見せた。

 「津上の写真はどなたに送ればいいでしょうか?」と久野。

 「私の番号を教えますので、そちらに送って下さい。」



***



 静寂。

 車を走らせて15分、井上と浦木は一言も発していなかった。井上は窓枠に右肘を置きながらハンドルを軽く握って車を運転し、浦木は両手を膝に置いて前を見つめていた。

 「ここの前は何所にいたんだ?」居心地の悪さに耐えきれなくなった井上が、助手席にいる浦木を見た。

 「警備部です。」浦木が井上の方に顔を向けた。

 「SPか?」

 「そうです。警護課の第4係にいました。井上さんは?」

 「オレも警備部だったけど、銃対だから全く毛色の違うもんだ…」

 「銃器対策部隊ですか?」浦木が目を見開いた。

 「銃対出身者は珍しいかい?」いたずらな笑みを浮かべて井上が言った。

 「いいえ。何度か銃対の方とは会っているので…」

 「じゃ、何で驚いた?」

 「叔父が銃対にいたので、あの部隊にいる人たちを尊敬しているんです。」

 「んじゃ、オレも尊敬の的になってるのかな?」

 「はい。今のところ…」

 「それ、どういうこ―」

 浦木が右人差し指で前方を指し、井上は喋るのを止めて指の示す方向を見た。そこには黒沢秀樹の住む単身者向けの8階建てマンションがあった。

 「この続きは後でしよう。」車をマンションの前に停めて井上が言った。

 しかし、浦木は先輩の話しを聞かずに乗用車から降りて周囲を見回した。黒沢の自宅は東京都北区東10条2丁目にあり、周りは同じまたは3階ほど高いマンションに囲まれていた。目的のマンションの右隣には2階建ての民家、左隣には3階建ての古いアパートがあった。

 「学生向け…って感じだな…」マンションの入り口に移動しながら井上が呟いた。

 「最近、こういうマンションばっかりですよ。」

 「へぇ~」

 二人は自転車とスクーターの横を通ってマンション中に入り、横目で黒沢がいる5階の郵便ポストを見てからエレベーターの上昇ボタンを押した。



***



 休日ということもあって、黒沢秀樹は昼過ぎまで寝ていようと思っていた。だが、空腹感に敗けて起き上がり、カーテンを勢いよく開けた。

 欠伸をしながら黒沢は床に散乱している雑誌や空き缶を足で端に寄せ、小さな冷蔵庫に近づくとドアを開けて中を確認した。そこには昨日買った発泡酒缶3本とマヨネーズしかなかった。彼は舌打ちをしてドアを叩きつけるように閉めた。

 「買い物に行くか…」

 独り言を呟いて黒沢は財布と部屋の鍵を持って玄関に向かった。サンダルを履こうとしたが、片方のストラップが壊れていたため、仕方なくスニーカーを選んだ。

 廊下に出て鍵を閉めようと動いた時、廊下の奥にあるエレベーターのドアが開いた。

 〝ラッキー!〟

 急いで施錠しようとしたが、エレベーターから降りてきた二人組の男を見てその手を止めた。2人とも背格好は似ていたが、1人はスーツ姿で、もう1人は濃紺の襟付きシャツに色褪せた青いジーンズ姿であった。目が合うと、ラフな格好をした男が笑みを浮かべ右手を上げた。

 〝警察か?〟

 突然のことに動揺した黒沢は素早く動けなかった。逃げたくても階段はエレベーターの横にあり、彼の背後と横には壁があって逃げ道がない。

 「すみません。」スーツ姿の浦木が黒沢に話し掛けた。「黒沢秀樹さんですか?」

 彼らの距離は3メートルに縮まっていた。

 〝クソッ!〟黒沢が急いで自室のドアを開けて中に飛び込んだ。

 井上と浦木は彼の後を追い、井上がドアを開けて先に中へ入り、浦木が続いた。二人は窓の鍵を解除してベランダに出る黒沢の後ろ姿を確認した。

 〝まさか!〟

 自殺を予想した二人は全速力でベランダまで走った。しかし、その前に黒沢は安全柵を乗り越えて飛び降りた。

 〝クソッタレ!〟

 ベランダに辿り着いた井上と浦木が地面に視線を向けたが、そこに黒沢の姿はなく、ゆっくりと歩く老夫婦の姿しかなかった。

 「あの野郎、何所に―」

 井上が悪態ついた時、浦木がベランダの安全策を乗り越えた。

 「おま―」新人の腕を掴もうとしたが、井上の右手は空を切った。

 一方、浦木はマンションの右斜め前にあった3階建ての古いアパートの屋上に向かって飛んだ。その屋上には着地に失敗して右膝を抱え込んで横になっていた黒沢がいた。浦木は膝をクッションにして上手く着地したが、鈍い痛みが両足に走った。

 井上も安全策を越えようとしたが、恐怖心が込み上げて持ち上げた右脚を下げた。

 「クソッ!」そう言いながら、井上は階段の方へ走った。

 スーツ姿の浦木を見るなり、黒沢は急いで立ち上がって片脚を引きながら逃げた。浦木は素早く拘束しようとしたが、その前に標的が白い安全策を乗り越えて隣の民家の上へ飛んだ。

 今度は立ち止まらず、黒沢は三角屋根を滑り降りて目の前にあった6階建てのマンションの1階に設置された日除けの上に飛び移ろうとした。だが、上手くタイミングが合わず、胸を日除けに叩きつけて地面に落ちた。彼は激痛に呻きながらも立ち上がって走り出した。

 浦木も三角屋根を滑り降りたが、彼は上手く民家の塀をクッションにして地面に降り、走り出そうとした。その時、彼の横を井上が横切り、逃げる黒沢にタックルして地面に叩きつけた。黒沢は抵抗したかったが、再び胸を強打して呻いていたので、井上は難なく標的を拘束することができた。

