返報 13-1 [返報]

 「帰れ。」
 中島の声には何の感情も込められていなかったが、藤木は危険を察知してベンチから立ち上がった。
 「最後に一つだけ…復讐なんて考えないでくださいよ。」
 銀縁眼鏡の男がベンチから離れようとした時、背後から殺気を感じた。
 “勘弁してくれよ…”藤木は肩越しに中島を見る。SAT隊員は元公安の男を黙って見つめていた。
 「復讐?」中島が藤木の背中に向けて言った。
 「そうですよ。」藤木は敢えて振り返らずに答えた。「あなたはもう“あの事件”に関わる必要はない。」
 「俺は公安じゃないから、お前の言っていることが分からねぇよ。」
 背後に感じる殺気によって藤木の背中は冷や汗で濡れ、両脚も震えていた。
 “ここまで威圧するかよ!”
 数メートル離れた場所で待機していた藤木の同僚も中島の殺気を感じて身震いし、ホルスターに収められていた銃に手をかけたほどであった。
 「中島さんに…」藤木がハンカチで額に浮かんでいた冷や汗を拭って振り返った。「中島さんに話さなければならないことがあります。」


















13-1






 多くの人が行き交う地下街で悲鳴が上がった。
 女性からハンドバッグを奪った若い男は人々の間を縫うようにして進み、地上へ続く階段を一段飛ばしで駆け上がった。地上に出て数メートル走った男は現場から十分離れたと思い、上着の下に盗んだ鞄を隠して路地裏へ逃げ込もうとした。
 「待て!」背後から叫び声が聞こえてきた。
 男が振り向くと、追跡してくる制服姿の警察官を見つけた。
 “マジかよ!”
 窃盗犯は再び走り出した。制服警官は装備の付いたベルトを左手で抑えながら、逃走を図る犯人を追う。二人から遅れを取って40代初めの制服警官が階段を上がってきた。
 「ま、待てよ…」肩で息をする警官は声が届かないと分かっていても、先を走る後輩警官に向かって言った。
 若い後輩警官はオフィスビルが建ち並ぶ通りを走り、時々後ろを振り返りながら逃走する窃盗犯の後を追っている。犯人は通行人や車両と接触しそうになってよろけたが、上手くバランスを取って走り続けた。執行猶予中であるこの男は段々と脚に疲れを感じ、このままでは逮捕は免れないと思った。
 “捕まるなんてゴメンだ!!”
 そう判断した男は盗んだ鞄を地面に叩きつけるようにして投げ、警官がそれで追跡を諦めると推測した。しかし、制服警官は走りながら身を屈めて盗まれた鞄を拾い上げ、再び窃盗犯に目を戻す。
 “何なんだよ、アイツ!”
 警官の行動を目撃して窃盗犯は悪態ついた。そして、彼が顔を正面へ戻すと右から飛び出してきた車に轢かれ、その衝撃で地面に叩きつけられた。車を運転していたスーツ姿の女性が倒れた窃盗犯に走り寄ろうとした時、制服警官がそれを制して男の右手首に手錠を取り付けた。
 「13時34分。窃盗の現行犯で逮捕する。」警官が呼吸を整えて言う。
手錠をかけられた男は観念した様子で何も言わず、大人しく制服警官に誘導されて道端に座り込んだ。
 「西野!」先輩警官がやって来た。「お前は…やり過ぎだ…」息を切らしながら40代初めの制服警官が言う。
 「でも、バッグを取り戻せました。それに逮捕もできました。」と西野。
 「いっつもだが、お前との巡回は最悪だよ…」