 「さぁ、帰るぞッ!」近隣住民の目を気にもせず、井上が黒沢を連行して浦木の前で立ち止まった。彼の呼吸は乱れており、額には大粒の汗が浮かんでいた。

 「タックルしてもいいんですか?」車に戻りながら浦木が尋ねた。

 「ケース・バイ・ケースだ。」井上が黒沢を車の後部座席に押し込んで言った。



***



 〝クソッ!クソッ!クソッ!〟久野が自分の片膝を掴みながら、携帯電話から聞こえてくる呼び出し音に耳を傾けていた。〝枝野の奴め…〟

 彼は逮捕された部下に対して苛立っていた。久野は事前に何の連絡も受けておらず、家族と晩御飯を食べていた時に新幹線で起った爆発事件と枝野の逮捕を知った。すぐ仲間に連絡した結果、『津上翔一』が事件後から音信不通になっていることに気付いた。事件後に仲間と連絡を取るという迂闊な行動を取ってしまったが、久野は警察の盗聴よりも『紅蓮』を恐れていた。

 「もしもし?」受話口から穏やかな男の声が聞こえていた。

 「草加さんですか?久野です。今、大丈夫でしょうか?」

 「問題ありませんよ。どうしましたか?」

 「今回の件は申し訳ありませんでした。あれは部下が勝手にやったことでして、私は何も知らなかったんです。」久野は早口で話し、どうにかして電話の相手の機嫌を取ろうとした。たとえそれが言い訳のように聞こえていたとしても、彼は構わなかった。

 「過ぎたことですよ、久野さん。」電話の相手である草加が言った。「それに、その件はもう金村さんに任せましたので、あなたは無用な混乱を生まないようグループの統制をしっかりしてください。来る日のための準備があることを忘れないでくださいよ。」

 「あ、ありがとうございます!」予期せぬ言葉に久野は感動し、全身の鳥肌が立つのを感じた。

 「いいんですよ。今回はある意味、お手柄ですからね…」

 「え?」

 「話しは以上ですか?」草加が尋ねた。

 「あっ、は、はい…」

 久野がそう答えると、通話が切れた。



***



 半田弘毅が課長の『袴田照雄』と共に会議室に入った。

 室内には左翼テロ組織の捜査を担当している2課の課長である『風見卓』、同課第3班の班長の『田丸隆文』がいた。

 「今回は申し訳なかった。」半田と袴田を椅子に見ると風見が立ち上がって頭を下げた。

 「いえ、こちらも手の空いてる班がいましたので…」テーブルの向こう側にいる2課のメンバーと向かい合うように座った袴田が言った。半田は何も言わずに上司の隣に座った。

 「とは言え、私の課のミスで―」

 その時、会議室のドアが開き、禿げ頭の男が入ってきた。この男が対テロ捜査部門の部長『本郷光太郎』であった。

 「捜査の進展は?」本郷がテーブルの端にあった席に座って誰ともなく尋ねた。

 「爆弾の製造者を拘束し、背後にいる人物について尋問しています。」本郷の目を見ながら袴田が報告した。

 「『紅蓮』じゃないのか?」と本郷。

 「それは間違いないのですが…」袴田が言葉を詰まらせた。

 「今回の事件は『紅蓮』の下部組織による犯行で間違いないです。」風見が話しに割り込み、本郷が彼に目を向けた。「しかし、奇妙な点があります。」

 部長の本郷は黙って風見を見つめ、話しを促した。

 「『紅蓮』は近年、目立った行動を見せていませんでした。まるで、更生したかのようにメンバーは普通の生活を送っています。それに所持していた武器も売買または廃棄し、社会復帰に勤しんでいるように見えました。」

 「どうやら全部演技だったようだな。」本郷が表情を変えずに言った。「その演技は昨日の攻撃のためだったのか?」

 「まだ調査中です。しかし、その可能性が高いと思います。」と風見。

 「いずれにせよ、情報が足りてないようだな。」

 袴田と風見は目を伏せて机を見た。半田は背筋を伸ばして椅子に座り、綺麗に磨かれた机に反射する蛍光灯の明かりを見つめていた。一方、田丸は俯いて上司たちの話しに耳を傾けている。

 「上は事件の早期解決を望んでいる。メディアには拘束された男が主犯ということにしたが、第二の犯行が起れば、そうはいかない。『紅蓮』が何か企んでいるとしたら、次の攻撃を考えている可能性がある。気を引き締めて取り掛かってくれ。」

 本郷が椅子から立ち上がり、会議室を後にした。

 「課長。」ドアが閉まると同時に半田が袴田に話し掛けた。「戻っていいでしょうか?」

 「あぁ…、進展があったら、すぐ連絡してくれ。」

 「分かりました。」



***



 マジックミラー越しに浦木と黒沢の会話を聞いていた井上は、頭に浮かんだ疑問をメモ帳に書き込んでいた。すると、半田が井上のいる部屋に入ってきた。

 「班長…」井上が上司を見た。

 「進展は?」

 「う~ん、進展というよりも謎が深まった感じですよ。」

 「どういうことだ?」半田が部屋にあったオフィス椅子に腰掛けて脚を組んだ。

 「黒沢は最近爆弾の製造を依頼されたそうですが、その数って1つだけなんですよ。」

 「確かなのか?」半田が表情を変えずに部下の顔を見続けた。

 「浦木が何度か鎌をかけてみたんですが、ボロを出すことはなかったです。見ていても、嘘をついてる様には見えなかったし…」

 半田がマッジクミラーの向こう側にいる黒沢に顔を向けた。黒沢は必死に向かい側に座る浦木に「俺も被害者なんだ!」と訴えていた。

 「処理班から連絡は?」半田が視線を井上に向けて尋ねた。

 「ありましたよ。新幹線で拘束された男のパイプ爆弾の中身は砂でした。それから、田丸班の武内がそのことを男に伝えたら、すごく驚いてたようです。まぁ、口の堅い男だったらしいので、武内は男が偽の爆弾を持っていたことを知らなかったと推測してますし…」