 「本気でも構わないよ。」紺色のシャツにベージュのカーゴパンツ姿の中島が両手を肩の高さまで上げて言う。
 それを聞いてSATの訓練生は眼光を鋭くして、両手を中島と同じ高さまで上げる。二人の体格はさほど変わらないが、数センチ訓練生の方が高くて手足も長い。間合いで比較すれば、訓練生が優位である。また、中島は防具などを身に着けていないが、訓練生はグローブ、脛当て、ファウルカップを装備していた。
 「行きます!」訓練生が大声を張り上げた。
 これは中島を怯ませるための行為であり、彼は一定の効果を生むと思っていた。しかし、訓練生が動き出そうとした時、中島は彼の股間を左足で蹴り上げた。本気ではなく、それにカップで股間は守られていたが、不快感と微かな痛みが訓練生の戦意を削ぐ。
 間を置かずに素早く中島は左手を訓練生の頭と右手の隙間に入れるように突き出し、その際に右肘を訓練生の顔面に叩き込む素振りを見せる。肘に気を取られた若いSAT訓練生は後退しようとするも、現役のSAT隊員はその前に突き出していた左腕を訓練生の右腕に巻き付け、さらにフェイントとして繰り出した肘の勢いを利用して右手を訓練生のうなじに添えて右膝を股間へと繰り出す。金的を恐れた訓練生の体は前のめりとなり、それを確認するなり中島は左足を軸にして90度回転しながら、訓練生を床へ倒すようにうなじを押す。訓練生は右腕を固定された状態で床に押し付けられ、肩に激しい痛みが走った。
 「相手に出るタイミングを教えるのは良くない。これが訓練であってもね…」他の訓練生たちに向かって中島が言う。
 訓練生たちの表情は引きつっており、自分も同じ目に遭うかと思うと憂鬱になった。それを悟った中島は笑みを浮かべ、拘束していた訓練生から手を離して立ち上がるのを助ける。
 「嫌がらせをしている訳じゃないんだよ。」と中島。「訓練の時についた癖は、必ず実戦にも出る。いくら気を付けていてもね…」
 全ての訓練生がこの説明に納得した訳ではなかったが、それでも新人教官の言葉を胸に留めることにした。
 「じゃ、次、行ってみようか…」
 これに訓練生たちは怯えた。
 ”勘弁してくれよ…”
 「行きます!」訓練生の最後尾から手が上がり、挙手した者が前に出て来た。
 その顔を見て中島は笑みを浮かべた。そして、前に出て来た男も満面の笑みを浮かべている。訓練生たちは見た事ない男の出現に驚き、それぞれ顔を見合わせる。
 「しかし、教官にお願いがあります。」前に出て来た男が言う。「一人で勝つ自信がないので、他の訓練生と組んで教官に挑んでも良いでしょうか?」
 「構わないよ。」中島はあっさりと応じた。「でも、君はもう訓練生じゃないだろ?」
 「つい懐かしくて…」
 「相変わらずだな、三浦…」人差し指で頬を描きながら近接戦闘の教官が言った。「あと5分しかないから、すぐ始めよう。」






 空のハンガーを掴んで制服の上着を掛けると西野は溜め息をついた。疲れからではなく、先輩からの説教が原因だった。彼の先輩はあまり犯人逮捕に積極的ではなく、追跡しても途中で諦める事が多い人物であった。事実、西野が署に戻ってくる前も、「過度な追跡は犠牲者を増やすだけだ」と言って、彼は部下の言葉に耳を貸そうとはしなかった。
 「どったの、西野ちゃん?」4つ隣のロッカーで着替えていた同期の熊谷が喋り掛けてきた。「溜め息なんてついてさぁ~。寿命が縮まっちゃうよ。」
 「何でもないよ。」と西野。
 「水臭いなぁ~。同期なんだし、困った時はお互い様じゃないかぁ。」
 「いつもと同じさ。村上先輩だよ。あの人とは話しが合わない…」白いポロシャツをロッカーから出して西野が言う。
 「村上さんはそういう人だろ?あまり気にすんなよ。そんなことより、最近の携帯ゲームのグラフィックって凄いよなぁ~。もうゲーム機なんていらなくなるかも。」
 西野は口元を緩めて熊谷の話しに耳を傾けた。
 「でも、課金制度は―」
 その時、更衣室のドアが開いて、西野が担当する交番の所長が入って来た。
 「西野、ちょっと来てくれ。」
 「あっ、はい。」
 「私服でも構わん。」
 「分かりました。」急いでポロシャツを着て、西野はロッカーのドアを閉める。
 「何やらかしたの?」と熊谷が小声で尋ねた。
 西野は小さく首を傾げ、更衣室のドアで待つ上司へ急いだ。






 ドアをノックする音を聞いて菊池信弘は読書を中断して顔を上げた。
 「どうぞ。」そう言って、丸縁眼鏡をかける菊池は上着の胸ポケットに入れていた栞を本に挟む。
 「失礼します。」ドアを開けて細身の若い男性が入って来た。
 菊池の研究室は大量の本、新聞、雑誌、書類で埋め尽くされており、それらは高く積まれて並べられている。若い男性は積み上げられた本と雑誌に触れないよう、慎重に教授の机へと続く細長い道を歩く。彼はこの教授の部屋に来る度に、大学付近にある埃臭い古本屋のことを思い出した。その古本屋もこの研究室のように本が通路脇に積まれていて、移動するのが難しい場所なのだ。
 「おぉ、三須君か…片付けようと思ってたんだけどね…」椅子から立ち上がると、初老の男は机の向かい側にある客人用のソファー上にあった雑誌と書類を床に放り投げる。「座ってくれ。」
 「すみません、先生。」肩掛け鞄を膝に置き、三須と言う名の学生は色褪せた二人掛けのソファーの端に腰を下ろす。
 「今日は何の用かな?」と菊地教授が話しを切り出した。
 「先週出された課題について質問があるんです。」そう言うと、学生は鞄からクリアファイルを取り出して菊池に手渡す。そして、次に彼はメモ帳とペンを取り出した。
 ファイルを受け取ると、菊池は胸ポケットからペンを取り、クリアファイルの中から4枚の紙を抜き取る。4枚中3枚は白紙であり、一番上にある紙には短い文章が書かれていた。
 『盗聴の心配はありませんか?』
 「やっぱり、レーニン主義について詳しく言及すべきですか?個人的にはマルクス・レーニン主義の説明があれば、20世紀のソ連における政治体制の説明はできると思うんですが…」三須は盗聴の可能性を考えて話しを続ける。
 菊池は学生の声に耳を傾けながら、手にした白紙の一枚の上でペンを走らせて紙を三須に見せる。
 『守谷たちが点検したが、それらしき物はなかった。』
 この教授も慎重であり、可能性が低くても筆談を止めようとはしなかった。
 「マルクス・レーニン主義はレーニン主義を踏襲してるから、できる限り触れて欲しい。『大粛清』のせいで残虐性ばかり注目されているが、注目して欲しいのは革命によって資本家の搾取を無くし、真の社会主義世界を樹立するというボルシェビキ指導部が持っていた理念についてなんだ。」
 『楠木がマニュアルを手に入れたと言ってます。』
 「やはり、革命の話が必要ですか?」メモ帳に書いた文を教授に三須が見せて言う。
 「ソ連の政治に革命は付き物だったからね。」
 『人手は?』
 菊地が紙に書き込んでそれを三須に見せる。
 『あと4人は欲しいです。現在26人います。』
 「そうですか…じゃ、先生が言った事を書けば、良い点がもらえるんですかね?」
 「そうだね~、取れるかもしれないね。」
 『できる限り、信用できる人間を集めてくれ。』
 そう紙に書くと、菊池は紙をファイルに戻して学生に返した。
 「頑張って書いてきます。」クリアファイルを受け取ると、三須はソファーから立ち上がった。
 「期待してるよ。」
 「はい。」




 ビールを飲み干すと、三浦大樹はジョッキを机に置いて左手で口元を拭う。
 「先輩って、悪魔的に強いですよね!」と正面に座る中島を見て後輩SAT隊員が言った。「5人で行ったのに、4発くらいしか入れられなかったし!」
 「お前が弱すぎるんだよ。」久々の再開に中島は笑みを浮かべる。
 「そんなことないですよ!これでも今の隊では強い方ですし!」
 「なら、お前んのトコは最弱の隊だな。」枝豆を口に放り込んで先輩SAT隊員が言う。
 「酷いっすよ、先輩。」三浦が口を窄める。
 ちょうど二人の横を女性店員が通り、三浦はビールの御代わりを頼むために呼び止めた。
 「先輩も頼みますか?」自分のビールを注文すると、三浦がメニューを指差して尋ねた。
 中島は首を横に振ってビールを飲む。注文を受けた店員は空いた三浦のジョッキを持って、その場から離れる。
 「そう言えば、交通課のあの子とはどうなんだ?」先輩SAT隊員が話題を変えた。
 これを聞いて三浦は口へ運んでいた唐揚げをテーブルに落とし、すぐにそれを箸で拾い上げる。露骨な反応であったが、それ程まで彼は動揺したのだ。
 「な、何の話しですか?」
 「この前、お前と交通課の恭子って子が手を継いでいるのを見たという奴がいてねぇ~」中島がニヤニヤしながら言う。「んで、気になったのさ。」
 飲酒で赤くなっていた顔を一層赤く染めて後輩SAT隊員は唐揚げを口に放り投げた。
 「付き合ってます。」噛み砕いた唐揚げを飲み込むと、小さな声で三浦が言った。
 「え?」中島はワザと聞き返した。
 「彼女と結婚を前提に付き合ってます!」三浦は情報を少し付け足して声を大にした。
 すると、10代と思われる男性アルバイト店員が三浦のビールを持ってきた。後輩SAT隊員は見ず知らずの人間にこの話しを聞かれて恥ずかしくなった。
 「おめでとう!!」中島が自分のビールジョッキを持ち上げる。
 「あ、ありがとうございます!」
 三浦もビールジョッキを持ち上げ、二人は互いのグラスを軽くぶつけてビールを飲む。
 去年まで同じ隊で活動していた二人はまるで兄弟の様に仲が良かった。事実、中島は三浦を弟の様に可愛がり、三浦は中島を兄の様に慕っていた。
 「実は…今日はお話しがあって、先輩を誘ったんです…」妙に改まって三浦が口を開いた。
 「まさか、結婚の仲人の依頼か?」中島は三浦をからかうのが好きで堪らなかった。それほどまで彼を気に入っているのだ。
 「いえ、違います…」
 真剣な顔になった後輩を見て中島は心配になった。「どうした?」
 「ちょっと…新しい仕事が入ったんです…」声を次第に小さくし、三浦は前傾姿勢になって会話を聞かれないようにする。「実は…」