 「つまり、あの枝野という男は囮で、トイレの爆弾が本命であったと?」

 井上が肩をすくめた。「かもしれません…」

 部屋のドアが開いて浦木が入って来た。半田の存在を予期していなかった浦木は驚いたが、すぐに平静を取り戻して持っていた小型タブレットの画面を半田と井上に見せた。そこには20代半ばに見える男の顔写真が表示されていた。

 「コイツは?」と井上。

 「津上翔一。枝野と同じく『紅蓮』の下部組織に所属している男です。黒沢は彼から爆弾の製造を依頼されたと言っています。」浦木が淡々と情報を述べた。

 「間違いないのか?」半田が椅子から立ち上がった。

 「はい。それから、黒沢は顧客の写真をUSBに保存して自宅に隠しているようなので、そこからも裏が取れると思います。」浦木が情報を付け足した。

 部下からの報告を聞いた半田は、俯いて小さく二度頷いた。そして、再び井上と浦木を見た。

 「お前たちは津上翔一の自宅へ向かえ。黒沢の尋問は俺と柄沢が引き継ぐ。それからUSBは田丸班に捜索してもらう。」

 「了解。」

 そう言って井上と浦木が部屋から出て行った。

 半田は部屋にあった固定電話の受話器を取り、分析官のいるオフィスに電話をかけた。呼び出し音が聞こえたかと思うと、すぐ女性の声が聞こえてきた。

 「増井です。」

 「半田だ。柄沢に第二拘束室へ来るように言ってくれ。それから増井は新川と共に井上と浦木の援護をしてくれ。」

 「分かりました。」

 受話器を元の位置に戻し、半田はマッジクミラーの向こう側にいる黒沢秀樹を見た。

 〝面倒な事件だな…〟



***



 部屋の錠は既に解除されており、用意していた電動ピッキングガン[注:トリガーの無い、棒状の乾電池で動くピッキングガンのこと]を使う必要がなかった。

 久野の部下2人が津上翔一のマンションに入って行くのを見たので、彼らが出るまで金村は外で待機し、2人が出て行くと建物の中に入った。施錠されているかと思いきや、久野の部下は鍵穴に大量の傷跡を付けて立ち去っていた。金村は容易にそれがピッキングの痕跡だと分かった。
室内は荒らされていて、床には物が散乱していたほか、砂や小石、靴の跡が見られた。

 〝酷いな…〟後ろ手でドアを閉めながら金村は思った。

 彼は靴を脱いでリビングへ向かい、荒らされた部屋の様子を見てため息をついた。

 〝これじゃ泥棒と変わらない…〟

 リビングの床には本やDVD、食器などが転がっており、脚の短いテーブルも引っくり返され、その上に乗っていたと思われる雑誌とリモコンが下敷きになっていた。また、窓の近くにあった二人掛けのソファーも倒されて埃だらけの底部が見え、ソファーと同色のクッションがその横に転がっていた。慎重に室内を見回した後、金村は床に散らかっている物に気を付けながら隣にある寝室へ移動した。

 そこで目にしたのは倒された5段作りの本棚、床に散らばった多数の本、衣服、枕、ブランケット、そして、マットレスであった。窓際にあったベッドはリビングのテーブル同様引っくり返されていた。クローゼットの中にあった衣服が床に放り出されていたので、その中は空になっていた。

 〝一通り探したみたいだが…〟

 金村がクローゼットに近づき、天井と底部に指を這わせた。しかし、仕掛けなどはなかった。同じ点検をベッドのフレーム、本棚、マットレスにも行ったが、何も見つからない。次に彼はキッチンへ行き、棚と引き出しの隅々を点検した。収穫なし。

 〝草加さんの思い違いか?〟

 坊主頭の男はバスルームにも行って点検を行ったが、そこにも何もなかった。最後にトイレへ行き、タンクの中を確認した。何もない。しかし、タンク蓋の裏を見るとジップロック袋に入った二つ折りの携帯電話があった。



***



 分析官の増井から津上翔一の住所を得た井上と浦木が、江東区北砂4丁目にある6階建てのマンションに到着した。そのマンションの1階がチェーン店の弁当屋になっており、2階から6階が居住スペースであった。

 二人は津上の部屋がある3階へ向かうため、エレベーターに乗り込んだ。

 「なぁ…」井上が浦木に顔を向けた。「もし、あの拘束された男…枝野だっけ?アイツが囮で、本命の爆弾があったんだったら…何でトイレなんかに設置したんだ?」

 エレベーターが3階に到着し、ドアが開いた。

 「津上さんに直接聞いてみましょうよ。その方が私の推測よりも良いと思いませんか?」浦木がエレベーターを降りた。

 「質問に質問で返すかよ。」新人を追いかけるようにして井上もエレベーターを降りた。

 「でも、敢えて言うなら、彼は実行の直前になって怯え、爆弾をトイレに置いたのかもしれません。」

 「ありえるな…」

 津上の表札がある部屋の前に立つと、浦木がインターホンを押した。

 「おい。」井上がドアノブの上にあった鍵穴を指差した。

 鍵穴の付近には複数の傷跡があり、二人は素人によるピッキングの痕跡と推測した。

 静かに井上がドアノブを落とし、施錠されているかどうか確認した。ドアノブはゆっくりと下まで落ち、軽く引くとドアが動いた。廊下に一度視線を走らせて無人であることを確認すると、二人はインサイドパンツ・ホルスターからG19拳銃を抜き取った。

 井上はドアの前に立って左手をドアノブにかけ、右手で握った拳銃を胸の前で構えた。一方、ドアの横に立つ浦木は銃把を両手で握り、銃を顔の中心に置くようにして血作構えた。ドアを開ける前に井上が視線を浦木に送り、新人が小さく頷いた。



***



 エレベーターのドアが開くと田丸の姿が見えた。

 軽く頭を下げて半田がエレベーターに乗り込み、4階のボタンを押すと田丸の横に並んだ。

 「そっちはどうなってる?」田丸が口を開いた。

 「爆弾製造者の尋問を終えたところだ。どうやら思ったよりも、複雑な事件みたいだな…」エレベーターの表示パネルを見ながら言った。

 これを聞いた田丸は額に汗が浮かぶのを感じた。「何故だ?」

 「製造者の黒沢によれば、作った爆弾の数は1つらしい。それに拘束された枝野の爆弾は偽物だった。そうなると、2課の得た情報が偽情報だった可能性がある。」

 田丸は何も言わなかった。

 「だが、疑問がある。何故、テロリストはトイレに爆弾を設置したのか?」半田が大人しい田丸の方を見た。彼の額には大粒の汗が浮かんでおり、口をきつく閉じていた。「そっちはどうなってる?」

 目だけ動かして田丸が半田を見た。「枝野の尋問が終わったところだ…」

 「津上の家に俺の部下を派遣した。もうすぐ連絡が来るはずだ。」

 「そうか…」

 エレベーターが4階に着き、静かにドアが開いた。

 「お先に失礼…」

 半田が右足を一歩踏み出すと田丸がドアを閉めた。半田が鋭い視線を田丸に向けた。

 「今回の情報源は公安部だったんだ…」俯いた状態で田丸が言った。「それに…」

 突然、田丸が喋るのをやめたので半田は不思議そうに目の前に立つ男を見つめた。すると、エレベーターのドアが閉まって上昇し始めた。

 「どうしたんだ?」と半田。

 「津上翔一だが…アイツは公安が6年前にリクルートした男だ。」

 「じゃ、津上が今回の情報源なのか?」

 田丸が小さく頷いた。

 「しかし、そうなると公安の仕事になるはずだ。何故、2課で対処した?」

 エレベーターが止まり、ドアが開いて談笑していた女性職員二人組が見えた。半田は田丸の右腕を軽く叩いて降りるように促し、その際に待っていた女性職員が乗り終えるまで左手でドアを抑えた。二人の女性職員は半田にお礼を言ってからドアを閉じた。

 「公安で対処しようとしたらしいが、津上からの連絡が事件発生の2時間前だったんだ。ゆえに準備する時間がなく、捜査協力をしていたウチの班に連絡が来たんだ。」

 顔に汗を浮かべる男の話しを聞いても、半田は眉一つ動かなかった。彼は田丸が貴重な情報を隠していたことに苛立ち、今の話しも真実なのか疑っていた。

 「風見課長は知ってるのか?」と半田。

 「知っている…」

 半田は呆れた。つまり、2課の課長も田丸も局長に情報を隠していたことになる。

 〝早く津上を見つけて、田丸に押しつけるか…。長引けはウチの班員にまで被害が及ぶかもしれない。〟

 「他に隠し事は?」上着の内ポケットからスマートフォンを取り出して半田が尋ねた。

 「それはないッ!」突然田丸が声を荒げた。

 〝ありそうだな…〟

 「部下に連絡しなければならないから、ここで失礼する。」

 田丸はもの言いたげな表情をしていたが、半田はそれを無視して増井に電話をかけた。

 「増井です。」呼び出し音が鳴ったかと思うと、女性分析官が電話に出た。

 「半田だ。津上は見つかったか?」廊下を歩く半田が訊いた。

 「宇都宮駅の監視カメラ映像を確認した結果、顔認証システムが津上らしき人物を発見しました。ただ、帽子を目深にかぶっていたので、もしかしたら別人の可能性もあります。」

 「その後の足取りは?」

 「まだ掴めていません。」

 「井上と浦木は?」半田は非常階段を素早く駆け下りて4階を目指した。

 「津上の自宅に向かった後、まだ連絡はありません。」

 「連絡して進捗状況を聞き出してくれ。」

 「分かりました。」

 
 
***



 ドアを引き開けて井上が室内に銃口を向けると、姿勢を低くした浦木が素早く室内に進入した。

 「津上さん、いますか?」ドアを閉めて井上が言った。

 その間に浦木は床に散らばった物を踏まないよう先へ進み、井上は途中にあったトイレと浴室を確認して新人の後を追った。リビングの入り口で待機していた浦木の後ろに付くと、井上が新人の左肩に手を置いて到着を告げた。

 すると、浦木が素早くリンビングに進入して右へ移動し、井上も彼の後を追うようにして室内に入るも、浦木よりも慎重に荒らされた室内を確認した。寝室、台所も確認したが、誰もいなかった。

 「遅かったか…」ホルスターに拳銃を戻して井上が言った。

 浦木は部屋の隅々に視線を走らせ、まだ拳銃をホルスターに戻そうとはしなかった。

 「ひどく荒らされてるけど、泥棒さんかね?」部屋の様子を見て井上は驚いていた。

 「何か探していたようにも見えますが…」浦木がやっと拳銃をホルスターに収めた。

 「物取りに見せかけて証拠を隠滅した、って言いたいのか?」

 「だとしても、これは違う気がしますけど…」浦木が押し倒されたソファーを見て言った。「部屋を荒らした人物は、何かに怒っているようにも見えますけどね…」

 井上は肩をすくめて再び部屋を見渡した。「いずれにせよ、班長に連絡だ…」

 先輩捜査官がスマートフォンで半田に連絡を入れた時、浦木は津上の寝室へ移動した。彼は床に散らばっていた物に目を通し、ふと倒された本棚の陰を覗き込んだ。そこには数冊の本と写真立てがあった。浦木はその写真立てを取り、引っくり返して写真を見た。そこには顔を寄せ合う若い男女が写っていた。