 「潜入捜査……ですか?」西野がオウム返しに尋ねた。
 彼は警察署の2階端にある会議室にいる。その薄暗い室内には彼の他にスーツ姿の男がおり、彼らは長机を挟むように腰掛けていた。
 「そうだ。」40代半ばに見える男が身を乗り出して組んだ手を机の上に置く。「我々は君が適任だと思っている。」
 「何故ですか?」状況が呑み込めない西野はできるだけ情報を得ようとした。
 「西野史晃巡査部長。29歳。福井県出身。福井大学国際地域学部を卒業。その後、一般企業に就職するも学生時代に学んだ事を生かしたいと考えて福井県警に出願、そして、採用される。現在は東交番に配属されているね?」言い終えるとスーツ姿の男は身を引き、椅子の背もたれに寄り掛かった。
 「私の経歴と潜入捜査に何の関係があるんですか?」西野は混乱してきた。
 “公安の人か?”
 「今の環境に満足していないだろう?」とスーツの男。
 質問に質問で返されて西野は苛立ったが、男の言った事に間違いはない。
 「そんなことはありません。やりがいのある―」
 「そこじゃない。」男が西野の話しを遮る。「我々は君の才能を埋もれさせたくない。今の上司の怠惰な所に不満を持っているだろう?」
 心を突かれて西野の心拍数が上がった。”どうやって?”
 「3か月前、パナマ船籍の貨物船から4丁のライフルと500発の弾が見つかった。ニュースでは暴力団の仕業と言っていたが、実際は違う。」ここで男は喋るのを止めて西野の反応を見る。目の前にいる警官はまだ先ほど指摘された事に気を取られている様だった。
 “仕方ないな…”そう思いながら、スーツの男は話しを続ける事にした。
 「購入者は静岡に住む大学生だった。最初は単なる実銃マニアだと思っていた。ライフルは錆だらけのガラクタだったが、一応、その学生を逮捕するために彼の住むアパートに向かった。しかし、彼はナイフで自分の首を掻き切って自殺していた。その後、その他に実銃がないか室内を捜索したんだがね、彼は玩具の銃さえ持っていなかった。ウェブの履歴を見ても、その類の閲覧履歴は無かったし、不自然に消された様な痕跡もなかった。奇妙だと思わないかね?」スーツの男が笑みを浮かべて西野に尋ねる。
 「その学生は誰かに利用されていたのでは?失礼ですが、その話しは潜入捜査に関係があるんですか?それに僕と関係のない話しだと思うん―」
 「何者かがテロ攻撃を計画しているはずだ。我々はかなり大規模な物だと想定している。」
 西野は信じられないという表情を浮かべて真正面に座る男を見る。この反応から男は少なからず手応えを感じた。
 「静岡の学生は氷山の一角だ。彼と同じ様に武器を購入した学生を4人確認している。しかし、その後、4人とも行方不明となっている。いずれも京都を囲むようにして活動していた。標的が京都にあるのか、それともそこに首謀者がいるのか?」男は一度口を塞ぎ、眼光を鋭くして西野を見つめた。「我々はコイツらを止めたい。そのためには君が必要なんだ。」
 「だから、何故です?」真向かいに座る男の眼光に西野はたじろいだ。
 「君の性格だよ。揺るぎ無い信念を持ち、人々を助けるために身を投げ出す…テロリストと戦うには必要なことだ。」
 男は褒めたつもりであったが、西野は馬鹿にされている気分であった。
 「明日、またここに来る。」スーツ姿の男が椅子から立ち上がる。「その時までに返事を頼むよ。」
 そう言うと、スーツ姿の男は西野を部屋に残して去って行った。

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