 〝交際相手か…〟彼は写真立てを持ってリビングにいる井上の所へ戻った。

 「すごい荒らされてますよ…」井上が浦木の手にある写真立てを見た。「なんか、浦木が見つけたみたいです。」そう言って、スピーカーモードに切り替えた。

 「津上には交際相手がいるようです。」先輩捜査官に写真を見せて浦木が言った。

 「身元は分かるか?」受話口から半田の声が聞こえてきた。

 「写真はありますけど、身元は分かりませんよ」浦木の代わりに井上が答えた。

 「その写真を送ってくれ。お前たちはそこで手掛かりを探せ。」

 「了解。」
 


***



 道路を挟んだ向かい側にあるバス停のベンチに座っていた金村は、津上が来ることを予想していた。だが、彼が目撃したのは警察関係者と思われる二人組であった。

 〝公安か?〟

 自然な動きでスマートフォンを取り出し、津上のマンションに近づく二人の男を撮影した。距離が遠く、胸の辺りで撮影したために上手く二人の姿を捉えることができなかったが、撮影ボタンを連続して押していたので何枚か綺麗に撮れている物があった。

 ラフな格好の男とスーツ姿の男が津上のマンションへ入って行き、それを見送ると金村は立ち上がった。

 〝草加さんに報告しておくか…〟

 まず撮影した写真を送信してから、金村は草加に電話をかけた。

 「どうした?」呼び出し音が3度鳴った後に草加が電話に出た。

 「彼の自宅で携帯電話を見つけました。しかし、暗証番号の入力が必要なので、まだデータの確認は
できていません。」人通りの少ない道を歩きながら、金村は淡々と報告した。

 「その電話をいつもの場所に置いてください。ところで、まだ彼は見つかりませんか?」と草加。

 「申し訳ありません。これから彼の交際相手に会おうと思います。」

 「分かりました。以上ですか?」草加が会話を切り上げようとした。

 「メールで送りましたが、彼の家に向かう二人組を見ました。」駐車していた車に乗り込みながら金村が言った。

 「久野さんの人ですか?」

 「いえ、先ほど写真を送りましたが、警察関係者だと思います。」

 しばらく沈黙が続いた後、草加の声が聞こえてきた。金村は電話の相手が送信した写真を確認したのだと思った。

 「噂の対テロ組織かもしれないですね。『JCTC』という組織だそうです。」

 「対処しますか?」

 「いや、今は彼に集中してください。」

 「分かりました。」

 「お願いしますよ。」

 そして、通話が切れた。



***



 津上翔一は何度もドアの覗き穴で廊下の様子を窺った。

 〝まだなのか?〟

 津上は忙しなくドアの前を行ったり来たりしており、3時間前に連絡を試みた連絡員はまだ姿を現さない。彼は会合場所として使用したことのあるビジネスホテルに滞在していた。部屋は非常階段に近い場所にあり、何かあってもすぐ逃げられるようになっている。

 〝遅すぎるッ!〟

 新幹線の爆破から12時間経っていたが、津上の緊張状態はまだ収まっていなかった。『紅蓮』や久野の仲間たちに見つかる恐れもあり、事情を知らない警察に逮捕されてしまう可能性もあった。

 〝早く来てくれッ!〟覗き穴から廊下の様子を注意深く見ながら津上は願った。

 その時、彼の部屋に近づいてくる足音と服の擦れる音を耳にした。

 〝来たか?〟

 だが、音は彼の部屋の手前で止まり、隣室のドアが開く音が聞こえてきた。津上は落胆して額をドアに押しつけた。

 〝早く来てく―〟

 ドアに小さな衝撃が走り、それが津上の額に伝わった。驚いた彼はドアから身を引き、2秒ほど体を硬直させた。誰かがノックしただけなのだが、不意を突かれた津上は怯えてしまった。再びノックする音が聞こえた。恐る恐る覗き穴に近づくと、見慣れた顔の男が立っていた。安堵したのか、津上の体から力が抜けて崩れ落ちそうになった。

 再びドアがノックされた。急いで津上がドアを開け、男を部屋に招き入れた。

 「待ってましたよ!」ドアを閉めるなり津上が言った。

 灰色のスーツを着た背の低い男は一言も発せず、狭い部屋の隅々に視線を走らせていた。

 「どうしたんですか?早く俺を安全な場所に連れて行ってくださいよ!」津上は無口の男に苛立ち、声を大にして言った。

 スーツ姿の男が胸ポケットからスマートフォンを出し、その画面を確認するとポケットに戻して津上を見た。

 「盗聴の恐れがあるからな。隣室で待機している部下が妨害電波を出すまで、話せなかったんだ。」

 「そんなことよりも、安全な場所に―」

 「その前に聞きたいことがある。」男が津上を遮った。「あの爆弾を仕掛けたのはお前なのか?」

 津上は黙って視線を逸らした。「仕方なかったんですよ…」

 「関係のない親子を殺す必要もあったのか?」

 公安捜査官の言葉を聞いた津上は驚き、目を見開いて目の前に立つ男を見た。

 〝死んだ?〟

 「事の重大さに気づいたようだな。いずれにせよ、お前を隠れ家に移送する。詳しい話しは後で聞こう。」男が津上の横を通ってドアへ向かった。

 「待ってください!その前に彼女と合流させて下さいッ!」津上が男の背に向けて言った。
振り返って男が津上を睨みつけた。「お前の女は『紅蓮』に近いから無理だ。」

 「彼女は違う!」

 「俺はお前よりあの女に詳しい。大人しくついて来い。」

 「仁美と一緒じゃないとダメだ!」

 そう言うと、津上は男を押し退けて部屋を飛び出した。

 
 
***



 着信音が室内に鳴り響いた。

 「はいはい…」井上がジーンズのポケットからスマートフォンを取り出し、電話に出た。

 「井上?」電話は新川からであった。

 「お、新川ちゃん?調子はどうよ?」

 「馴れ馴れしいな…。アンタが送ってきた写真の女の身元が分かったよ。」新川の口調は早く話しを切り上げようとするように、ぶっきらぼうなものであった。

 井上は浦木にも聞えるようにスピーカーモードに切り替えた。

 「名前は尾崎仁美ちゃん。文京区の大塚4丁目にあるマンションに住んでるみたい。職場は都営新宿線菊川駅の『ジョナサン』だって。津上との交際期間は約2年で、警視庁の公安部は『紅蓮』との繋がりがあると疑ってるみたい。」

 「尾崎の自宅住所を教えてもらえませんか?」浦木が尋ねた。

 しばらく沈黙が続き、浦木と井上は分析官の反応の遅さに疑問を抱いた。

 「井上さん、いつからスピーカーにしていたんですか?」新川の口調が明らかに変わった。

 「ついさっきだよ、新川ちゃん。」井上には分析官の意図が理解できなかった。「それより、その女の住所をオレたちの携帯に送ってよ。なんだか班長、この事件を早く解決させたいみたいだし…」

 「分かりました。少々お待ちください。」

 「それじゃ、オレたちは車に戻るか…」

 井上が玄関に向かって歩き出し、浦木は先輩の後を追うように歩きながら部屋の様子をもう一度注意深く見回した。しかし、目を引くようなものは見つからなかった。

 「どうせ、鑑識がこっちに来るだろうし、俺たちは津上の交際相手に集中しようぜ。」

 「ですね…」



***



 着替えを終えてロッカー室を出ると、尾崎仁美はキッチンにいた従業員たちに挨拶して外に出た。スマートフォンを取り出して画面を確認すると、14件の不在着信と3件の未読メールがあった。

 〝翔一くんかな?〟

 指紋認証で画面のロックを解いてメールを開いた。送信主は交際相手の津上翔一であり、内容は〈店で待ってて!〉であった。

 〝迎えに来てくれるのかな?〟返信を打つ込みながら彼女は思った。

 「尾崎仁美さんですか?」背後から男の声が聞こえてきた。

 振り返るとそこには坊主頭の男が笑顔を浮かべて立っていた。見知らぬ男性の出現に尾崎は驚き、スマートフォンを両手で持って胸に当てた。

 「どちら様ですか?」男の顔に見覚えがあるかどうか、記憶の糸を手繰ってみたが、思い当たる節がなかった。

 「津上翔一さんに頼まれて来ました。どうやら仕事のトラブルに巻き込まれたみたいで、代わりにあなたを迎えに行くよう頼まれたんです。」金村はどうにかして尾崎を人気の少ない場所へ誘導したかった。

 「な、何があったんですか?」

 「私も詳しく聞かされていないんです。尾崎さんなら知ってると思ってましたが…」

 「何も知りませんよ。」尾崎は坊主頭の男から目を逸らさなかった。

 「いずれにせよ、津上さんのところに急がないと。彼はあなたしか知らないことがあると言ってました。」

 状況が飲み込めなかったが、尾崎は金村の表情と口調から危険人物ではないと思った。

 「分かりました。翔一くんのところに連れて行って下さい。」

 「車まで案内します。」

 金村に連れられて尾崎は、勤務先の横にある道路を挟んだ3階建ての建物に近づいた。1階が駐車場になっており、上の階がオフィスになっていた。駐車場は薄暗く、停まっている車の数は少なかった。坊主頭の男が鍵を取り出し、リモコンの解除ボタンを押した。電子音と共に乗用車のライトが点滅してロックの解除される音が聞こえた。

 「ちょっと待て!」車まで残り1メートルと迫ったところで背後から声をかけられた。
 振り返ると二人組の男が駐車場の出入り口に立っていた。顔は良く見えなかったが、一人はジャージ姿で、もう一人は白い長袖シャツにカーゴパンツ姿であった。

 「お前、その人を何所に連れて行く気だ?」ジャージ姿の男が金村を睨みつけながら近づいた。もう一人の男は少し遅れて仲間の後を追い、周囲の状況に目を配らせた。

 尾崎は怯えて金村の背後に隠れた。

 「どちら様ですか?」坊主頭の金村が冷静な口調で尋ねた。その際に彼は右手に持っていた車の鍵を左手へ移した。

 「誰だっていいだろうがッ!俺たちはその女に用があるんだ!」

 ジャージ姿の男との距離が2メートルに迫った。

 〝久野という男は、本当に使えない…〟

 距離が1.5メートルとなった時、金村は車の鍵をジャージ姿の男の顔目がけて投げ、素早く右手を腰へ伸ばして刃渡り10センチのナイフを取り出した。相手が鍵に気を取られている間に金村は、ナイフで男の腹部を一突きした。予期せぬ攻撃にジャージ姿の男は驚いたが、素早く右拳を坊主頭の男に向けて繰り出した。だが、彼の拳は空を切っただけであった。
 
 金村は素早く相手の左へ回り、ジャージ姿の男が拳を繰り出すと同時に相手の首を切り裂いた。大量の血が傷口から吹き出し、もう一人の男との距離を縮めようとしていた金村の右肩に血が付着した。
カーゴパンツ姿の男は恐怖して逃げようとしたが、すぐに追いつかれて背中を切りつけられた。男はバランスを崩し、その際に金村が相手に飛び掛かり、地面に倒れると男の頭をアスファルトに何度も叩きつけた。

 二人の男を始末した金村は、ナイフに付着した血をカーゴパンツ姿の男の服で拭って尾崎を見た。彼女は一瞬の出来事に目と口を大きく開いたまま固まっており、声を出すことすら忘れていた。

 「申し訳ありませんね。とんだ邪魔が入ったもので…」金村が尾崎に近づいた。

 二人の男をあっさりと殺害した男が接近しているというのに、彼女の脚は石のように固く、言うことを全く聞かなかった。

 「ヒトミッ!」駐車場に男の声が響いた。

 金村が振り返ると、そこには一日中探していた男の姿があった。彼は素早く彼女の背後に回ってナイフの刃を彼女の喉に押し当てた。

 「はじめまして、津上さん…」金村が笑みを浮かべて言った。



***



 尾崎仁美の自宅を訪ねたが留守であった。

 「職場ですかね?」と浦木。

 「だろうな…」

 井上と浦木は尾崎の職場へ急ぎ、警察の身分を偽ってそこの店長に彼女のことを尋ねた。中年の女性店長は「ついさっき帰った」と教えてくれた。また、店長は「ガラの悪い男二人組にも同じことを聞かれた」と愚痴を溢した。

 二人の捜査官はお礼を言って店を後にし、二手に分かれて尾崎を探すことにした。井上は右、浦木は左へ走り出し、写真で見た女性の姿を探し求めた。

 その時、浦木が男の叫び声を耳にした。彼はその声を追って店の横にあった狭い道へ入り、尾崎の姿を探した。危うく通り過ぎるところであったが、浦木は1階が駐車場になっている3階建ての建物で捜索対象者の姿を発見した。だが、彼女の首にはナイフが突きつけられており、尾崎の背後にいる男は笑顔を浮かべながら、彼らから3メートル離れた場所に立っている男と向き合っている。

 〝津上翔一?〟

 尾崎と彼女を拘束する男の近くには血を流した男性2人がおり、2人とも死亡しているように見られた。幸いなことに浦木は彼らの視界の外にいたため、存在に気付いていなかった。

 〝井上さんを呼ぶ時間が惜しい!〟

 浦木は尾崎を抑えている金村に向かって走り出した。



***



 「はじめまして、津上さん…」金村が津上に笑みを送った。

 「仁美は関係ない。用があるのは俺だろ?」津上の額には大粒の汗が浮かんでいた。彼は壁に沿って歩き、金村との距離を詰めようとした。

 「そうはいかないんですよ。残念ながら…」金村はナイフの刃を尾崎の喉に強く押し付け、津上の姿を追うように体の向きを変えた。「二人に用が―」

 その時、坊主頭の金村が斜め後ろから近づいてくる足音を耳にした。それは確実に彼に近づいており、そして、早かった。金村が振り返ると、猛スピードで近づいてくるスーツ姿の男を目撃した。

 〝コイツ、あの時の!〟瞬時に金村は近づいてくる男が、津上のマンションに入っていた二人組の一人であることに気付いた。彼は尾崎を盾にしようとしたが、浦木の動きの方が早かった。

 浦木はフェイントとして、右前蹴りを放つ動きを見せた。すると、金村が尾崎の喉に押し当てていたナイフを水平に大きく振り、捜査官との距離を開けようとした。ナイフが振り切られる前に浦木は相手の腕を両腕で抑え、左手で金村の手首を掴むと右掌底を相手の額に叩き込んだ。

 今がチャンスだと思った津上は、急いで尾崎の手を引いて走り出した。
すかさず捜査官は、ナイフの握られている相手の右拳を包み込むようにして握り、左右の手で相手の右手を制御しながら反時計回りに上へ捻じり上げた。

 攻撃に後れを取った金村であったが、右手の自由を得るために左膝蹴りを浦木の右横腹に叩き込んだ。そして、左手で拘束されている右手を押し付けて捜査官の顔を殴ろうとした。間一髪で二打目を浦木は回避したが、金村はそれを予期して素早く右踵を相手の左足首に引っかけて手前に引いた。

 突然のことに浦木はバランスを崩し、どうかして左足で上手く体勢を立て直した。その間に金村は右手を勢い良く引いて、捜査官の手を振り切り、素早くナイフを突き出した。

 反射的に捜査官は体を右に傾けながら左腕を上げて防御の構えを取り、その際にナイフの刃が上着の袖を深く切り裂いた。素早く浦木は右腕を伸びた相手の腕の下に入れ、大きく時計回りに回して金村の右側面へ移動し、相手の右肘を左手で掴んで右側頭部に拳を叩き込んだ。

 金村は右腕を振ろうとしたが、固定されて上手く動かすことができず、仕方なく左拳を繰り出した。それと同時に浦木が左手を滑らせるように相手の肘から手首に移動させ、その作業が終えた頃に相手の左拳を右側頭部に浴びた。だが、彼は怯まずに左手を手前に引きながら、右拳をナイフの刃の横に叩きこんで金村のナイフを弾き飛ばした。

 〝クソッ!〟ナイフを失ったことで不利になったと金村は思った。

 それでも彼は諦めずに再び左拳を繰り出した。しかし、捜査官は身を屈めてそれを回避し、立ち上がる勢いを利用して左膝蹴りを相手の腹部に叩き込んだ。金村は予期せぬ攻撃に怯み、前屈みになってしまった。

 相手の隙を見た浦木は間を置かず、相手の右脇に右腕を入れて固定し、さらに金村の首筋に左手を添えて斜め下へ落とすように誘導した。素早く動いたため、激しく相手の床に叩きつけてしまったが、拘束には成功した。急いで左脚を相手の首の上に置き、左手で金村の右腕を目一杯後ろへ引いて固定すると右手を手錠へ伸ばした。速やかに坊主頭の男を後ろ手で拘束した浦木は、津上と尾崎の姿を探した。

 しかし、駐車場に二人の姿はなかった。

 〝やっちまった…〟浦木は愕然とした。

 「浦木さぁ~ん」井上の声が聞こえてきた。

 冷や汗を浮かべる浦木が先輩捜査官の方を見ると、そこには津上翔一と尾崎仁美の姿もあった。

 「どうやって?」浦木が立ち上がった。

 「君との連絡が途絶えて戻ってきたら、二人に会っちゃってね。」井上が尾崎と共に手錠で拘束された津上の肩を叩いて言った。「君の大胆さには驚かされるけど、たまにはオレみたいにスマートにならないとね…」



***



 連絡を受けた半田は田丸班の武内と小西を連れて現場へ向かい、津上翔一、その交際相手である尾崎仁美、そして、拘束した坊主頭の男をバンに乗せて本部へ戻った。

 「これでオレたちの仕事も終わりだな!」バンを見送った井上が言った。「せっかくだし、近くのファミレスでメシでも食ってか?」

 「でも、始末書があるのでは?」と浦木。

 「そんなもんは後でも書けるって。班長に呼ばれる前にパパっと済ませようぜ。」

 「わかりました。」

 二人が尾崎の勤めるファミリーレストランへ入ろうとした時、井上の携帯電話が鳴った。

 「まさか!」驚きながら井上が電話に出た。電話をかけてきたのは半田であった。

 「井上、寄り道しないで始末書書きに帰って来いよ。」そう言うと、半田は電話を切った。

 「バレてたか…」

 「班長ですか?」浦木が尋ねた。

 「そうだよ。寄り道せずに始末書を書けとさ…」

 「でも、ちょっとくらい休んでもいいと思いませんか?」新人捜査官の口元を緩めて言った。

 「だな!」

 二人はレストランへ入って行った。



***



 伸びをして井上は再びコーヒーを飲もうと、マグカップを持ち上げて口に近づけた。 向かい側の席を見ると浦木が帰る準備をしていた。

 「帰るのか?」井上が椅子から立ち上がって言った。

 「流石に徹夜で始末書は疲れますよ。」

 「だな…。俺も帰ろう。」

 オフィスには彼ら二人しかおらず、明かりも二人の机に置かれているスタンドランプしかなかった。

 「二人ともご苦労さん。」オフィスに半田が入ってきた。

 井上と浦木は班長の姿を二度見し、最後に腕時計を確認した。早朝4時。

 「班長?どうしたんですか?」

 「ちょっと問題があってな…」半田が自分の椅子に腰掛けた。

 「それじゃ、家には一度も帰っていないんですか?」と浦木。

 「まぁな…」

 井上と浦木は驚いて顔を見合わせた。

 「始末書は終わったのか?」半田が部下の顔を交互に見て尋ねた。

 「はい」と井上が言い、浦木は頷いた。

 「そうか。なら、帰ってもいいぞ。用があったら電話する。今日と明日は分析官たちの仕事になりそうだからな。」半田がデスクトップ・コンピューターの電源を入れた。

 「それはそうと、班長…」椅子に戻って井上が半田の方に体を向けた。「結局、あの爆破事件ってどうなったんですか?」

 「あの件は忘れろ。俺たちには関係ないことだ。」

 井上と浦木は上司の言葉に納得できなかった。

 「でも、ことの顛末くらいは知りたいですよ。」井上が両腕を組んだ。

 「浦木もか?」半田が新人捜査官を見た。

 「はい…」

 半田は小さく頭を左右に振ると立ち上がった。「ついて来い。」



***



 「それじゃ、計画に支障はないんだね?」草加が横に座る男に尋ねた。

 「はい。」紺色のスーツを着た黒縁眼鏡の男が応えた。

 「いつ頃、実施できるかな?」

 「2ヶ月後には実施可能かと思われます。」

 「それは良い。」草加が口元を緩めた。

 「ゆえに時が来るまで、接触を避けた方が良いかと思います。」

 「そうだね。」

 「私はこれで失礼します…」

 男は草加の方を見ずにベンチから立ち上がって公園を後にした。

 “2ヶ月か…”



***



 半田に連れられて井上と浦木は建物の屋上にやってきた。

 「何で屋上なんですか?」と井上。

 「俺のお気に入りの場所だからさ…」半田が転落防止柵に寄り掛かり、黎明の色に染まる東京の街を
見ながら言った。

 二人の捜査官は並んで上司の背中を見た。

 「津上は公安部の内通者だった。」半田が口を開いた。

 「え?」井上と浦木は驚いた。

 「俺も驚いたさ。でも、奴にも事情があったらしい。津上の話しが正しければ、『紅蓮』は大規模なテロ攻撃の準備をしている。その準備を成功させるため、『紅蓮』メンバーの動きを減らし、代わりに下部組織を利用して構成員や物資を集めようとしていたそうだ。」

 「それと津上が爆弾を仕掛けた理由の関連は何です?」と浦木。

 「テロ攻撃を知った津上は、公安部の管理者に連絡して『紅蓮』メンバーに対する強制捜査を提案した。しかし、証拠不十分ということで公安部はそれを無視した『紅蓮』やその下部組織内部でも裏切り者探しが始まっていたこともあって、急いで津上は『紅蓮』が使ったことのある爆弾製造者に爆弾の製造を頼み、『紅蓮』の犯行に見える攻撃を行なおうとした。」

 「じゃ、もう一人の男…枝野は?」井上が口を挿んだ。

 「攻撃の計画を練った後、爆弾だけでは物足りないと思った津上は、枝野を誘ったらしい。確かにあの男と偽爆弾の存在で、2課はすぐ『紅蓮』の攻撃だと予想した。」

 「でも、爆破させる必要はなかったはずです。」浦木が言った。

 「津上はそう思ってなかったんだろうさ。」井上が間に入った。「アイツは公安部かオレたちに情報を流し、枝野を拘束させ、さらに爆弾を起爆させたかったんだろう。『紅蓮』の犯行に見せるためにな。それに、もしかしたら、津上は起爆装置を持っていたかもしれないし…」

 「井上の推測通り、津上も起爆装置を持っていた。」半田が振り返った。「津上は注目を浴びる事件さえ起これば、『紅蓮』が解体され、自由の身になれると思ったのさ…」

 「それで公安部は『紅蓮』に対して強制捜査をするんですか?」と井上。

 「しない。この件は津上翔一と枝野薫の二人が引き起こした、『紅蓮』とは関係のない事件として処理される。」

 「やっぱり…」井上が頭の後ろで手を組んだ。

 「いずれにせよ、これは2課の事件で俺たちの管轄外だ。もう関わることもない…」半田が転落防護柵から離れて出入り口へ向かった。

 「だといいですね…」そう呟くと、井上は浦木と共に上司の後を追った。








おわり

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